七十一話 蛇
カーライル領の市街地が見えて来て、飛び下りてしまいそうな逸る気持ちを抑えられず、フェリシアは舟のへりに乗り出すように手をかけた。
「フェリシア、手紙をくれたカミルが迎えに来てくれてるはずだから、後は彼と一緒に。僕は屋敷の方に一旦戻る。少なくとも僕がいない事は確実にバレてるだろうから」
「わかったわ。ロドニーありがとう。お父様に怒られないと良いんだけど……」
「ははっ……潔く叱責されてくるよ」
舟は程なくして船着き場へ着いた。岸辺を見渡してもカミルらしき人物の姿はない。
舟を下りながらキョロキョロしていると、広場の方から、きゃあっと口々に叫ぶ声と馬が駆けて来る音がした。
『フェリシア!』
大きな声で呼ばれたので驚いてそちらを見ると、凛とした軍馬を駆って市街地のど真ん中を突っ切って来たのはカーライル邸で会った少年カミルだった。
「わあ……ワイルドなお迎え……」
ロドニーがとぼけた声を出したが、慌てて逃げる道行く人々を器用に避けながら船着き場前まで来たカミルは、聞き慣れない異国の言葉で馬上から捲し立てた。
『やられた! あの蛇、アルベルトを攫って行った! 領地に帰るって港に向かってる。もうきっとアルベルトを帰さない気だ! 今すぐ追わないと!』
険しい表情をして切羽詰まった口調のカミルに、フェリシアとロドニーは顔に疑問符を浮かべる。
「お、怒ってるのかしら?」
「何だろう……さっぱり……」
二人の顔を見て伝わっていないと気づいたカミルは、むうぅっと悩ましく唸ってから単語を叫んだ。
「アルベルト! 蛇! 帰る! 港! 船!」
憤っていて言葉を繋げられない様子のカミルに、さらに首を捻ったフェリシアだったがロドニーが意に気づいて呟いた。
「港……帰る……確かガートルード嬢ってフロッセル伯の妹さんだったはず……フロッセル伯領は内海の向こうだ。アルベルト卿を連れて帰る気なのかも!」
「えっ⁈」
『そうだボロボロ! 何でそんなボロボロなのか知らないがいいぞ、その通りだ!』
カミルが大きく頷いたので、確信を得てロドニーも焦り出す。
「どうしよう、海を渡られたらツテがない……書簡はおろか訪問出来てもガートルード嬢がいるんじゃ門前払いされるだろうし……」
「それなら今すぐ追わなくちゃ!」
「でも、今から追ったところで舟でも馬車でも間に合わない——」
『だから馬で来たんだろうが! さっさと乗って!』
バッと手を目の前に差し出されて、おそらく乗れと促すカミルにフェリシアは面食らって躊躇する。
馬に跨った事など当然ない。
だが、迷っている暇はもっとない。
「——乗せて!」
「ちょ——フェリシア、無理だよ!」
ロドニーが止めるより早くフェリシアはカミルの手を取った。
小柄な少年にしては強い力で、カミルはフェリシアを馬上に軽々と引き上げる。
『軽いね! 本当に小鳥みたい』
スカートをはためかせながら何とかカミルの後ろに乗り上げたフェリシアは、予想以上の地面の遠さに青ざめる。
「こ、こんなに、高いのぉ……⁈」
「フェリシア無茶だって! 下りて、下りて!」
下で同じように青ざめているロドニーが必死に降りろと訴えていたが、恐怖から思わずカミルの服を掴んだフェリシアは震えながらも大きく首を振った。
「——いや! 下りない! 今行かなくちゃ、アルベルト様ときっともう会えなくなっちゃう! 諦めなくて良いってやっとわかったのに、ここで諦めるなんてしたくない! 今までの酷い態度を謝って、私も言わなきゃ。アルベルト様と同じ気持ちなんだって! 私達に足りなかったのはきっと伝えあう事だから、だから絶対、今言いに行かなきゃいけないの!」
カミルの服を掴んだ手の震えは止まらないが、フェリシアはそう力強く叫んだ。
『ああそうだ! 小鳥が一節愛を歌えば、抜け殻のアルベルトだって元の浮かれたふにゃふにゃにすぐ戻る。絶対間に合わせてやるからしっかり掴まっとけ!』
ロドニーが何かを言う前に、カミルは応じるような言葉を発し、可愛らしい顔でにぃっと笑うと手綱をグイッと引いた。
すると今まで大人しかった馬が一声嘶き前脚を持ち上げたので、落ちると恐怖したフェリシアは叫んでカミルにしがみつく。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!」
身体に腕を回しぎゅぅっときつく服を掴んで、フェリシアが自身にしっかり掴まったのを確認して、カミルはトンッと鐙で馬の腹を蹴った。
