八十九話 おかしさ
翌日、朝早くから数時間掛けて衣装合わせを行い、それが終わったらすぐさま歴史や伝統に関する講義を受けて、やっとサフィールの居宅へ戻って来たフェリシアは大きな溜め息を吐いた。
昨晩は、結局自室に戻ってからも眠れずに夜を明かしてしまった為に今朝は寝不足だった。
そこへ朝早くからギチギチに詰まったスケジュールをこなさなければならず、頭がふらついてくる。
だが、ぼーっとするくらいが丁度いいのかもしれない。
意識がはっきりしていると不安に押し潰されそうになる。
昨晩は運良く逃れられたが、また昨日と同じ事が起こったら今日はきっと回避出来ないし覚悟なんて出来ない。
覚悟したって祖国の為にならないのなら、何の為にここに来たのかさえもわからなくなる。
仕方がないのだと、これが最良の選択なのだと言い聞かせた根拠が揺らいでは、必死に抑えつけてきた心が千切れてしまいそうだ。
暗澹たる思いにぼんやりした意識までも侵食されそうになったフェリシアは、首を振って滲んだ涙と共にもたげる不安を振り切った。
午後からはまた各種指導や式の打ち合わせなどやるべき事が詰まっている。
例え意味が無かろうと今の自分に出来る事は用意されたそれらをこなす事だけだ。
逃げる事など出来やしないし、受け入れ難くも現実なのだから。
束の間ではあるが、せめて昼食の間くらい全てを忘れて心を休めようと、支度を待つ為フェリシアが居間に向かうと先客が椅子に座っていた。
「……殿下……」
昼間でもそんなに明るくはならない部屋で気怠げに長椅子に掛けていたのはサフィールだった。
昼だと言うのに未だガウンのままでいる。
「……し、失礼しました」
昨日の今日で側に寄るのは躊躇われ、フェリシアは下がろうとしたがサフィールが止めた。
「構わん。座れ」
座れと言われてしまっては断れず、フェリシアはおずおずと居間に入った。
気まずさからサフィールの座る長椅子から離れた一人掛けに腰掛ける。
チラッと窺ったサフィールは肘掛けに頬杖を突き、どこかぼんやりした様子だった。
朝に——もう昼近いが——弱いのかもしれない。
着替えていないのもそういう事かとついガウンに目が行き、はだけた部分から覗く褐色の肌に昨晩を思い出してしまって、蘇った恐怖と緊張で下を向いて黙っているとサフィールの方から話しかけてきた。
「昨日のあれは何だ?」
昨日と聞いて身体を固くしてフェリシアが顔をあげると、サフィールが目元を押さえて笑いを堪えるようにしていた。
「あのおかしな口調……今思い出しても——」
余程面白かったのか、噴き出さないように必死に耐えている様子のサフィールに、笑われてちょっぴり傷ついたフェリシアは緊張の方もほんの少しほぐれた。
「あ、あれは……粗暴さを身につける為の特訓の成果です」
「粗暴さ? 何故そんな物を身につける必要がある」
「……ふられたかったからです」
「ふられたい? 赤狼にか? 恋仲だったんじゃないのか」
笑いが治まったのか、サフィールが怪訝そうな顔を向けた。
「その……本当は別の方をお好きなのだとお聞きしたので身を引こうと……それでふっていただきたくて——」
「なんだ、大して深い仲ではなかったか。つまらん、興醒めだ。お前に子を産ますのはやめた。奴が何とも思わないのなら無駄な事だ。そもそも抱こうにも、暫くは昨晩を思い出して無理があるしな」
はぁ、とつまらなそうに溜め息を吐いたサフィールの言葉を聞いて、フェリシアも昨日のような事はとりあえず起こらないのかと安堵して肩の力を抜いた。
憂慮が一つ減って緊張が解けると、今日まで碌におしゃべりしてこなかった口も緩んだのか滑らかになる。
「……昨晩はそんなにおかしかったでしょうか? 完璧に粗暴さを表現出来たと思っていたのですが……」
「あれに何故自信を持っている? どう聞いても笑わせようとしているとしか——」
言いながら思い出したのか、サフィールが口許へ手をやったのでまた笑いだしたのがわかった。
