七十七話 アルベルトにだって怖い物は存在する
今日まで許す気持ちは持てていなかったアルベルトだったが、庭に待機させた馬車の側で、顔を腫らしまくったロドニーをいざ前にしたら可哀想に思う気持ちが勝ってしまった。
アルベルトにとっては彼もまた弟の様に可愛がってきた存在だったからだ。
「……その……大丈夫か?」
「お気になさらず、自業自得ですので」
レイフォード公を迎えに来たロドニーは、包帯やガーゼ、殴られた痕がくっきりの満身創痍な姿だった。
首と右頬は覚えがあるが、青黒くなった左目の周りとぷっくり腫れた左頬は違う。
恐らくはレイフォード公だろうと思い、自身の罪を強く咎められなかった理由を知る。
「……あの時は、悪かった。いくらなんでもやり過ぎたと——」
「いえ、謝られる必要はありません。逆の立場なら僕もきっとそうしました。全面的に悪いのは僕です。申し訳ありませんでした」
一瞬困った風に笑って慇懃に頭を下げたロドニーは、アルベルトのよく知る彼そのものだった。
ここしばらくの敵対する様に映った姿はどこにもない。
フェリシアへの不安が払拭され自身の気持ちが落ち着いたからか、あるいはロドニーに変化があったのか、ともかくも元に戻れたのだとアルベルトは安堵した。
「……あの、フェリシアは何か言ってましたか?」
「何か……とは?」
顔をあげたロドニーはアルベルトへ質問し、その返答に少し考える素振りを見せてから更に尋ねた。
「その……あなたに対しておかしな態度を取り続けた事について」
「ああ、占いを少し信じ過ぎていたとは……それでガートルードの事を誤解したと……」
「それだけ、ですか? そうですか……」
歯切れの悪い言い方にアルベルトは訝しむ。
「何かあるのか?」
「いえ……」
ロドニーは一瞬目を伏せ迷いを見せてから、振り切るようにしてアルベルトに向き直った。
「アルベルト卿、僕はずっとフェリシアが好きでした。だから、このまま婚約するとあなたが不幸になるという占いにフェリシアが動揺してたから、それを利用してあなた達を別れさせようと、フェリシアが占いを信じ込むように誘導してきました」
急な告白にアルベルトは固まる。
まるで挑むようだった目つきを見せた意味がやっとわかった。
ロドニーは驚いた顔をしているアルベルトから目を逸らし、玄関口で父と話し込んでいるフェリシアの方へ向けた。
「自信はあったんですよ。誰よりも傍にいたのは僕でしたから。あなたを失くして傷ついて、フェリシアが頼るのは絶対に僕だとわかっていましたから。だからあなたさえいなければ、フェリシアは僕を好きになってくれると思って、色々工作して、誤解させて、あなたにもわざと勘違いさせるような事をして仲を違わせようとしました。でも、占いに惑わされて振ってもらおうと頑張りながらも、フェリシアはずっとあなたの事を想っていた」
ロドニーの自白に答え合わせされて、まだ僅かに残っていた疑念が払拭されていく。
不安に思った何もかもが、やはり思い違いだったのだとアルベルトは表情を緩めた。ロドニーはそれに気づいてアルベルトへ視線を戻す。
「フェリシアの心の中にはいつだってあなたしかいなかった。それがわかって、ここまでしてもダメなのかって、自棄になってフェリシアに酷い事しようとしたのがあの夜です。殴られて当然でした、申し訳ありません。馬鹿な真似をしたと目が覚めました。お二人の仲を裂こうとした事についても、重ねてお詫び申し上げます」
あの夜の出来事は二人の演技ではなかったと聞いて一瞬怒りが湧いたアルベルトだったが、素直に頭を下げるロドニーの前に自然と鎮火する。
あの時庇っていたフェリシアはもう許しているのだろうし、ここまでボコボコにされた彼は十分償ったろうとも思う。
「……フェリシアが許しているなら、俺に謝る事はない。今の話しについてもだ。フェリシアと話す機会はいくらでもあった。それを怠ってああまで拗らせたのは俺だ。手痛い目には確かにあったが逆に今がある。礼を言うつもりはないが、フェリシアと向き合えて良かったと思っているんだ」
アルベルトにそう言われ、頭をあげたロドニーは苦笑した。
「……お二人って似てますね。こんな話しを聞いて怒らずにいられるんですから。フェリシアも僕が謝ったら笑ったんですよ。随分酷い事してきたのに、許してくれた」
