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八十五話 新たな婚約者


「来たか」


 恐る恐る部屋に入ると、婚約者サフィールは奥の窓辺に立っていて、書類を確認する手を止める事なくそう言った。

 フェリシアをチラと横目で見たきり身体は書棚に向けたままで、こちらへは左半身しか見せていない状態だ。


 七、八才年上と聞いているが、採光に乏しいのか部屋は昼間でも薄暗く姿を確認しづらい。

 だが、くしゃっとした黒髪に騎士と同じ黒い詰襟の服を身につけているのはわかった。


 この部屋の明るさでは影に溶け込んで見える出立ちだが、そう見えたのにはもう一つ理由があったとすぐに気づく。


 カミルと同じ異国の風貌。

 婚約者こと皇子は褐色の肌の持ち主だった。


 王国と地続きの帝国においても褐色の肌というのは珍しく、それこそ流浪の民くらいしか目にしないはずだ。

 その珍しいはずの容姿を一国の皇子が持つことにフェリシアが驚いていると、サフィールが独り言のように呟いた。


「レイフォード公爵家の娘。格は落ちるが王家の血に連なり、三十年前の戦争で我が国の騎士達を震撼させた戦鬼の娘。現状、下手に王族同士と結ぶよりも和睦にはこれ以上ない人選かもしれないな。上出来だ」


 たまに掠れる低音のせいか、口にした内容のせいか、フェリシアはサフィールの声から冷酷さと傲慢さを感じとる。

 明らかに親和的で無さそうだ。

 この人と婚姻を交わさねばならないのかと怯えに似た気持ちでいると、サフィールが書類を捲りながらフェリシアに言った。



「初めに言っておく。お前との結婚は俺が帝位に就く為の足掛かりに過ぎない」


 こちらを見もしないで堂々と言い放たれた言葉に、面食らったフェリシアは目を見開いて固まった。


「我が帝国では妃の他に第二、第三妃を置く事が出来る。第二妃にはペレイラ将軍の娘を据える事になっている。子はそれに産ます。お前に子は望まない」


 温室ならぬ鳥籠育ちといえどフェリシアとて高位貴族の娘。これが政略結婚だと重々承知している。

 感情は別にして自分の担う役割も、それを受け入れざるを得ない事も理解して、だからここに来ている。


 だがここまではっきりと、挨拶はおろかまともに顔を見合ってもいない中で、一分いちぶも歩み寄る気はないと真っ先に告げられては唖然とするしかない。


 サフィールは尚も続ける。


「お前に求める役割は、公的な場で我が妃として正しく振る舞い、この婚姻が両国にとって和睦の象徴であると示す事のみだ。それ以外の場で何をしようと感知はしない。派手にやり過ぎて醜聞に繋がることさえしなければ不貞でも密通でも好きにしろ」


 妻の不貞を公然と認める発言に思考停止してしまったフェリシアは言葉もない。

 両国の友好を示す為だけのお飾り扱いを隠しもしない姿勢に、憤りも悲しみも湧かずただ呆然とする。


 これが、数日前まで待ち遠しかったものと同じ言葉で括られるものなのだろうか。

 預かり知らぬ間に決められた経緯は同じなのにまるで違う。


 必死で押し殺してきた気持ちが鳴き出しそうになって、フェリシアは下を向いた。



「耳を落とされたか」



 すると突然サフィールがそう尋ねた。

 それまで一方的だった為、急な問いかけに驚いたフェリシアはサフィールへ慌てて顔を向けた。相変わらず手元の書類を見ている。


「舌を抜かれたか」


 再びの問いかけにフェリシアは戸惑う。急に何を言い出すのか。

 言葉を発せずにいると、サフィールは持っていた紙束をグシャッと握り潰した。



「なるほど言葉を理解できる脳が詰まっていなかったか。聞こえたのなら返事をしろと言っているんだ! 聞こえたのか!」



「——っ! は……はいっ……!」


 ノイズの混じった低い声で凄まれたフェリシアが弾かれた様に返事をすると、サフィールが初めて振り向いた。

 何かに驚いて咄嗟に確認したかのようなその動作を一瞬不思議に思ったが、そんな気持ちは瞬時に散ってフェリシアは息を呑んだ。



 見えなかったサフィールの右顔面。

 そこには口の端から耳の下に向かって、真横に大きく裂かれた傷痕がくっきりと刻まれていた。


 古い傷なのだろう、縫い合わせて塞いだ傷はひきつれた部分もあって痛々しく、峻峭さを伺わせる端正な顔立ちをより険しく見せ恐ろしささえ感じさせる。

 深窓の令嬢が知らずに対面すれば卒倒するかもしれない。


 けれどフェリシアは驚きこそしたが、恐れはしなかった。代わりにキュッと胸が締めつけられるような切なさに襲われる。

 サフィール同様、顔に刻まれた大きな傷跡。見慣れたそれを持つ人を思い浮かべそうになる。


 あえて考えないようにしてきた脳裏に、燃える赤毛がチラつきかけてフェリシアは頬の傷から目を逸らした。

 そして視線を逃した先、傷の真上の金色の猫目に、思わず目を奪われた。



 荘厳な黄金色の虹彩は一目見ただけで高貴さを窺わせる程の輝きに満ちている。

 美しく、捉えた者を圧倒する力が宿った金の瞳。

 

 それだけでも惹きつけられるのに、サフィールの瞳はさらに珍しい。

 瞳の外側に向かって金色から深緑に徐々に色が変わっているのだ。


 瞳の中に二色、金と緑の境界部分の曖昧な色や光の加減を含めれば数色。

 こんなに色の混ざった珍しい瞳を見た事が無くて、フェリシアは再び息を呑んで見入ってしまった。

 まるで壮大な草原を照らす太陽のようだ。そんな事を思ってじっと見つめていると、低い声が聞こえた。


「……一つ言い忘れた。お前が誰と通じようがどうでもいいが、子だけは産むな。特に男児はな。この目は皇族の血を引いている事の証、男子にのみ引き継がれる皇族の特徴であり、帝位継承権の証明でもある。下手な真似をするとすぐに事が露見するぞ。もっとも現皇帝とでも通じればわからぬだろうがな」


 ハハハッと乾いた笑いを浮かべたサフィールに、なんて下衆なと憤ったフェリシアはハッと我に帰った。


 正面から瞳をじっと見つめていられたという事は、相手もじっと見つめ返していたという事。

 そう気づいて急に恥ずかしくなってパッと目を逸らす。

 サフィールも興味を失った様にまたそっぽを向いた。


「話しは終わった、下がれ。お前の居室はこの邸内にある。用が無い限り出歩くな。特に婚姻が恙なく執り行われるまでは大人しくしていろ。いいな」


 一方的に言いつけられたフェリシアだったが、当然言い返す事も逆らう事も出来ず、ただ従うしかなった。


「……はい」


 そう返事をしたフェリシアへまたサフィールが顔を向けていたが、フェリシアは礼をして俯いたままサフィールを見ることなく退室した。


 バタンと扉が閉まった音に、急に緊張の糸が切れた気がして頭がぼんやりし始めた。

 部屋の外に待機していた者が居室へ案内するのに着いて行くが、足取りがふわふわしてしまう。


 たった数日で急転し過ぎた世界の現実感の無さに、夢ならいいのに、とまた振り払った愚かしい望みが蘇ってくる。

 

 無駄だ、やめよう、仕方ないと思うほど、押し殺した感情も顔を覗かせだして、抑えておけなくなった一粒が無意識に零れた。


「……アルベルト様」

お読みいただきありがとうございます。

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