四十九話 幻想にさよならを
まだ足がふらついている。
目に映る世界にどこか現実感がない。まるで夢の中だ。
けれどフェリシアは知っている。これが現実なのだと。
分かっているのに、暖かな夢を見続けられるならば覚めなくても良かったと、あの占いを聞いた日と同じ事を考えている自分を愚かだと思う。
しかしこれは紛うことなき現実なのだ。
つい先ほど、美しく彩られた庭で抱き合っていたあの二人の姿は夢ではない。
万に一つの期待も打ち砕く光景にもう夢など見れはしない。
何故期待してしまったのだろうと、ついさっきまでの自分が信じられない。今まで全て占い通りだったのだから、急に覆ることなどないのに。
その証拠に今だって、寝込んでしまったあの日から一度もアルベルトは訪れていないし、手紙もあれ以降一通も届いていない。
夢の外の世界はこんなにも冷たかった。
庭園から戻ったフェリシアは、自室のガラス戸からいつもアルベルトがやって来る庭をぼんやりと眺めた。
「……そう、占い通り。アルベルト様には想い人がいて、それはガートルード嬢で二人は想い合っていて……でもアルベルト様はお優しくて義理堅い方で、だから私と仕方なく結婚しようとしてる……」
これまで何度も確認してきたことを改めて口にする。
今まではどこかで、きっと、そうだろう、と仮定に留めておきたい自分がいたが今日はいない。それはもう事実としてここにあって受け止めるしかないからだ。
アルベルトはガートルードを愛している。
はっきりと結論付けてしまうと逆に乾いて聞こえて涙は出なかった。
あの庭園で泣き尽くしたからかもしれないが、心の中も意外と冷静だ。
アルベルトの優しさに思い違いをしてきた自分を知った今、もう夢見ることもない。
それよりも、現実を受け止めて、すべき事をしなければならない。
「……言わなくちゃ。私から、婚約の解消を。お父様にも私のせいだと納得してもらえて、アルベルト様にも一片も気に病むことなく私が悪いと思っていただける理由を作って」
フェリシアは、明るい陽射しに包まれているガラス戸の外を見る。誰もいない庭をじっと見ていると記憶の中の景色が重なって見えてしまう。
華やぐ庭を突っ切ってやって来る人影。あちらが窓を叩く前にこちらから庭に迎えに出ると、嬉しそうに微笑んでくれる。
忙しい合間を縫って会いに来てくれる優しさも、大好きだった子どもの頃から変わらない笑顔も、全て特別なんかではなくただの礼儀だった。
そうあって欲しいと願った気持ちが起こした勘違いだった。
フェリシアは思い出の中の笑顔と幸せだった気持ちを消し去る様にぎゅっと目を閉じた。
カーテンを握りしめて、波立ってきた心を落ち着けるため大きく息を吸って吐き切る。
肺の空気と共に心に残った甘えた気持ちを追い出して、もう一度庭を見た。
もう幻は見えない。
フェリシアは庭から目を離し、机に向かうとペンを取った。
*
これで良いと思ってはいるが、後悔はないかと訊かれたら二つ返事では頷けない。どれだけ自分は彼女を苦しめているのだろうと、涙するフェリシアを見る度にロドニーは思う。
昨日庭園から帰ったフェリシアは今日もまだ部屋に閉じ籠もったままでいる。余程落ち込んでいるのだ。
傷つく彼女を見たいわけではない。ただ自分の願いを叶える為には、必然フェリシアが傷つく過程を経る事になる。
彼女には笑っていて欲しいのに、自分の気持ちに素直になると彼女を泣かせる結果になる。この葛藤がずっと苦しい。
でもきっとあと少しなのだ。
あと少しでフェリシアの心がアルベルトから離れていく。
そうしたら、償いの気持ちを込めて慰め、傷ついた心に寄り添い続ければいい。
笑顔を取り戻すまでずっと傍にいてフェリシアに愛を伝えていれば、いつかきっとその愛に応えてくれるはずだから。
だからそれまでは、フェリシアの悲しむ姿に自分も耐えなくてはならない。
汚い手を使ってまで彼女の心を欲しがる下劣で醜悪な自分にも。
物思いに耽って書き物をする手がずっと止まったままだったロドニーが、一旦休憩しようと席を立った時、部屋の扉が叩かれた。
「はい」
「ロドニー、入ってもいい?」
やって来たのはフェリシアだった。
「ごめんなさい、忙しいところ」
「いや構わないよ。フェリシアこそ、その……大丈夫?」
思い詰めた様な表情のフェリシアにロドニーはそう聞いたが、フェリシアは否定も肯定もしない。暫く黙った後、徐に口を開いた。
「……ロドニー、私ね、やっと目が覚めたの。今度こそ漸く覚悟出来た。アルベルト様に振っていただくなんて卑怯な真似しないで、自分から身を引こうって」
フェリシアの目に先日の温室の時とは違う、けれど決意の色が浮かんでいるのを見て取って、ロドニーの胸が鳴った。
「何度もそう思ったのに出来なかったのは何故かなって考えたの。単純にお慕いしているからなのはもちろんそうよ。でもね、ずっとアルベルト様しか見て来なかったから、だからアルベルト様にこんなにも固執するんだとも思ったの。他を知らないから、私が何も見て来なかったから」
もうすぐだ。もう少しで、フェリシアの心がアルベルトから離れる。
「だから、私、他の人を知ろうと思う。アルベルト様を忘れられる様に他の方へ目を向ける。他の誰かを……好きになりたい」
やっとフェリシアの瞳がアルベルト以外を映す。ずっと傍にいた自分に気づいてくれる。
「でも……全く知らない人をなんて……怖いなって思うし、どうお知り合いになればいいのかも……。だから、私、どうしたらいいか考えたわ。それでね……そのことでロドニーにお願いがあって来たの。ロドニーにしかお願い出来ないことだから」
フェリシアが懇願する瞳を向ける。
アルベルトを忘れる為でも構わない。その碧色が自分だけを見つめてくれるのなら。この先だってずっと傍にいるのだから、いつかきっと本当に——。
高鳴る胸を静めて、いつもの様に落ち着いた声でロドニーはフェリシアに訊き返す。
「……なんだろう?」
一瞬躊躇いを見せたフェリシアは目を伏せてから、改めて決意を宿した碧色でロドニーを見た。
「ロドニー……お願い」
「うん……」
失いかけた期待がまた形を成していく。
相対するフェリシアの言葉を待たずに手を伸ばしてしまいそうな自分を抑えて、ロドニーはフェリシアの潤んだ瞳を見返した。
じっとこちらを見つめたフェリシアは一つ瞬くと、涼やかな声で静かに告げた。
「私に——つき合って」
そして後ろ手に隠していた一通の手紙を胸の前に掲げてみせた。
「……うん?」
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