七十八話 小鳥と狼はやはりまだすれ違っている
爽やかな朝の日差しが差し込む居間で、カーライル夫人に刺繍を教えてもらいながらフェリシアは悶々としていた。
昨日父が帰ってから、アルベルトが急によそよそしくなった気がしていたからだ。
占いを信じて不安に思っていた時と同じ、優しくはあるが一歩引いた、まるで妹に接するような態度だとフェリシアは感じる。
あのお茶の時間までは、婚約破棄の撤回に合わせてそれまであった見えない壁も一緒に無くなったと思うくらい、距離を縮められたと思っていたのに。
あの後から急に、片付いていない仕事があると夕食前後で忙しそうにしてそのまま時間を作ってもらえず、一夜明けた今朝も早くから訓練に行ってしまった。
勤勉で鍛錬も怠らず、領主代理として仕事もこなす忙しい人なのだと重々承知してはいたが、フェリシアはちょっぴり不満に思ってしまう。
せっかく監視の目も遠ざかり、恋人と呼んで差し支えない関係になったのだから、もう少しくらい、今までよりも傍にいる時間が欲しい。
もう少しくらい、今までよりも近い存在になったのだと確かめる何かが欲しい。
髪を撫でられるのも手を繋ぐのも、それくらいは今までだってして来た。
だからもう少し、
例えばぎゅっと抱きしめ合って、
例えばもっと長く見つめあって、
例えば愛してると囁き合って、
例えば昨日のやり直しを——。
そこまで考えてフェリシアは刺繍していた布に顔を埋めた。
一度心の奥に湧いたものは、治まるどころかどんどんと溢れてくる。
こんな事を考えるなんてふしだらではしたない。
そんな風に教え込まれた淑女の自分が咎めてくるが、気持ちはどうしたって止まらない。
もう何も憂える必要などないのだから、もっと近くで寄り添って今までの足りなかった分も埋めてしまいたい。
「どうしたの? フェリシア」
突然顔に布を押しつけて動かなくなった為、心配した夫人に声をかけられて、フェリシアの意識はやっと居間に戻って来た。
「あ……ごめんなさい、何でも……おば様みたいに上手く行かないと思いましたの」
「そんなことないわ、見せてみて。上手じゃない。あなたのお母様もとても上手だったのよ。主人達が話し込んでいる間によく一緒に縫ったものだわ。特に上手だったのはね——」
生前の母との思い出を語って聞かせてくれる夫人へ、フェリシアは相槌を打ちながらも頭はアルベルトの事ばかり考えている。
前よりもずっと近くにいるはずなのに、前と同じで何処か遠い。
そこまで元に戻らなくても良いのにな、とフェリシアは懐かしそうに思い出話しをする夫人に微笑みながら、もどかしさを持て余した。
*
アルベルトは早朝から訓練場にて一人で鍛錬に励み、兵士達が顔を出してからは訓練と称し、一人また一人と起き上がらなくなる者を量産していた。
剣を握り打ち込んでいる間は集中しているので考えることは無いが、手を止めると途端に思考の隙間にフェリシアが顔を覗かせる。
今までだって自分の気持ちを抑えるのに相当苦労してきたのに、こうしてフェリシアの気持ちを確かめられた今、抑えろという方が無理だ。
だが無理だ、で放棄してしまってはいけない。
ここで諦めて己の欲に負けたが最後、フェリシアをこの手から再び奪われる事になりかねないのだから。
それだけは絶対に避けねばならない。
失くしたと思ったものをやっと取り戻し、それが独りよがりの想いでなかったと確かめ合えもしたのだ。
この幸せを今まで以上に大事に守り、何としても無事に婚約式を迎えたい。
それまでは今一度、己を律し、欲と衝動を抑え、自制の心を切らさずにいなくてはいけないと、アルベルトは及び腰の次の相手を鋭く睨みつける。
浮かれ気分で油断していては、いつまたうっかりフェリシアへ手を伸ばしてしまうか分からない。
心を鎮めて、彼女の前では冷静な大人でいなければ。
あのふわふわの髪に、碧色の潤んだ瞳に見惚れてはいけない。
頬を桃色に染めて恥ずかしそうに微笑む花弁の唇から、小鳥の歌声を思わせる可愛らしい声が発されても聞き惚れてはいけない。
抜けるように白い肌をした華奢な身体だって抱きしめたいと思っては——
バキンッと大きな音を立てて兵士がまた一人吹き飛ばされて転がった。
「危ない!」
うっかり頭の中がフェリシア一色になりかけたアルベルトは頭を振って叫んだ。
「危ないのは我々の命ですアルベルト様っ!」
ボロボロに打ち負かされた兵士達が、もう勘弁してくれと泣きを入れるがアルベルトには聞こえない。
浮かれる気持ちをすぐさま縛りつけてフェリシアを意識の奥に追いやろうと努める。
あと二週間、あと二週間……と呪文の様にぶつぶつと口の中で唱えてどうにか心を落ち着かせ、よし! と思うが、逆に日を数えた事で、
せっかくこの数日は傍にいられるのに、
監視の目だって今はないのだから、
せめて昨日をやり直しても……
とついまた邪な考えに捉われる。
ぐるぐると結局は同じ所に吸い寄せられる思考に、アルベルトは自制心と衝動と歯痒さとで思いっきり顔を顰めて、ギギギギッと音がなるくらいに歯を食いしばり、剣を握り直すと倒れた兵士の山に向かって吠えた。
「いつまで寝てる! 立て! まだ訓練は始まったばかりだぞ!」
「ひぃっ!」
その後、訓練場では午後になるまで悲鳴があがり続けた。
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