九十話 っぽい
午後になって益々頭がふらついてきたフェリシアは、寝不足と疲れでぼんやりしながら翼棟内を案内されるまま歩いていた。
次は確か式における手順と所作を確認し、その後の披露宴に当たる晩餐会で誰から挨拶をするのか憶えなくてはいけなかったはずだ。
が、全く頭に入る気がしない。
直前の政治に関する講義もほとんど入って来なかったのだから当然だ。
政務に直接携わる事はないのだろうが、この先然るべき場に出て皇子の妃として要人と話しを交えるかもしれないのだから、諸々が丸っ切り分からないのはまずいだろう。
その要人の顔と名前だって今の時点でこんがらがっているのだから、この先交流が増えればもっと大変な事になる。
果たして自分にこなせる責務なのかと頭を抱えかけた所でフェリシアはハッとした。
前を歩いていたはずの案内役が消えていたからだ。
側についていた護衛もいつの間にかいない。
ボーッとしていて道でも間違えてしまったかと慌てて見回していると、背後の通路から人影が現れた。
「フェリシア様! こちらでしたか!」
見れば護衛と思しき騎士が駆けてくる所だった。
「良かった……私、ボーッとしていてはぐれて……すみません。とても広いのでここが何処だかもわからなくなって追いかけようにも……」
「こちらこそ、お側を離れてしまい申し訳ありませんでした。さあ、こちらです」
合流出来てホッと安堵したフェリシアは護衛に誘われるがままついて行く。
途中階段を登ったり降りたりと何度か繰り返した為、まだ構造を把握していないフェリシアは何処をどう歩いているのかわからなくなっている。
なんて広い王宮だろうと思う。
部屋だって翼棟一つでも数百はありそうだ。
きっとここに生まれ育った王家の人達でさえ、把握していない部屋がある事だろう。
そう思ってフェリシアには疑問が浮かぶ。
何故こんなにも広い王宮がありながら、サフィールは敷地の端で隠れ住むように、離宮とも呼べない小さな邸宅で暮らしているのだろうか。
世話をする者も最低限しか置いておらず、昨日の様子や昼間の話しからは呼ばない限りやっても来ないようだった。
王宮での暮らしがどういったものか知らないが、少なくともサフィールの暮らしぶりは一般的ではなさそうな気がした。
何故だろう、と不思議でならない婚約者の事をぼんやりした頭で考えてみていたフェリシアは、床に足を取られて転びかけ我に帰った。
ふと見ると、床はツルツルに磨かれた廊下からゴツゴツとした石造りに変わっていた。
「……あれ?」
今どの辺りなのかは分からないが大分移動した気がする。
それなのに目的地には未だ着かず、今いるここは少なくとも居室や広間がありそうな場所ではない。この床は地下や外通路のような造りだ。
「フェリシア様、どうかされましたか」
足を止めたフェリシアに先導していた護衛が振り返った。
「あ……あの、ここは何処でしょうか? なんだかこのままだと外に出てしまいそうな……」
不安になってそう尋ねたフェリシアに、護衛はにこやかに答えた。
「ああ、これは説明不足で失礼致しました。サフィール様のお住まいへは、ここからでしたら一度王宮外へ出て、裏手より回った方が早いのです。さ、参りましょう」
「……え……?」
護衛の言葉に違和感を覚えてフェリシアの心臓が大きく鳴った。
急に背中が冷たくなって、サフィールに言われた言葉を思い出す。
「あの……〈オオワシの間〉に向かうのではなかったのですか? 午後はそちらで、式次第と所作の確認をと伺って……」
護衛と思われる男がピタリと動きを止めた。フェリシアの心臓の音が速くなる。
顔は憶えたつもりだったが、いま目の前にいる男の顔は紹介を受けた護衛の中にあっただろうか。
「……し、失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか? あなたの顔を見た事がない気がしてきて……」
何だか嫌な感じがしてフェリシアがそう尋ねると、にこやかな笑みを張り付けていた男の顔からスッと表情が消えた。
急に顔つきの変わった男にゾッとして、反射的に逃げようと後退ると男がすかさず腕を伸ばしてきた。
「やっ——!」
