五十二話 裏目
順番にまた迷っているのですがこっちを先に
「アル君、君には貸しがあったよね?」
人の気も知らないで、いや知っているからこそかもしれないが、普段と変わらぬ調子で話しかけてくるニコルにアルベルトは顔を顰めた。
カウペルス邸の一件から、アルベルトの頭の中は認識と現実の間で乖離していくフェリシアの姿で一杯だった。
鍛錬にも身が入らず、本や資料を読み込んでいても頭に入ってこない。脳内ではぐるぐると、淡い色の花を咲かせた生垣の向こうで抱き合う二人の姿が渦の様に回り続けている。
そんな馬鹿なと思う自分と現実を見ろと突き上げて来る自分がいて、あの日思い至った思考が浮かぶ度に打ち消してを繰り返し堂々巡りしている。
そんな考えに脳を占拠され続けて何も手につかずに、ただ机上の本に視線を固定するだけの中、この陽気な男の相手などする余裕はアルベルトにはない。
「……お前に借りを作った事なんてない。むしろ貸してばかりだ」
「ヤダな、もう忘れたの? チケットやったろ? 歌劇の。見なかったらしいし失敗したみたいだけど、それは貸し借りに関係ないよね」
ニコルの言葉が、ぐるぐる回る渦の中に更に雨の日の出来事を投げ込んできた。
あの日から今日までを繋げて考えれば考える程、庭園で思い至った通りフェリシアが真に結婚を望んでいるのはロドニーなのではないかと思えてしまう。
あれ以来フェリシアから何の連絡もない事がその結論を補強するようで、アルベルトは思わず机に置いた手にググッと力を込めた。
「そんな怖い顔するなって! チケット返せなんてセコい事言わないからさ。ちょっと協力して欲しいだけだから」
握った拳同様、眉間に力が入っているアルベルトの様子を意に介さず、ニコルは机に腰掛けると一通の手紙を取り出した。
「俺さ、明日開かれるとある夜会に招待されてるんだけど、妹に見つかっちゃったんだよね。ほらあいつ何だかんだ言ってたけど、結局俺を監視する為に家令に言われてついて来てるから、連れてけって煩くてさ」
「……連れて行けばいいだろ。ニコル、俺はいま誰とも話す気が起きないんだ。悪いが出て行って——」
「その夜会って言うのがこれなんだけどさ」
ニコルは封筒から蝶の模様が付いた招待状を抜き出して、アルベルトが開いていた本の上に滑らせた。
「……お前、これ——」
「そ、噂のあれ。ついに招待されちゃった!」
アルベルトは次期カーライル侯爵を名乗る者として、また足を悪くしている父の代わりとして社交に出向くことも多い。その為いかがわしい噂も耳にする事だってある。
だからはしゃぐニコルの差し出した招待状がどんな代物であるかも一瞬で分かってしまった。
「本当にあったのか。誰から……」
「それは秘密。大人の付き合いには秘密が付き物だし、それを守れてこその大人の付き合いだよ」
でさ、とニコルは招待状を手に取って眺めているアルベルトに顔を近づける。
「流石にこれにガーダは連れてけないだろ? でも連れてかないと行かせないって言うんだ。俺は噂のあの夜会がどれだけ噂通りなのか確かめたくてしょうがないし、招待してくださったのも、さる美しい貴婦人だから無碍に断るなんて失礼なこと出来ない。そこでさ、仕方ないからあいつを連れて行こうと思う」
「本気かニコル。どんな噂が流れているか知っていて——」
「そこでアル君の出番だよ。俺は美しいから夜会でも放っておかれない。そうするとガーダの面倒は見れないからあいつは襲われ放題になるかもしれない。それはまずい。俺の代わりにあいつを守ってやる奴が必要だ。だからアル君しかいないんだよ。お前は無駄にデカいし顔も怖い。そんなのが隣に立ってるのに声かけようって奴は中々いないと思うんだよね。だからさ、一緒に夜会に行こう。それで代わりにガーダを見張って俺の邪魔をさせないでくれ。貸しはこれでチャラって事でいいからさ!」
自分にだけ都合の良い話を並べ立てて微笑むニコルに冷たい視線を投げて、アルベルトは招待状を突き返した。
「断る。そんないかがわしい会に俺は行かない。ガーダも連れて行くな。だから当然お前も行くな」
「なんでだよ? 聞いてたか? せっかく頂いた誘いを断れないよ。お前がついて来れば全部丸く収まるだろうが」
ニコルは机に完全に乗り上げてアルベルトに詰め寄った。