ロドニーはもう一度カーライル邸の方を見やる。
「僕よりしつこそうな人がいるから気をつけてって言おうと思ったんですけど、お二人ならもう何者にも惑わされる事はないでしょうね。きっとこの先も、何があっても大丈夫だ」
やっと話し終えたのか帰ろうとする父を見送りながら、さり気なくこちらへ向かってフェリシアが微笑みかけた。
取り戻せた幸せそうな笑顔にロドニーも微笑み返すと、アルベルトへ向き直って言った。
「フェリシアを、妹をよろしくお願いします」
そう言ったロドニーは、いつも通りの穏やかで優しい笑顔を浮かべていた。
「……ああ」
「では、伯父も漸く帰るようですので、僕もこれで失礼します」
「フェリシアには会って行かないのか?」
辞去しようとするロドニーにアルベルトが尋ねると、それまで穏やかに笑っていたロドニーから急に表情が消えた。
「……いえ、接触は禁じられてますので。僕、今回の件で再教育が必要だと判断されまして、騎士として一から鍛え直される事になったんです。まずは見習い同様、伯父の身の回りの手伝いから……あなたに謝れる機会になって良かったですが、今日は本当に迎えに来ただけで」
それを聞いたアルベルトも察して表情を失くす。
「僕は幼少時から剣の方に期待が薄かったので、アルベルト卿が受けたような厳しい訓練はしていません。それがいけなかったと結論付けられまして、これから急ピッチで叩き直すと……」
「そ……それは……」
頑張れとしか言いようが無いが頑張れとも言えず、アルベルトはかける言葉に迷う。
思い出が誇張されているとは言え、どれ程苛烈だったかを良く憶えているから下手な励ましは慰めにもならないと知っている。
「……ロドニー、閣下も当時に比べればお年を召したから、そこまで過酷という事はきっと——」
「……そうですね。老いてなお猛り狂う戦鬼と公然と呼ばれる程ですからね、そう厳しいということもないでしょうね——いっそ放逐の方がましだったな……自分で撒いた種なので、謹んで励みます」
血の気の引いた顔で、では、と一礼してロドニーが馬車へ戻り戸を開けた。
アルベルトがそれを憐憫の情を込めた目で見やっていると、背後からレイフォード公の声がした。
「アルベルト」
低く、威圧感のある声にアルベルトの背筋が伸びる。
ガゼボでの件を見られていたのだ、咎められるのは当然だ。そう覚悟してアルベルトは厳しい顔で振り向く。
「……はい」
「私はこれで帰る。フェリシアを頼むぞ」
予想に反してキス未遂については言及されなかった。拍子抜けして、流石にあの距離では見えていなかったかと、アルベルトはホッと息を吐いた。
「はい。お任せください」
うむ、と頷いたレイフォード公は、そのままロドニーが戸を開けている馬車へ乗り込もうとして、ああ、と声をあげた。
「ああ、そうだ。どうも全てを許したとでも思っているようだが、私が撤回したのは婚約の破棄についてのみだぞ」
言わんとする事を一瞬理解出来ず、アルベルトは疑問符を頭の上に浮かべる。
返事をしないアルベルトに、レイフォード公は馬車へ乗り込もうとした足を止めゆっくり振り向いた。
「婚約は継続した。つまり婚約に関しての諸条件も継続だ。意味はわかるなアルベルト?」
口許には笑みを浮かべているが、アルベルトを睨みつける深緑の瞳の奥はギラギラと煮えたぎらせて、レイフォード公は言った。
「……次は無いぞ?」
地を這うように低く囁かれた言葉が、刃の如く喉元に突きつけられた。
安堵は瞬時に霧散し、石のように身体が固くなったアルベルトはごくりと喉を鳴らしてコクンと一つ頷く。
レイフォード公は顔色を失くしたアルベルトを睨みつけたまま、分かれば良いと言うように無言で頷いて、馬車に乗り込むとカーライル邸を去って行った。
アルベルトは馬車が去って暫くしても背筋が凍っていて動けずに、見送った姿勢のままで誰もいない庭を見続けた。
春も残す所あと半月となった空には朱色が差し始め、また一日婚約式までの日が縮まろうとしている。
今日を終えれば、あとたった二週間ほど。
されど二週間でもある。
アルベルトは今一度、気を引き締め直すのだった。
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