こう何度も笑われては今の今まで習得した粗暴に自信を持っていたフェリシアでも、もしかして満を持して自宅の庭で披露したあの時も実は笑われていたのではと思い至り、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「わ、笑わせるつもりなど、私は真剣にふっていただこうと粗暴さを追求してあの形に……昨日は、必死でしたし、強く訴えたくて咄嗟にあの場で思いついたものがあれだったというだけでして、笑わせるつもりは一切……」
「真剣に粗暴さを追求した結果があれなのか。どう真剣に考えたらああなる……腹が捩れる程笑ったぞ。あんな大声でおかしな事を真剣に叫んでいたんだからな。王宮にまで聞こえると思った程だ」
「おかしなって……夜分に大声で騒いだ事は申し訳なかったと思います。ですが、あれは、殿下があんな……」
「何を必死になっている。別に咎めていない。好きなだけ騒げばいい。どんなに騒ごうと誰にも迷惑はかからない。激しい物音がしようが、窓が破られようが、叫び声がしようが、誰も来ない。断末魔がしたら確認には来るかもしれないが」
「……え?」
「……着替える」
そう言ってサフィールは立ち上がった。
「……殿下?」
急にどうしたのだろうと見上げたフェリシアを一瞥して、サフィールは唐突に言った。
「顔は憶えたか」
「顔?」
先ほどまで愉快そうにして幾分か和らげていたサフィールの表情は、初めてあった時と同じ冷酷さを感じさせるものに戻っていた。
「護衛や側付き、教育担当だ。憶えたか」
「あ、はい。その方達でしたらなんとか……」
「知らぬ顔の者には不用意に近づくな。お前には俺が帝位に就くまで無事でいてもらわなければならない」
そう言ってサフィールはふいっと居間から去って行った。
フェリシアは態度がころころ変わる掴めない婚約者の言葉に戸惑いながら、後ろ姿の消えて行った居間の入り口を見つめた。
*
「どうしてそんな話しになるんですか⁈ それもこんな急に! おかしいです!」
伯父が座る書斎の文机に両手を叩きつけて、ロドニーは感情を露にして訴えた。
「……決まった事だ。今さら変わらない」
「ですが国同士の、しかも皇子との婚姻がこんなに急に、大きく報知される事もなく突然決まるなんてあるわけない! いくらなんでもおかしいです!」
「お前がどう思おうが、事実フェリシアの婚約は成立し、この春中に婚姻を交わす。これは決まった事だ、覆らん」
「……どうしてそんな……伯父上はおかしいと思われないのですか」
諦めたような声で諭した伯父に、ロドニーは憤りをぶつけるわけにもいかなくなり、行き場のない思いを持て余してそう問いかけた。
すると伯父はため息を吐いて一通の書簡を取り出すとロドニーに差し出した。
「……もともと水面下で、両国の和睦の為に王家かそれに準ずる家系の者同士を結ばせる意向はあった。だが長らく折り合わず、ここに至って話しが纏まり選ばれたのが偶々フェリシアだったというだけだ。婚約者選定の経緯が記された書簡もあるが疑義はない。確認するならここにある」
差し出された書簡を受け取って、ロドニーは選定における次第が記された内容を確認しようと、表面がどことなくしわしわしている紙を取り出した。
書き連ねられた文字を目で追う。
すると急に目眩がする感覚がして、意識が遠のくように頭がぼーっとして来た。
眼前を横滑りする文字は意味が全く頭に入ってこないのに、何故だか従わなければいけない気になって来る。
文字を読み進めるにつれ、それまで目の端に映っていた背景がゆっくり崩れていき、段々と意識の全てが視界の中央にある手紙に向かっていく。
何処かで同じ感覚を味わった事がある。いつ、何処でだろう、と頭の隅に残った理性で考えて思い当たったロドニーは手紙からパッと手を離した。
ひらひらと空を舞って手紙が床に落ちると、崩れていた背景は瞬時に元に戻りぼーっとした頭もハッキリした。
「どうした?」
急に手紙を取り落とし厳しい表情をしたロドニーを不審に思ったのか伯父がそう尋ねてきたが、ロドニーは無言で手紙を拾うとそれを持ったまま部屋の出口に向かって踵を返した。
「……用を思い出しました。出掛けてきます」
伯父に何事か声をかけられたが、ロドニーは振り向かず手にした手紙を握りしめて書斎を後にした。
お読みいただきありがとうございます。