掴まれそうになってフェリシアが叫びかけた所で、背後からノイズの混じった低い声が響いた。
「何をしている」
振り向くと、フェリシア達のいる通路の入り口にサフィールが立っていた。
「——チッ」
男はサフィールを認めるとすぐさま身を翻し、通路の奥へ逃げて行った。
それをサフィールの後ろに控えていた近侍の騎士数名の内一人が追い、驚いているフェリシアの脇を駆けて行く。
何が起こったのか分からず、フェリシアが茫然と男達の消えて行った先を見ていると、後ろからサフィールが苛立たしげな声をあげた。
「顔を憶えたんじゃなかったのか。見慣れぬ者に近づくなと言ったはずだ。護衛は廊下で伸びていたぞ。来い!」
「伸びる……って? どういう事ですか……」
「いいから来い!」
何がなんだかわからず動けないフェリシアの様子に痺れを切らしたのか、サフィールはツカツカと歩み寄ると腕を掴んでフェリシアを引きずるように通路から連れ出した。
「あの……今のは何——」
「王宮外に出ていたら最悪どうなったかわからんぞ。護衛は変える。使えぬ者を寄越したな……」
「どうなるって……何がですか?」
「行きずりの悪漢にでも襲われた事にされて殺されたかもしれないな」
「こ……っ⁈」
衝撃的な言葉にフェリシアは目を白黒させる。
「殺されるって……どういう事ですか⁈ そんな事、ここは王宮で——」
「国を出る時に何も聞かされなかったか? 俺は敵が多いんだ」
サフィールはそう言うと、足を止めてフェリシアへ尋ねた。
「お前には俺が何に見える?」
「え……?」
唐突な質問にどういった意図があるのか読み取れず、フェリシアは考え込んでしまった。
何に見えると聞かれても、サフィールは皇子だ。
傲慢で冷酷そうな物言いをする、機嫌が悪いと描いてある顔がデフォルトの皇子に見える。
だがそう伝えるわけにもいかないし、皇子に見えるのは皇子と知っているからかもしれない。
それにあえて聞くのだから、皇子に見えます、が答えになる質問ではないのだろう。
では何と答えたものか、とフェリシアは考えるが寝不足の頭は働かない。
頭のぼんやり加減に、昨晩起きずに眠る努力をすれば良かったと後悔して、サフィールの部屋での事まで思い出す。
捕らえた獲物をいたぶるように、意地悪く裂けた口端を持ち上げていたかと思えば、大口を開け腹を抱えてゲラゲラ笑っていた。
そして急にパタンと眠ってしまって朝は弱いのか気怠げで。
話していたって、さっきまで愉快そうに笑っていたのに急に冷たくなったりと、とにかくころころ態度が変わって掴みづらく、気まぐれな印象を受ける。
何かに似てるなと、うっかりぼんやりした頭に思い浮かべてしまったフェリシアは、つい口から思考を漏らしてしまった。
「猫っぽく見えます」
ぽろりと零してしまった珍妙な答えに、あ、と口を押さえた時には既に遅く、その場の空気が凍っていた。
「——猫……」
凍る空間でフェリシアの答えを小さく復唱したサフィールに、側についていた近侍の騎士二人が青ざめて緊張した面持ちになったのがわかった。
まずい事を言ったのかもしれない。
いや、まずいとフェリシアの頭もやっと気づいて焦りだす。
気位の高そうな一国の皇子を面前で猫呼ばわりしたのだから。
「あ、違います! 今のはその——」
慌てて弁解しようとしたフェリシアだったが、その言葉はサフィールによって遮られた。
「——ハハハハハハハッ!」
突如大きな笑い声をあげたサフィールにフェリシアは驚いた。側に控えた騎士達も非常に吃驚した顔でサフィールを見ているので、予想外の反応なのかもしれない。
「猫か……そうか——」
暫くの後、くつくつと笑いながらそう呟いたサフィールは、またフェリシアの腕を引いて歩き出した。
「あ、あの、殿下⁈」
「暫くは邸内から出るな。各種指導は自室か居間で受けろ。今日の予定は全て無しだ。部屋で大人しくしていろ、いいな」
特に叱責もなく歩き出したサフィールの口調は高圧的だったが、込み上げる笑いを噛み殺しているのがわかる声だった。
状況もサフィールもまったく掴めずに、フェリシアは疑問だらけのまま引きずられるようにして屋敷に連れ戻された。
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