六十四話 ひと時の夢と現
「愛してる」
夢ですら言われなかった言葉を今現実に囁かれている。また都合の良い夢を見ているのかもしれない。
そう冷めた自分が頭の片隅で諭しもするが、息も継げないくらいにキツく抱きしめられる感触と吹き荒ぶ寒風で凍っていた心まで溶かす体温に、今実際に起こっている事なのだと心と身体が先に認識する。
フェリシアは自身を抱きすくめるアルベルトの鼓動を聴きながら、今この身に起こっている現実と今まで見てきた現実の齟齬について取り残された頭で考えようと試みた。
けれど回された腕に力が入って、存在を確かめるようにぎゅうっと抱きしめられると、その度に呼吸と共に思考が中断されてしまう。
「愛してるフェリシア。あと半月をどれだけ待っていたか……」
アルベルトの低い声が耳元で囁かれる。
直前まで心に重くのしかかっていたガートルードの存在が、告げられた言葉に一瞬で吹き飛んでいった気がした。
「式までは触れない約束だった。だから今日まで耐えてきた。何度破ってしまおうと思っただろう」
これは義務で演技で嘘だ、想い人は別にいる。
そう囀る声がまだ遠くに聞こえるが、疑う必要がない事をこのぬくもりが教えてくれる。間近で感じる鼓動がアルベルトの言葉の全てを肯定している。
嘘偽りのない、見てきたままのアルベルトの姿がここにある。誤解なのだと繰り返したアルベルトの言葉を今なら素直に信じられた。
「愛してる。ずっとこうして抱きしめたかった」
一際強く抱きしめられて、フェリシアは息を詰めて目を閉じた。漸く知った重なっていた想いに涙が溢れた。
占いを信じて思い込んできただけで、アルベルトが言った通り全ては誤解ですれ違ってしまっただけだと今ならわかる。振られる必要などありはしなかった。
馬鹿な真似を沢山繰り返してきたが、必要だったのは現実のアルベルトを信じることだったのだとフェリシアは思った。
呪縛の様な疑念と脅迫めいた別れを迫る声が頭の中から溶けて消えた気がした。
「ア……ルベルト……様……」
フェリシアが震える手でアルベルトを抱きしめ返そうとしたその時、バタバタと廊下を駆ける足音が近づいて来て、勢いそのままに部屋の扉が開かれた。
「何の音だ! 帰っているのかフェリシア⁈」
ガラス戸の割れる激しい物音を聞きつけて、使用人数名を連れて部屋に飛び込んで来たのは父レイフォード公であった。
「……お父……様」
「——フェリシア! 何が……」
娘を案じ息を切らして駆けつけた父の目に映ったのは、粉々に叩き割られたガラス戸と部屋に散らばるガラス片。
明かりを灯していないせいで、一瞬黒く大きな獣のように思えてしまった血だらけの手で娘を掻き抱いているアルベルト。
そして、髪は乱れドレスも破れ、肩から胸元にかけてを露出しながら涙しているフェリシア。
理性を握り潰されるには十分の光景だった。
「——何をしているアルベルトォォォッ! 今すぐ娘から離れろぉっ!」
窓が揺れたかと思う程の咆哮をあげ激昂した父に、フェリシアは怯えて言葉を失くす。
己の姿と部屋の状況を鑑みて、父がアルベルトに対し良からぬ誤解をしたのは容易に想像がついた。
しかし違うと叫びたいのにあまりの恐怖に声が出ない。何も言えずにアルベルトに身を預けたまま父を見返していると、徐にアルベルトの腕が緩んでそっと身体が離された。
「……弁明はあるか」
怒りに震え鬼の形相で低く尋ねた父に、アルベルトは立ち上がると静かに答えた。
「……ありません」
「そうか」
二人のやり取りに不穏な物を感じ取り鼓動が早くなって来たフェリシアは、震えながらもなんとか声を絞り出す。
「お、おとう、さま……待って、何か……何か誤解なさ——」
「アルベルト」
他を黙らせる威圧的な低い声が響いてフェリシアも沈黙させられる。しんと静まり返った中、父は怒りを押し殺した冷徹な声で告げた。
「お前とフェリシアの婚約は、今日をもって破棄する」
父の発した言葉に震えすら止まる程の衝撃を受けて、フェリシアの頭の中は真っ白になった。
やっとアルベルトの気持ちを確かめられたのに。
空回って遠回りして、やっと繋がったのに。
好きな人と描いた未来を夢見続けても許されると知れたのに。
「……待って……お父様——」
「沙汰は追って出す。今すぐ此処を去れ。そして今後二度と、我が領内に足を踏み入れるな」
フェリシアのか細い声は父に黙殺され、アルベルトは無言のまま一礼すると踵を返した。
「待って……アルベルト様……ぃ……ゃ」
ぽろぽろと溢れ出した涙で声にならない。
フェリシアの引き留める言葉も伸ばした手も届かないまま、アルベルトは振り向く事なく割れたガラス戸から庭へと消えて行った。
昨日までなら望んできた結末だった。
しかし皮肉にも望む必要などないと知った今齎された別れに、去っていく影も見えなくなった庭へ手を伸ばしたままフェリシアは泣き崩れる。
一瞬重なった心はすぐに離れてぬくもりももう思い出せない。繋げたはずの空っぽの手を握りしめてフェリシアは言葉にならない声で泣く。
父は蹲って泣くフェリシアにすぐさま駆け寄り保護すると、長椅子の陰で息も絶えだえのロドニーに気づき、手当と荒れた部屋の片付けを使用人に指示した。
違う、誤解だ、と言わなければならないのに涙が邪魔して発せない。
慰めてくれる父にフェリシアは首を振りながら、か細い声で望まない結末に哀哭するだけだった。
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