五十五話 思わせぶり
「アル……」
名前を呼びそうになってフェリシアは口を押さえた。それはこの場ではルール違反だと聞いている為、変に生真面目なフェリシアは咄嗟に従う。
「先約? お一人だと聞いている。邪魔を……」
突然横槍を入れられた男性はイラつきを隠さず、仮面の下からアルベルトを睨めつけた。
だが、長身を自負する己よりも更に高い位置から見下ろされている事。
こちらを睨み返す仮面越しでも分かる鋭過ぎる目が、薄明かりが揺らめく度にギラギラと赤く光って見えた事。
そして掴まれた左手が振りほどこうともびくともせず、ミシッと骨の軋む音を立てながら徐々に強く握られている事に気づいて、男は背筋が凍る思いがして気勢を削がれた。
「あ……そう、ですか……これは失礼を……良い時間をありがとうご令嬢。では、これで……」
男性はパッとフェリシアから離れて、掴まれた手が解放されると同時にくるりと背を向けホールの闇に消えて行った。
「あ……」
フェリシアは男性の消えた方を見やって困惑する。どうしてアルベルトが自分の下へやって来たのかわからない。
父を師としまだ婚約者である以上、アルベルトがフェリシアの保護者的立場を担うのはわかる。
だからこの様な場に出入りしていると知って止めに来る事もあるかもしれない。そこまではわかる。
けれどアルベルト自身もこの夜会の参加者であり、ましてや共にやって来た女性だっている。
それなのに彼女を置いてまで自分を止めに来る理由がフェリシアにはわからない。
良い口実のはずなのだ。
お互いこの場でそれぞれ逢瀬を楽しむ別の相手がいるのだと知れたのだから、円満な婚約解消に至れる口実になるはずだ。
止める必要など何処にも無い。
もっと踏み込んで言えば、この場にガートルードとやって来ているアルベルトにフェリシアが諫められる謂れはない。
それなのに何故と混乱してアルベルトの方を向けずにいると、また、静かだがその奥に押し込めたものを感じさせる声で問われた。
「どうしてここにいる」
記憶の限りこんな声で話しかけられた事はない。怒っているのだと勘づいて、フェリシアはますます振り向けなくなった。
怪しさ漂うこの場にいる自分は酷い婚約者だ、怒るのは当然だろう。
けれどそれはアルベルトとて同じだとフェリシアは思う。
それも堂々と別の女性を連れて夜会に来ているのだから、より酷いと思わずにはいられない。
そのうえ心を寄せる相手が別にいるのだと婚約者の前で白日の下に晒されたというのに、弁明するでもなければこれを機にと婚約解消を言い出すでもない。
ただずっと、この期に及んでもフェリシアが見て来た通りの婚約者として、アルベルトは今ここに立っている。
それが父への義理立て故だとわかってはいるが、こんなにもはっきりと彼女へ気持ちを向けていながら、この場でさえも婚約者の立場で、顔で、アルベルトは接し続ける。
それは、義理や礼節を超えて思わせぶりとでも言った方がいい。
胸の底に残っていた二人に対する嫉妬諸々の感情が、少しずつ再燃していくのをフェリシアは感じた。
忘れようと押し込めて、けれど残っていたそれらが燻るから、また息苦しくなってくる。
「何も答えないつもりか」
アルベルトの呼び掛けにフェリシアが顔を背けたまま黙っていると、会場に流れていた音楽が止まり、踊っていた人々が入れ替わる気配がした。
楽しそうな声をあげながら、無言の二人の周りを影が移動していく。
狂酔の世界で、そこだけが切り取られた様に重苦しい沈黙が二人の間を支配する。
暫くして業を煮やしたのか、アルベルトがその沈黙を破った。
「……一曲、よろしいですかご令嬢」
アルベルトはそう言って徐に手を差し出した。突然の誘いに当惑したフェリシアはその手を取らない。
当然踊る気になどならないし、今アルベルトと向き合いたくない。
保護者の立場として諫めに来たのなら、目的は果たしたのだから追い返してガートルードの下へ戻ればいい。
それをせず、自分を気にかけ続けるのは何故か。
アルベルトがわからない。
わからないからその部分を解釈しようとしてまた夢見てしまいそうになる。
ズルい、と思う。
諦めて忘れようとした物を思い出させる様な真似をしないで欲しい。
振り向かないとわかっているのだから。
フェリシアが顔を背け俯いたままでいると、アルベルトの方から強引に手を握られた。
「よろしいですね」
「あ、や……あの……」
有無を言わさぬ声音で言って戸惑うフェリシアの手を引くと、アルベルトはホールの中央まで移動した。
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