八十四話 帝国へ
それからの事をフェリシアはあまり憶えていない。
話し終えてすぐに、父に連れられて王都まではやって来た。
しかし馬車を降りた時には外は薄暗く夜に差し掛かっていたが、どの様に移動しどのくらいの時間を要したかは全く記憶になかった。
その後は、多分王城内の一室だったのだろう大きな会議室に通されて、十数名の要職と思われる人々から婚姻に関する話しを聞かされた。
沢山の書面を見せられ、代わるがわるレクチャーを受けるが右から左で、頭の中には自宅を出る時のメアリーの顔が思い浮かぶ。
纏めてくれた荷を渡しながら悲愴な顔をして、今にも泣き出しそうだった。
カミルの手紙を受けてメアリーが動いてくれたから、あの日アルベルトの下へ行く事が出来たのだ。
しかしそのままカーライル邸に滞在してしまった為に、メアリーには結局対面してお礼を言うこともアルベルトとの事も報告出来ていなかった。
週末に戻ったら、カーライル邸での話しも含めて全部聞いてもらおうと思っていたのに。
いざ対面して、お互いに痛ましい表情を浮かべてかける言葉すら失くすとは思ってもみなかった。
「では、婚約に際しサインを」
俯き加減の銀髪の男性が差し出した何が書いてあるか理解出来ていない書類にサインして、その日の話しは終わった気がする。
それもまたどれくらいの時間がかかって何を説明されたかはわからない。
気がついたら寝台のある一室にいて、ぼーっと窓の外を眺めていた。
まだ夜だった気もするし明け方だった気もする。ただ月も星も見えず朝日も射し込みはしなかった。
そこにいたのは半日だったか、それとも数日だったか。記憶が飛んでいるが領地に戻る事はなく、父と別れの挨拶を交わしそして——
ガタガタッと馬車が揺れて止まったので、フェリシアは思考を中断された。
目的地に着いたのだろうとぼんやり思うと、戸が開けられた。
「フェリシア様、お降りください」
護衛の者に促されてゆっくり馬車を降りると、そこは小さな港だった。
ただし王国内の都市ではない。東にある中立国の一都市だと聞いた。
「迎えの船は着いております。ご移動をお願い致します」
「……はい」
先を行く護衛について大型の汽船へと向かう。
この運河を渡ってしまえば、着いた先は帝国領だ。
フェリシアはこれから皇子の婚約者として帝国に渡り、結婚までの短期間に妃教育を受ける。
婚姻を交わす日は春の最終日、フェリシアの誕生日。急ぐ理由があるにせよ、性急過ぎる上になんとも皮肉な日程である。
王国の護衛はここまでで、代わりに帝国の騎士と見受けられる黒い服の者達に囲まれて、随行する外交官らと共にフェリシアは船に乗り込んだ。
帝国側の官吏だろう幾人かとぼんやり挨拶を交わし、用意された船室へと移る前に甲板から街の方へ目を向けてみた。
遠くの方に霞んで見えるのは王国だろうか。ずいぶんと遠い。
暫くは、いやこの先もう戻る事もないかもしれない生国を見納めて、フェリシアは思い出が過ぎる前に目を伏せた。
手紙はついに書けなかった。この港には、いつかの自分のように現れる誰かはいない。
帝国領の端に着き汽船を降りてからは馬車を使い、帝都に近くなってからは舟に乗り換えた。
帝国も地続きの王国と同じく大小多くの運河が造られている。とはいえ何処かでまた馬車に乗り換えるのだろうと思っていたフェリシアだったが、そのまま舟は帝都の中心、王宮へと向かって行った。
不思議そうな顔でもしてしまったのか、迎えに来ていた官吏と思しき者がフェリシアをチラッと見て説明を始めた。
「我がインペラートル帝国の国土の大半は広大な平地です。その為王宮は、運河を引き要害と成しそれに囲われる形で築城されているのです。もちろん陸路からでも入城出来ますが、舟を直接つける事も可能です」
意識の遠くの方で、そうかと納得して舟に揺られて行くと、舟は幾つかの水門を抜けた後に城門前を横切る形で橋の下を潜り、大きく迂回して城の側面へと入って行った。
到着した船着き場は庭の一角にあり、フェリシア達はそのまま庭を通って王宮へと案内された。
正門を潜らせずまるで隠れて招き入れる様なやり方に、仮にも皇子の婚約者となった身の者を迎え入れるに相応しくない対応だとも思えた。
これが帝国流のもてなしなのか外交的牽制なのか。
そこは不明ではあるものの、随行していた外交官達は蔑ろにされたと不満をありありと雰囲気に醸していた。
しかし当のフェリシアは気になどしていなかった。案内された庭の広さに圧倒されていたからだ。
足を踏み入れた庭園は広大で、ちょっとした邸宅が数件建てられそうな面積を誇っている。
中央部には巨大な噴水が数機あり、それに繋がる水路が四方に巡らされて庭を一定幅で区切っている。
華やかさには欠けるがどの区画も刈り込みの出来から葉の枚数に至るまで、まるで揃えたのではと思うほど幾何学的で、精緻に統一された造形が施されていた。
この庭から、帝国の一糸の乱れも許さないというような統制を重んじる厳しい姿勢を垣間見た気がして、フェリシアは小さく身震いした。
広大すぎる庭を進み、左右に翼棟を擁する荘厳な王宮にやっと辿り着いたフェリシアは、迎えてくれた帝国側の外務卿や肩書きのいっぱい付いた者達と順に顔を合わせていった。
だがそこに婚約者たる皇子の姿はない。
顔合わせもしないのかと訝しんでいると、頭に入りきらない今後のスケジュールの説明や要人達の挨拶が終わったところで、ついに顔も知らない婚約者の下まで連れて行かれる事となった。
案内役に付いて壁すらも煌びやかな王宮から外廊下を渡り、翼棟へと向かって行く。
そのまま翼棟内の廊下も歩き続けて居室空間を通り過ぎ、ついには庭にまで出てしまった。
「あ……あの……殿下はどちらに?」
てっきり居室か応接室にでも案内されると思っていたフェリシアが尋ねると、歩を止めず庭を翼棟の裏手側へ進み続ける案内役が当たり前といった調子で答えた。
「居宅におられます」
「……居宅?」
仮にも皇子なのだから、王宮に居室があるのではないかとまたも不思議に思っていると、水路に掛かった橋を越えた随分と先、木立に埋まるようにして建つ小規模な邸宅が見えた。
もはや王宮の裏手と言える奥まった場所にある事から使用人棟かと思うも、フェリシアはその邸宅の中にそのまま誘われた。
中では数名の使用人が待機しており、すぐに二階の一室に案内される。
どうやら内装等から使用人棟ではなく、ここで生活する貴人がいるのだとわかった。
だが、仮に一国の皇子が住んでいるにしては古びた作りで質素な上、鄙びている。
何より王宮がありながらここに住む理由が見当たらない。
今から会おうとしているのが本当に皇子なのかと疑い始めていると、目的の部屋に着いた。
「失礼致します、サフィール殿下。本日グランリッター王国よりご到着されました、ご婚約者フェリシア・フォン・レイフォード様をお連れ致しました」
案内役が扉の向こうにそう呼びかけると、少し間があってから返事があった。
「入れ」
低音で、ザリっと砂を擦ったようなノイズの混じる、ハスキーな声だった。
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