八十六話 憂愁
要職者達との息の詰まる晩餐を終え、フェリシアはやっと用意された自室へと戻って来た。
朝早くから移動し、代わるがわる現れる大人達と挨拶を交わし今後の話しを聞かされる。
なんとも目まぐるしかった一日も気づけば終わりかけている。
今日初めて会った人達は顔も名前も情報過多で誰一人としてはっきり一致させられない。
学ばなければならない事も、国の成り立ち、歴史、情勢、祭事に公務、伝統、所作など、一先ず婚姻までの十日ばかりで憶えるべきものだけに絞ってもあり過ぎる。
自分に出来るものかと不安を覚えるがやらない事には仕方がない。
サフィール皇子と婚姻を交わし、帝国と王国との和睦を示す。これが王国を護ってきたレイフォード家に生まれた者の成すべき事なのだろうから。
一息ついてからフェリシアは寝間着に着替え、明日に備えてベッドに横になった。
屋敷自体は古そうだが部屋に隙間風はなく、ベッドもきちんと整えられている。
ふかふかの寝具に身体を横たえて、フェリシアは幾分か安心した。昼間のサフィールの発言からもっと粗末な扱いを受ける気がしていたが、一応は客人並みの扱いをされている。
仮にも皇子の婚約者なのだからそれはそうか、と自嘲してフェリシアは目を閉じた。
だがすぐに疑問が湧いて目を開ける。
婚約後は婚家へ移る風習のある王国育ちの為、フェリシア自身がサフィールの居宅に迎えられるのは若干の引っ掛かりはあるが抵抗はない。
しかしサフィールは第一皇子であるのに、どうしてこんな離れの邸宅で暮らしているのか謎だった。
先程の晩餐にだって顔を出していないのだから尚更だ。
何故だろうと暫く考えてみるがわからないので、思考をやめてフェリシアは眠ろうとする。
しかし一向に眠くならない。
身体も頭も疲れていて眠りたい筈なのに、目を瞑るとあれこれ考えてしまう。
水でも飲んで気持ちを落ち着かせようと枕元を見たが、水差しなどは置かれていなかった。
配された侍女を呼ぼうかと思ったが、呼ぶには大きな音のするベルを鳴らさなければいけない。
晩餐に現れなかったサフィールはもう寝ているのかも知れず、起こしてしまったらと気が引けて、フェリシアは水をもらいに行こうと自室を出た。
明かりの落とされた廊下は暗く春も終わるというのにひんやりとしている。
階下まで行けば誰かまだ働いているのではと期待して階段を降りたのだが、こちらも上階同様暗く人気がなかった。
仕方なく自らキッチンまで向かおうとしても場所が分からない。
心許ない燭台の灯りに照らされる古びた真っ暗な屋敷は正直怖い。
が、このまま戻っても眠れそうになかった為、フェリシアは勇気を振り絞って少し探検してみることにした。
ルームシューズと寝間着の裾を擦る音だけが響く中、そろそろと廊下を歩く。
暗くて判りづらいが居間だろう部屋を越えると、ほんのりと明るい部屋にたどり着いた。
そこは、月明かりの降り注ぐガラス張りの温室だった。
「温室……」
フェリシアは自宅の庭の温室を思い出して足を踏み入れてみる。
屋敷の一室となっている四角い温室は、王宮の庭園と同様華やかさにはかけるが沢山の緑で溢れていた。
中央付近まで行くと庭を臨む形で長椅子とテーブルが置かれていたので、フェリシアはそっと腰を下ろした。
ハーブでも置いているのか爽やかな香りが微かにしていて、昂っていた神経や心が落ち着いてくる。
ふう、と深く息を吐くと、今日までキツく縛り付けてきた心も少し緩んだ。
考えないように、思い出さないように。
そう努めていたものもゆっくりと緩めた隙間から染み出してくる。
呼び戻されたあの日、帰らずアルベルトの側にいれば、見慣れない顔をした月を今ここで一人見上げる事はなかっただろうか。
何処かで手紙の一通届けられていれば、アルベルトは約束通り迎えに来てくれただろうか。
父から告げられたあの場で泣き崩れていないで、全てを投げ捨て逃げていれば今もアルベルトと一緒にいられただろうか。
やり直せないあの日ばかりを考えてしまう。どれも叶わないと知っているのに。
もしも叶っても、その先に待つのは破滅だとわかっているのに。
国是である婚姻を拒否して二人で逃げる。王命に逆らい国益を害するに等しいその行為は国賊と呼ばれてもおかしくない。
上手く国を出てもその後はきっと立ち行かないし、残された父達は責任を負わされるだろう。
王国とて婚姻を一方的に反故にしたとなれば、帝国とは講和どころではなくなる。
誰もが不幸になる未来は容易に想像できた。
その未来がわかっていて私欲には走れない。
諦めるしかないのだ。忘れる以外に出来ることはない。
この一月あまり味わい続けた気持ちを再び味わって、目に映る月が滲み出した。
フェリシアは零れる前に目を閉じて込み上げた物をグッと堪える。
泣いていても仕方がない。自分にはここですべき事がある。
それは国の為、父の為、ひいてはアルベルトの為になる事だ。
フェリシアはそう自分に言い聞かせ、愁思に沈む意識を引き戻そうと歌を口ずさんだ。
あえて明るい歌を、夜に馴染むテンポで静かに歌う。
前向きになれるような、踏み出せる気持ちになれるような曲をと歌いながら探して、カミルに習った異国の歌を思い出す。
うろ覚えなところは適当に繋いで、思い出せる部分を繰り返し繰り返し。
旅の歌らしく、ずっと歌っているとどこまでも歩いて行けそうな気になって来る。
幾分か気が紛れたフェリシアは、そろそろ部屋に戻ろうと最後のワンフレーズで歌い納めにした。
『……愛してる……赤狼』
それでもぽつりと、歌い終わると自然と口から零れ出てしまった。
受け止めてくれる人もなく虚空に散った言葉は、フェリシアの耳にだけ届いてまた心の奥に戻ってくる。
二度と本人に伝える事はない言葉だ。
そうわかっているのに、大事にしまい直した自分が愚かで悲しくなった。
また滲んできた物が涙になる前に急いでごしごしと手で擦り、フェリシアが椅子から立ち上がると、突然、後方から低い声が響いた。
『……赤狼だと?』
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