八十八話 いつか役立つあの日の学び
「——こ……」
細く真っ白な首筋にキスを落としかけていたサフィールは、寝間着を引き下ろす手を押さえられ、フェリシアが何か呟いたのに気づいて顔をあげた。
「……の……——」
必死にサフィールの手を掴んで止めているフェリシアは、露出した肩を震わせてぎゅっと目を閉じ、睫毛の間を涙で埋めながらやはり何か呟いた。
泣き喚くのを聞いてやるのも一興と、サフィールが続く言葉を待つと、フェリシアは震える声で、しかし音量は最大で叫んだ。
「——このすっとこどっこぉおいぃぃっっ!」
華奢な身体から発されたとは思えない、王宮まで聞こえたのではと懸念するレベルの突然の大声にサフィールは意表を突かれた。
その上、鳥籠で飼うように過保護に育てられたと聞く令嬢が口にするには相応しくなく、聞いた事もない言葉遣いをするものだから尚更驚いた。
呆気に取られて止める事もしないサフィールの前で、フェリシアは目をぎゅっと瞑ったまま尚も叫ぶ。
「てやんでぇ! おめさんそれでも騎士かってぇんですのよ! 騎士なら約束した事は守るってぇもんじゃねぇンですかしら⁈ 私情を優先して守るべき物も守れないって仰るのでしたらぁ、騎士の風上にも置けねンですわよぉっ!」
乱暴なようでいて所々丁寧さや令嬢らしさが混ざって来る何とも混沌とした発言の連続に、サフィールは呆然としつつも笑いが込み上げてきて口許を押さえた。
こんな事で思わず笑い出しそうになった自分に戸惑って、笑うな、と抑えこもうとするが、意識すると余計おかしくなって来てサフィールも肩を震わせ出す。
そんなサフィールの様子は露知らず、必死なフェリシアは騒ぎ続けた。
「そ、そのうえっ! まだ婚約期間中だというのに、ち、ちち、ちぎ……だなんて、騎士は淑女を守り敬愛してこそではねぇんですのかい⁈ 紳士としてもあるまじき行い! 太ぇ野郎ですことよっ! いくら皇子だからって、騎士の矜持に基づいて国と国との約束は守るのが筋ってぇもんだってばよっ! ですわ!」
めちゃくちゃな言葉を顔を真っ赤にして喚き散らすフェリシアの姿と、遅れてやって来た「ですわ!」にダメ押しされて、サフィールはついに耐えきれず盛大に噴き出した。
「フハッ……ハハハハハハハッ!」
突然笑い出したサフィールに驚いて、フェリシアは漸く目を開けた。
見ればサフィールはフェリシアから身体を離し、膝立ちになって目元を押さえ大笑いしている。
一応堪えようとしているみたいだが、どうにも治まらないのか身体が揺れる程の笑い転げようだ。
咄嗟に抵抗しようとして繰り出した粗暴だったがそんなに可笑しかったかと思いつつ、フェリシアはひとまず襟を掴んでいた手が離されたので慌てて服を直し、後ろ向きに這う形でサフィールから逃れた。
サフィールは笑い過ぎて苦しそうですらある。
「お前……なんだその、し、喋り方は……どこの方言だ聞いた事もないぞ。それに、使い方……あってるのか——」
身体をくの字に曲げて笑い続けるサフィールの様子に、何とか難を逃れたとフェリシアは一時安堵する。
しかし、ここはまだベッドの上。
事態は変わらぬままだと気づき、掻き合わせた寝間着を握りしめる手はすぐにまた震えだして、鼓動は速くなり嫌な汗をかく。
一度同じ状況を経験した事があるが、あの時とは全く違う。
発した言葉も力の強さも何もかも、サフィールは本気だった。
それを肌に感じて恐怖に身が竦んだが、それでも咄嗟に抵抗出来たのは心の奥で叫ぶ声があったからだ。
嫌だ。アルベルト以外となんて、嫌だ。
こんな酷い仕打ちは想定外だったが、サフィールの妻になる者としてここに来た以上、彼をいつか受け入れなければいけないと覚悟していたつもりだった。
しかし、咄嗟の時に浮かんだのはやはりアルベルトで、覚悟だなんて上部だけだった事を思い知らされた。
駄々を捏ねても仕方がない、泣き喚いても通らない。
いくら諦めたつもりで諭しても、アルベルト以外受け入れる気になんてなれない。
心と体を引き離して割り切って生きていくには、まだ傷は乾かず痛いままだ。
アルベルトを思ってフェリシアの瞳にじわっと涙が滲んできたところで、漸く笑い終えたのかサフィールが、はぁ、と溜め息を吐いた。
「騎士に随分と理想を抱いているな。実態を知らないと見える」
サフィールの口端から笑みが消えたので、フェリシアはビクッと身体を震わせた。
もう逃げ場がない。
震える手を握りしめ、目をぎゅっと閉じて心の中でアルベルトに助けを求める。
嫌だ、怖い、助けて。
けれど無情にも、アルベルトはもちろん、あんなに騒いだのに誰もやっては来ない。
代わりのようにサフィールがベッドを軋ませゆっくりと近づいて来る。
そして——
「興が削がれた。寝る」
言うなりフェリシアの側にパタッと倒れ、サフィールは動かなくなった。
「……え?」
恐るおそる目を開けてフェリシアが確認すると、サフィールは剣を片手に眠り始めていた。
背中を向けているし、くしゃっとした黒髪が顔にかかってフェリシアからは頬の傷しか見えないが、微かに寝息を立てているので間違いない。
「眠ってらっしゃる……」
直前まで話していて急に眠りにつくとは驚くが、それより何よりホッと安堵した気持ちが強くフェリシアは一気に身体から力が抜けた。
しっかり眠っているのを再度確認したフェリシアは起こさないようにそぉっとベッドから足を下ろす。
床についた足はまだガクガクと震えていたが何とかサフィールの部屋の扉までたどり着き、廊下へ出たところでへなへなとへたり込んだ。
「……怖かった……」
改めて安堵の溜め息を吐いてフェリシアはそう漏らした。
今日のところは危機を脱した。
しかし、サフィールの言ったことが聞こえた通り本気なら明日以降に繰り越されただけに過ぎない。何も安心など出来ないし、次こそは逃げられない。
束の間安堵した心がまたすぐ不安で塗り潰される。
全部夢ならいいのに。
そう思って助けを求めてまた名前を呼ぼうとして、フェリシアは口を噤んだ。
受け入れなければならない現実はここにある。
いつまでも夢に縋ってはいけない。
明かりの落とされた暗い廊下で一人、フェリシアは名前を呼ぶ代わりに涙を零した。
殿下ゲラの可能性微レ存
お読みいただきありがとうございます!




