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八十七話 狼との因縁


 心臓が跳ねるほど驚いたフェリシアが声の方へ振り向くと、木の陰に隠れた入り口付近にサフィールが立っていた。


『サファル語が出来るとは……歌まで仕込んで、随分と優秀な外交官でもいるようだな? お前の国を侮っていた。不用意に出歩くなと言った筈だが、何故ここにいる。それも指示あっての事か?』


 サフィールは薄明かりの部屋で昼間よりも更に影に溶け込んでいながら、少ない明かりを最大限取り込んだ金の猫目だけを煌々と光らせている。


「あ……え? 殿下……その言葉は……」


 突然現れたサフィールにフェリシアの心臓は驚きっぱなしだが、更に異国の言葉を使っている事にも重ねて驚く。

 大人ないし騎士は嗜むものなのかと戸惑っていると、サフィールが近づきながらまた何やら質問して来た。


『愛してると言ったな。未婚であり婚約者もいないと聞いていたが、恋人でもいたか鳥籠の小鳥よ。赤狼とは誰の事だ? よもやあの男ではないだろうな』


 まだ簡単な単語しか憶えていないフェリシアにはサフィールが言っている事のほとんどがわからない。

 しかしギラつかせている金の瞳の鋭さに、フェリシアを叱責する内容なのはわかった。


「す、すみません、夜分に部屋を出て……歌ったりして、煩かったですよね? すみません、すぐ戻りますから……起こしてしまったのでしたら本当に、申し訳ありません」


 怯えたフェリシアは慌てて謝罪し部屋へ戻ろうとしたが、すれ違いかけた所で腕を掴まれた。


『答えになっていないな。赤狼とは誰だと聞いているんだ!』


 グイッと引き寄せられて近距離で睨みつけられた為、フェリシアは更に怯えて震えだす。


「あ、あの……殿下、何を仰ってるのか……私分からなくて……何に怒ってらっしゃるのか……」


『……仕込まれたわけじゃないのか』


 怯えるフェリシアの様子を値踏みするように一瞥してからサフィールは再度問うた。


「その言葉と歌を何処で憶えた。何故こんな時間にここにいる? 赤狼とは誰のことだ?」


 フェリシアはサフィールの苛立ちのツボが分からず、矢継ぎ早な質問に困惑する。

 だが睨みつける瞳の圧が強い上に、寝間着であろうガウンを羽織っているのに帯剣していると気づいて恐怖で口を開いた。


「……ち、知人に、教わりました、流浪の民の……まだ簡単な単語しか、憶えられていませんが……歌もその時に。遅くに部屋を出てすみません、水を頂きたくてキッチンへ行こうと……その途中でこちらに寄って……勝手をしました、申し訳ありません」