『行くぞ! ご主人様の為だ、走れマルス!』
フェリシアの言葉の前に制止する言葉を失くしてしまったロドニーに悲鳴だけを残して、フェリシアを乗せた芦毛の馬は、驚く人々を割り市街地を颯爽と駆け抜けて行った。
*
「——でさ、家令と執事とメイド長が、雁首揃えてこれ以上問題起こしたら辞めるって言うんだよ」
カーライル領の端、内海に面した港のカフェテラスで、ガートルードは船を待つ間優雅にお茶を啜っていた。
目の前には終始ぼんやりした様子のアルベルトが、一度もカップに口をつけずに入港してきた汽船へ目を向けている。
普通にしていたって常に臨戦態勢に思える鋭い顔つきが、今日ばかりは誰が見ても寂しそうに見えることだろう。
その物憂げな様子が最高にレアで尊いと、ガートルードはにやけそうな口許をカップで隠した。
「だから俺は言ったわけ。いいけど、お前達が辞めたら、フロッセル終わるぜ? って」
焦って魔法を掛けずともアルベルトは既に手に入った。暫くこのレアな状態を堪能するのも良いかとガートルードは余裕を見せる。
自領に連れ帰ってしまえばもう誰も手出しは出来ない。傷心のアルベルトを献身的に支え、結果後釜に収まったという素晴らしい体裁も整う。
この上ないハッピーエンドを迎える最高のシナリオに、描いた自らが酔いしれる。
笑みを堪えるのが辛い。
突然噴き出して大笑いしてしまいそうな自分と戦っていると、誰も相槌を打たないのに一人で避難するに至った顛末を話していたニコルが船の到着を知らせた。
「そしたらさ、三人揃ってその場に泣き崩れちゃって。大の大人が、わんわん泣いて死んだ親父に謝ってんの。もう笑っちゃったよね……あ、船来たね。行こう」
ポンと虚ろなアルベルトの肩を叩いて立ち上がり、ニコルはスタスタと先に桟橋に向かって行ってしまう。
立ち上がる気配を見せないアルベルトに、ガートルードは浮かれる気持ちを抑えつけて精一杯心配そうな表情を向けた。
「……兄様ったら、あの話しの何処を面白いと思ってるのかしら……妹でいるのが恥ずかしい。ごめんなさいアルベルト様、ご不快、でしたよね?」
「……いや。あいつのあれは今に始まった事じゃない……」
沈んだ様子で答えたアルベルトは尚も立ち上がらず、ガートルードは更にしおらしくして見せる。
「……ごめんなさい。私がお兄様に言って無理にアルベルト様をお連れしたから……遠出するようなご気分じゃなかったですよね……でも、どうしても放っておけなくて……」
すまなそうに言ったガートルードの方へやっと顔を向けたアルベルトは、取り繕うようにほんの少し表情を緩めた。
「いや……暫く逗留するのは頭を切り替える良い機会だ。気を遣わせて悪かった、行こう」
痛々しい表情にうっとりしながら、ガートルードは立ち上がったアルベルトの後ろをついて行く。しおらしさは忘れずに。
「……ご無理なさらないで……。兄はあんなですから、お話しになりにくいでしょう? お辛かったら私が代わりにお聞きしますから……だから、私の前ではご無理なさらないでくださいね」
向かう桟橋では別れの挨拶を済ます者達で溢れている。連れて来た従者達は荷物を持ってニコルと先に乗り込んだようで見当たらない。
「……ガーダが領主だったらフロッセルは安泰だったろうな。心配させてすまない、大丈夫だ。暫くここを離れて……全て忘れるよ」
「アルベルト様……」
後ろを歩くガートルードには、アルベルトの表情は窺えない。
目の前には服の上からでも分かる引き締まった筋肉の付いた広い背中があるだけだ。
その背に抱きつきたくなる衝動につい駆られて、そちらを抑える方に舵を切った為、口許の抑止が緩んでにまぁっと笑ってしまったガートルードはぽつりと呟いた。
「えぇ、もちろん。忘れさせてあげますよ。辛いのは今だけ。向こうに着いたら、あなたの心にフェリシアなんて微塵も残らないくらい、私の事を好きにならせてさしあげますわ」
歌うように楽しげに放たれた言葉は、乗船を急がせる汽笛によって掻き消されアルベルトには聞こえない。
ガートルードの口の端には余韻のように微笑だけが残った。
お読みいただきましてありがとうございました。
お馬さん、乱暴な事してごめんね。でもできたら許してやってほしい。当初その子は主人公格だったんだ。でも今や準主はおろか脇も脇に格落ちした可哀想な子なんだ。だからこれ以上鞭打たないで溜飲をさげてやってほしい。




