六十話 思い出の中でさえ
「……何が、あったの?」
乗り換えた馬車内で、舟に揺られている間黙りこくっていたフェリシアにロドニーが聞いた。
尋ねられたフェリシアは、躊躇いがちに漸く口を開いた。
「アルベルト様が、いらっしゃったの。ガートルードさんをお連れになって」
「あの夜会に……そう、なんだ。それは、驚いたなぁ……」
我ながら白々しいと思いながらも、ロドニーは初めて聞いたふりをする。
「ああいう場に出入りされる方とは思わなかったけどな」
「……ご友人の付き添いって仰ってたけれど、どうかしら。アルベルト様のことが何もわからなくなっちゃったから」
消え入るような声で言って俯いたフェリシアの姿に、ロドニーの胸の中は圧迫されたように重くなる。
選んできた立ち位置からすれば慰めるべきだ。けれど陥れたのは自分だと自覚している手前何と声を掛ければいいかわからない。
ロドニーが何も言わず黙っていると、フェリシアの方が続けた。
「でも、もういいの。何をお考えだろうとお二人であの場にいらした事に変わりはないのだし。今日お会い出来て逆に良かったんだと思う。不貞は上手く行かなかったけど、アルベルト様には分かってもらえたと思うから」
フェリシアは顔をあげた。
「今日戻ったら、お父様に私から伝える。婚約は解消しますって」
想定だったものが確定に変わる言葉に、ロドニーは心臓が大きく鳴るのを聞いた。
目的は達成された。これでガートルードに言われた通り踏み出すだけになる。
だが不安や期待、罪悪感が混在していて気持ちが今ひとつ纏まらずにいる。
急かす声は何処からか聞こえるのに、バラバラの心が指示を出せずに向かい合う車内の僅かな距離さえ詰められない。
「止めて」
頭の中に響く声に気を取られていると、フェリシアが御者に止めるよう合図を送った。
見ればレイフォード邸はすぐそこだった。
「どうしたの?」
「裏から入るわ、こっそりね。まだ家を出てからそんなに経ってないもの。こんなに早く帰ったら何かあったって思われちゃう」
見つからないように部屋に戻り、頃合いを見て帰って来たふりをするのだとフェリシアは言い馬車を降りた。当然ロドニーも倣う。
「……ごめんなさい、付き合わせて」
「いいよ、今さら。いつだってそうだったでしょ。早く戻ろう、冷えるよ」
御者には暫く待機してから戻るよう頼んで、二人は裏手の搬入路から敷地内に入った。
昼間は華やかな春の庭も夜気に息を潜めている。
時折吹く風に音もなく撫でられるだけの静かな庭を通って、二人はテラスのガラス戸からフェリシアの自室へ戻った。
「——ふふ。緊張しちゃった。見つかるんじゃないかと思って」
帰って来たことに気づかれないよう明かりは灯さないが、外から差し込む月明かりで薄暗くはあるも十分に室内の様子は見渡せた。
「子どもの頃を思い出すね。夜こっそり抜け出した事があったよね」
「そうね。花が咲く瞬間が見たいとか、星が見たいとかわがまま言って何度もしたわ。たまに見つかって怒られて……」
そこまで言ってフェリシアは黙った。
伏し目がちなまつ毛が月明かりで頬にくっきりとした陰影を落としている。
薄明かりの部屋は色彩に乏しく影はより黒く濃く目に映る。
抜けるように白い肌に、髪に、暗く落とされた影がフェリシアを物悲しく際立たせた。
何度となく流させてしまった涙を思い起こさせるその姿に、僅かに残る良心の呵責に耐え兼ねた胸が痛む。
しかし、フェリシアが飲み込んだ言葉の先を思うと、それとは別のチリチリと焼ける様な痛みの方が強く走った。
彼女が今思い浮かべて口にしていたのは、自分とではなくアルベルトとの思い出なのだと気づいているから。
花も星も一緒に見に行った。ただし三人で。
幼い時分の二人ではこっそり抜け出す計画は立てられず、わがままを聞いてくれていたのはいつもアルベルトだったから。
誰が発案でも、見つかったら怒られるのも決まって年長者のアルベルトだった。
静まり返った夜の庭に降りて、普段と違った顔をする花を空を見て声を殺して笑って。
共通する記憶の筈なのに、彼女の思い出の中ではアルベルトの存在だけが色濃く鮮明に刻まれている。
その場にいた別の存在が褪せて消えたのではと思うくらいに。
彼女の思い出の中心には常にアルベルトがいるのだとロドニーは思い知る。そして思い出の中でさえ自分はフェリシアの目に映っていないのだとも。
胸の奥をチリチリ焦がす痛みが強くなる。
比例する様に焚き付ける声も大きくなった気がして、ロドニーは紛らわすように黙って物憂げにしているフェリシアへ訊いた。
「……そういえばさ、伯父さんにはなんて切り出すの? 予定では心変わりした事にじわじわと気づかせるつもりだったじゃない」
「それなんだけどね……」
問いかけられたフェリシアがロドニーの方へ困った風な顔を向けた。
「ちょっと懸念はあるんだけど、今日の夜会でとっても素敵な方にお会いしてしまって、予定通り心変わりしたって事にしようかと思って」
「そう……でもそれって、相手の方を追及されるんじゃない?」
「そうなの。本当はそんな方に出会えてないから、嘘を上手く突き通せるか不安で……でももうこれ以上言わずに引き伸ばす事は出来ないし、アルベルト様のご事情も絶対に伏せたい。ずっと気持ちを押し殺させてしまったんだもの、最後くらい迷惑をお掛けしたくない」
思い出の中だけじゃない。婚約解消に向けて動いている今でさえアルベルトの為。
フェリシアの認識する事実では客観的に裏切った形になるのはアルベルトの方なのに、未だアルベルトの事を案じ続けている。
「だけど仮面舞踏会だったじゃない? だから、相手の方は何処の誰かは全く分からないけれど、とにかく好きになっちゃった! で押し通せないかなって思って。その人がどうしても忘れられないから、アルベルト様とは結婚したくないってわがままを言い続ければ、アルベルト様にとっても都合が良いと思うの」
フェリシアの心の中にはいつもアルベルトがいる。
それを今フェリシア自ら消し去ろうと踠いていて、そうなるように望んでもきた。
しかし消えたとてその痕に入り込む事が出来るのか。頭の中で繰り返される心地良かった筈の声が、焦燥感を煽り出す。
「だからね、お父様の部屋に行くのは、もう少し時間が経ってからにしようと思って。楽しくって時間を忘れちゃったくらいの方が、架空の想い人だけど信憑性が出ると思わない?」
わざと明るく振る舞っているフェリシアの痛々しさに、胸の奥を焦がす痛みも響く声も加速する。
「だからロドニー、付き合わせて悪いんだけど、もう少しだけここで——」
「僕じゃダメなの?」
背中を突き飛ばす様な急かす声をいよいよ無視できなくなって、抑えていた気持ちがロドニーの口から溢れた。
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