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八十話 カミルには密命がある ②

 

 フェリシアの口から突如発された言葉に、動揺しすぎたアルベルトは踏み出した足に力が入れられず、ガクンとその場に崩れ落ちた。


「アルベルト様っ⁈」


 急に床に膝を突いたアルベルトに驚いて、フェリシアはすぐさま慌てて駆け寄る。


「どうされたんですか⁈ 急にご気分でも⁈」


「……いや、え……いや? どうしたは、こっちの……」



 心配そうな顔をしてはいるが、今しがた発した言葉とは裏腹に至って普段通りのフェリシアにアルベルトは混乱しだす。

 耳も脳もはっきり捉えてなんなら反芻してもいるが、聞き間違いだったのだろうか。


 急に変な汗が出てきて顔が熱くなったアルベルトは、フェリシアに気づかれないようすぐさま立ち上がる。


「……なんでもない。つまづいただけだ」


「そうでしたか、何ともないのでしたら良かった」


 ホッと安心した顔を見せたフェリシアに、やはり聞き間違いだったかと結論を出す。


 あんな幻聴が聞こえるとは煩悩に惑わされ過ぎていると、気を引き締め直し踏み出そうとしたアルベルトだったが、にっこり微笑んで見送るフェリシアの口からその幻聴が今度ははっきり発されるのを確認した。



『愛してる。抱きしめて』



 持ち上げようとした足がとりもちにでも引っついたように床から離れなくなり、身体は石に置き換わった。

 ついでに思考も停止して、言葉の意味と無邪気に微笑んでいるフェリシアとのズレにアルベルトは困惑するだけとなる。


 当然声も出ないので、無言でフェリシアを見返していると、更なる追撃がフェリシアの口から放たれた。



『今すぐキスして赤狼』



「——はっ⁈」


「え⁈」


 急にアルベルトが顔を顰めて大きな声を出したので、フェリシアは驚いた。

 気に障る事を何かしてしまったかと不安になる。


「あ……あの……アルベルト様? な、何か……?」


「い、いや……何かは……こっちの……」

 しどろもどろでうっすら汗を浮かべ、心なしかぎゅっと眉を寄せた顔も赤くなっている気がするアルベルトの様子に、フェリシアは戸惑う。


「お顔が赤いです……汗も。やはり具合がお悪いのではないですか?」


「赤——⁈ いや、大丈夫だ、そんなことは……」


「でも、さっきも急に転ばれましたし……今だってご様子が……それとも私、何かお気に障る事でも言ってしまいましたか?」


「いや! 気に障るなんて事は……そんな事……は」


 不安からか若干潤みだした碧色の瞳に見つめられて、アルベルトは更に動揺したが、フェリシアの言い回しに奇妙さを感じて何とか止まった思考を動かした。


「……フェリシア……その、き、聞きたいんだが、今の言葉は……」


 まだ高速で動く心臓に負けないように、何とかぎこちなく笑って平静を装いながらアルベルトは尋ねた。

 フェリシアは待っていたと言うように、パッと顔色を明るく変えて微笑んで答えた。



「伝わりましたか? カミルに習ったんです! 本で学ぶより実際に聞いて会話した方が早いからって。実際その通りでした。まだ簡単な物しか喋れませんが、全く分からなかった時から比べればすごい早さで憶えられた気がしているんです。あ、もしかして……私が急に話せるようになったので、それで驚かれて?」


「あ、あ……そう……だな」


「そうだったんですね、ごめんなさい。そんなに驚かれるなんて思わなくて……でも、驚かれただけなら良かった。私何か間違って気に障る事を言ったかと……」


 ホッとした表情を見せたフェリシアにアルベルトはやはり違和感を覚える。

 こんなにも直接的にはっきりと、気持ちを伝えてくれる人じゃない。少なくとも今までは。

 百歩譲って今そうなったのであっても、顔色を変えず照れもせず、そんな言葉を口に出来る人だろうか。


 認識に温度差がある気がしてならず、アルベルトはフェリシアに確認してみる。


「……フェリシア、因みに聞きたいんだが……今、何と言ったんだ? 突然で聞き取れなくて」


「あ……やっぱり、ちゃんと伝わりませんでしたか? えっと最初のは……頑張って、待ってます。次は頑張って、いってらっしゃい。最後は、帰りを待ってます。です」


「……カミル……」


 はにかんでやくを説明するフェリシアを前に、アルベルトは全てを理解した。

 カミルがわざと誤訳を教え込んだのだと。



「あいつ……」

 フェリシアまで巻き込み人をからかっているカミルに苛立って、アルベルトは鋭い目つきであちこちへ視線を走らせ見ているだろうカミルを探す。


 フェリシアはアルベルトが急に怖い顔をしたので理由がわからずビクついた。


「……アルベルト様? やっぱり私、何か……」


 怯えた様子を見せるフェリシアにハッとして、アルベルトは慌てて表情を和らげフォローする。


「いや、悪い、虫がいたんだ。サファル語はとても上手だった。発音も綺麗で、短時間で憶えたとは思えなかった。ただ——」


「本当ですか? 嬉しい! 私これからも頑張っていつか話せるようになりますね!」


 喜び意欲を燃やしたフェリシアはアルベルトの言葉を遮って、復習とばかりに覚えた単語をさっそく交えて話した。



「お仕事、頑張って(愛してる)アルベルト様。

いってらしゃい(抱きしめて)帰りを待ってます(今すぐキスして)。お帰りになったらお時間作って頂けるでしょうか? 昨日は出来なかったので今日はお話しがしたい(ずっと一緒にいたい)……」