 委縮してしどろもどろになるフェリシアにサフィールは更に詰め寄った。


「赤狼とは誰だ」


「あ、赤狼? 何の事ですか……」


「愛してると言っただろう、誰のことだ」


「それは……言いました……けど、赤狼なんて……あ! 意味が、違う?」


 フェリシアはハッと思い出す。カミルが教えてくれた単語の大半は、彼の悪戯で意味がめちゃくちゃな誤訳なのだった。


 旦那様くらいの意味合いだと聞いていた言葉だったのに、赤狼だなどと侮蔑的な呼び掛けをしていたのかと今さら知って狼狽える。


「聞いた事にだけ答えろ、それは誰だ?」


 動揺するフェリシアには構わず、執拗に尋ねるサフィールの瞳は依然鋭いままで、フェリシアはやっとしまい込んだ人の名前を口にせねばならなくなった。


「……王国北部の辺境領を治めるカーライル侯爵のご子息、赤髪の騎士アルベルト卿のことです」


「……やはりそうか。珍しい赤毛の騎士」


「やはり……? アルベルト卿をご存知なのですか?」


「ああ知っている。忘れたことはない。あの獣じみた凶悪な容貌に下品な赤毛」


 サフィールはフェリシアの碧色を覗き込んで、ニヤッと裂けた口端を歪めて笑った。



「先の戦争で、俺の顔にこの醜い傷を刻んだ男だからな」


「——!」


「あの程度の傷で当然死ぬと思ってはいなかったが、なるほど息災だったようだ」


 以前アルベルトが傷を負った経緯を聞いた事がある。戦場で相手の騎士と痛み分けたのだと。

 だから、サフィールの顔に傷を刻んだのがアルベルトなら、きっとアルベルトの顔に縦に走る傷を刻んだのはサフィールだ。

 そう理解したフェリシアは二人に接点があったという奇妙な偶然に驚く。


「……時に、あの忌々しい男とお前はどういった関係だったんだ」


 驚いているフェリシアをよそに、サフィールは何故だか口許に薄く笑みを浮かべたままじっと見つめてきた。


「——え」

「愛してると言ったな。恋人か」


 サフィールは、やっと整えたフェリシアの心にまた波紋を広げるような追及をする。


「それは……」

「なんだ」


「……婚約する予定でした。春の終わりに……」


「予定……そうか。だから婚約者がいない扱いだったのだな。それであれとは恋仲だったか? お前の一方的な恋情か?」


「……こ……こい……」

 言い淀んで頬をほんのり赤らめたフェリシアを認めて、サフィールは意を汲み先を引き継いだ。


「恋仲だったか」


 一瞬喜んだ様子を見せ不敵に笑ったサフィールは、フェリシアの腕を掴んだまま急に出口に向かった。


「気が変わった」


「……え? あ、あの、殿下⁈」

 状況の飲み込めないフェリシアを引きずるように連れて、サフィールは廊下を進み階段を上ろうとする。


「殿下⁈ どちらへ——」

「帝国は、西運河周辺諸国を中心とした同盟が侮れない規模になりつつあった頃から融和路線を模索し始めていた。だが当然保守派は反発し続け、国の舵取りは割れた。長年諍いの絶えなかったお前の国とは、水面下で和睦の話し合いが進んでいたとはいえ、直近のあの戦争で明確な勝利を収めていれば融和の流れは断てたかも知れん。が、阻まれた。あの赤狼め」


 サフィールは呼びかけには答えず、淡々と独り言かのように国の情勢を語りだす。

 振り解くなんてそもそも出来ないが、フェリシアの腕を掴んでいる手は一向に緩まないままだ。


「停戦以降一気に融和路線だ。このままでは不利だった。だが、お前との婚姻が済めば俺は大国と認める隣国との和睦を成し、融和の道へと進む象徴になるだろう。一度は遠退きかけた帝位は必ずや我が物となる。それまでの間、融和の姿勢を見せかける為にも暫くは事を構えられない。あの男にこの傷の借りと屈辱は返せないと思っていたが——」


「ま、待ってください! 見せかけって⁈ 私達の婚姻は恒久的な和平の第一歩では⁈ そうだと聞いたから私は——」


 半ば引きずられながらフェリシアは叫んだ。

 この結婚が祖国に、そこに生きる人々に、安寧を齎すものになると信じて全てを諦めたのだから。


「俺は和平など望まない。言ったはずだ、これは帝位を確実にする為だけの婚姻だと。帝位が手に入ればまた戦争でも始める。俺は皇帝となりこの大陸全てを手中に収める」


「——そんな! 酷い!」



 訴えるフェリシアを無視して、冷たく言い放ったサフィールは二階へ上がると自室へとフェリシアを引っ張って行く。

 そして部屋に入るとフェリシアをベッドに向かって放り投げた。


「きゃあ!」


 ベッド上に投げ出されたフェリシアは不穏な物を感じ取って慌てて身を起こしたが、その上にのしかかるようにすぐさまサフィールが覆い被さってきた。


「喜べ、子を産ませてやる」


 裂けた口端に薄く笑みを張り付け、サフィールは見下ろしながらそう言った。

 愉快そうに細められた猫目に捕らわれて、見上げたフェリシアは呼吸を止める。


「俺が帝位に就くまでの間、あの赤狼に晴らせぬ鬱憤は溜まる一方だと思っていた。だが、お前があれの元恋人だと言うのなら、その全てはお前を使って晴らす事にしよう」


 楽しげなサフィールとは対照的に、フェリシアは色を失くす。


 ギシッと、サフィールの体重が掛かってベッドが軋んだ音を立て、捲れた裾から覗いたフェリシアの脚に帯剣の鞘がひやりと触れた。


「王国側から、婚姻はお前が成人して以降との条件が出されていたが、後たった十日程の事だ。今契ったとて誰もわからん。たくさん産め。きっとその度に和睦の証として両国で報じられるだろうからな。あの赤狼がどの程度お前を大事にしていたかは知らないが、婚約を目前に別れて、間を置かずそんな報せが届けば多少は思うところがあるだろう」


 見開かれた碧色の瞳が潤み出したのを見下ろしながら、サフィールは裂けた方の口端だけを大きく持ち上げて低く囁いた。


「そして俺が帝位に就いた暁には、子は全て用済みとなったお前共々断頭台に送ってやろう。かつての恋人がそんな最期を迎えたと知ったら赤狼がどんな顔をするか楽しみだ。それを狩る日が来るのも大いに楽しみだ」


 低く笑い声を漏らしたサフィールは、小刻みに震える組み敷いたフェリシアの肩口に手をかける。

 そして寝間着のゆったりした襟ぐりに指を差し入れ、おもむろに引き下げた。


お読みいただきありがとうございます!

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