「俺を巻き込むな。そういう夜会に限らず俺は今それどころじゃ——」
「分かってるよ、お前がびしょ濡れで帰って来た日からずっと変な顔してるのは。あ、仲直り失敗したんだなって。だがなアルベルト、そんな顔してぐちゃぐちゃ考えて何になる? 考え続けてお前に分かる事が何かあるのか? ないだろ? お前は女の子の気持ちなんて理解出来ないんだから」
痛い所の芯の部分に斬り込まれてアルベルトは黙った。
言われた通りもうずっとフェリシアの事を考えているが一つも分からない。悪い憶測が膨らんでいくばかりだ。
「そんなお前に今やれる事は婚約者ちゃんに真意を質すか、己の経験値をあげて女心を理解出来るようになるかしかない。でも婚約者ちゃんとはもう話も出来ない程拗れちゃってるんでしょ? 顔に書いてあるよ」
「そんな事は……」
ない、と言い返せずにアルベルトは唇を噛んだ。
今日までフェリシアから連絡がない。
あの庭園で見た限り、また体調を崩したという事はなさそうだった。それなのに、こちらが出した手紙へのただ一言の返信すらない。
手紙ですら言葉を交わすのを避けられる程なのだとしたら、指摘された通り余程拗れている、とアルベルトは思う。
だがこれもまた考えても分からない。そこまでの何かをしたとは自分の中ではやはり思い当たらないからだ。
何もしない事がいけないのだとニコルに促される格好で、待ち合わせた日にこちらの想いだって伝えたつもりだ。
しかしフェリシアにきちんと届いただろうかと、何のリアクションもない今アルベルトは不安に思う。
いつから熱を出していたのか、それもまた気づけていなかったからフェリシアはあの日の事を憶えていないのかもしれない。
それなら仕方がない、そう思える。
けれどもしもきちんと伝わっていて、その上で何の連絡も貰えないでいるのなら、拗れる以前の問題かもしれない。
そんな物が端から求められていなかったのだとしたら。
フェリシアが待っている物が自分ではない誰かから贈られる物なのだとしたら。
また、思考が庭園で出した答えに戻って行く。
その結論には繋がらないフェリシアの不思議な行動や言動も少なからずあるというのに打ち消すに至らないのは、それほど迄にあの庭園で抱き合う二人の姿が、胸に強く焼き付けられてしまうほど印象的だったからだ。
まさしく、恋人と呼ぶに相応しい二人の姿にこれまでの認識が揺らいでいく。
もうすぐこの手に掴めると思っていたものが霧の様に消えていく。
何故そうなったのか、いつからそうだったのか、考えてもわからない。
黙りこくって、獲物を奪われ怒りを露わにする獣の様な表情を浮かべるアルベルトに、ニコルは尚も斬り込む。
「怖っ。ほら、やっぱりね。そんな状態じゃ彼女と無事に婚約式迎えられるかも怪しいよ。なんとか溝を修復しなくちゃいけないけど、現状対話は難しい。ならどうしたらいい? 今の内に経験を積むんだよ! 女心を理解する訓練! この夜会なら打ってつけだ! 身分も立場も全部隠して自由な交流を謳うこの会で、女の子と沢山お喋りしてくればちょっとは分かるようになるって! なあ、アルベルト」
無茶苦茶な理論だ。ただ自分の都合を通したいだけの、何処にも正当性などない戯言だ。
そう思うのに、アルベルトはニコルに対し毅然として断るとは言えなかった。
その無茶苦茶に縋ろうと思ってしまうくらいに、アルベルト一人では同じ考えに行き着くだけで、フェリシアの気持ちがわからない。
少しでも嫌な思考を打ち消せて、彼女の考えがわかるのなら。そんな淡い期待を抱いた一瞬をいやらしく突かれて、アルベルトは連れられるがままこの夜会にやって来てしまった。
そして今、目の前にいるはずの無い人が立っている現状に直面している。
ふわふわのプラチナブロンド、抜けるような白い肌。仮面の奥の艶めく碧色、薄桃の花を思わせる唇。
見間違うことなどない。紛れもなくフェリシアだ。
だからこそよりわからなくなる。
こんな夜会に参加する事も、存在すらもきっと知らないはずの人なのに。どうしてこんな所にいるのだろうか。
また、見つめて来たはずの彼女と現実の彼女の乖離が加速していく。
アルベルトはフェリシアのはずの女性を見つめたまま動きを止めた。
もう何もわからない。
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