 にっこりと、輝くような笑顔を向けて告げられた言葉が突き刺さり、アルベルトは思わずふらつく。

 無自覚であるとわかっていても、嬉しい言葉のコンボに必死で縛り付けたアルベルトの心は揺さぶられる。


「……フ……フェリシア……」


「あ! あの、そういえば、頑張って(愛してる)って以前仰ってた言葉ですよね? 私がこちらに伺った時に答えを教えてくださらなかったあれです」


 律する心を失いそうなアルベルトはフェリシアを止めようとするが、フェリシアはその様子には気づかず更に重ねていく。


「でも確かあの時、頑張って(愛してる)フェリシア、って仰っていたじゃないですか。でもちょっとよく分からなくて……どうしてあの場で急に頑張って(愛してる)って仰ったんです?」


「フェリシア……」


「憶えてらっしゃいますか? アルベルト様あの時、同じ気持ちだって仰ったんですのよ? 頑張って(愛してる)なんて、お話ししていてあの場で急に思うものでしょうか。だって私、あの時は……」


「フェリシア、もう……わかったから……」


「それとも別の意味がありますの? なんだか単語の意味や使い方が広い気がしていたので、教えてもらっていない意味があって、例えば頑張って(愛してる)アルベルト様や、頑張って(愛してる)待ってます(キスして)だと別の意味になるんで——」


「フェリシア!」


 どこかズレた生真面目さで止まらなくなっていたフェリシアは、アルベルトの呼びかけに漸く気づいた。


「あ……ごめんなさい引き止めてしまって。もう行かれますよね」


 やっと攻撃をやめてくれたフェリシアにホッとして、ギリギリ耐え抜いたアルベルトはつい気を抜いてしまった。

 そこへフェリシアがとどめとばかりに微笑みかけた。



『アルベルト様、愛してる。今すぐキスして、抱きしめて』



 碧色の瞳で見上げてふんわりと笑いかけてきたフェリシアに、アルベルトはたがが外れるどころか弾け飛ぶ音を聞いた。

 約束も宣告も何もかも、もうどうでもいい。抑えるなんてもう無理だ。


「では、お気をつけ——」

 言いかけたフェリシアをアルベルトは引き寄せて抱きしめる。

 フェリシアからしたら予兆すらない突然の出来事だった為、抱きすくめられた腕の中で驚き硬直する。


「な……なんで……アルベルトさま……急に」


「急じゃない。カミルに揶揄われたな。君が憶えたのは全部誤訳だ」


「……え?」

 アルベルトはフェリシアの耳元へ口を寄せて囁く。


「君が教えられた単語の本当の意味は、頑張ってが愛してるで、いってらっしゃいは抱きしめて、だ」


「——っ⁈」


 真実を知ったフェリシアは、自分が散々得意げに発した言葉の数々を思い出し顔を真っ赤にする。


「私——それなら、今まで……」


 恥じ入るフェリシアをぎゅっと抱きしめてアルベルトは囁く。


「ずっと耐えていたのに、そんな事を言われ続けたら……」


 アルベルトの低い声に耳の奥をくすぐられて、フェリシアはかぁっと更に赤くなる。

 恥ずかしくて堪らないが、抱きしめられた幸せに不満に思っていた胸を満たされている。


 どこか浮遊感を伴う気持ちで熱く感じる体温に身を委ねかけたが、貞淑さに厳しい自分に咎められて、フェリシアは溶かされそうな理性でなんとか淑女を保とうと咄嗟に考えた。


「あ、あの、アルベルト様……そ、それじゃぁ、待ってます(キスして)、は?」


 そう尋ねて見上げたフェリシアを見つめ返し、アルベルトはいつもより更に優しく微笑んだ。

 そして身を屈め、抱き寄せたフェリシアへゆっくり顔を近づけた。

 


 フェリシアがアルベルトの身体に重なって見えなくなり、代わりに華奢な白い手がアルベルトの背中に控えめに回された。

 その手が愛しげに、きゅっと服を掴むのを、廊下の曲がり角から隠れ見ていたカミルは呟いた。


『……うーん……これは……作戦をミスったな……』

 


 *

 


「お、カミル戻ってたのか。何してんだそんな所掘って。おい、しかもお前……何ヵ所掘ってんだ」


「良いところ来た。お前も掘れ。いっぱいいる」


「はぁ? 何でだよ?」


『明日には全滅するからな。今の内から用意しないといけない』


 スコップを強引に渡された兵士は、兵舎脇にあちこち掘られた穴を怪訝そうに見やって聞いた。


「こんなに掘って……怒られるぞ。ところで妙にデカいけどこの穴何なんだよ?」


 カミルは少女と見紛う可愛らしい顔に満面の笑みを湛えて、兵士に振り向くと嬉しそうに言った。


墓穴はかあな!」

はぁ、無理した。


ここまで長々とお読みいただきありがとうございます。

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