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四十二話 半覚醒

 倒れてから二日経って、フェリシアはようやく庭を歩けるまで回復した。

 次の日になっても熱が引かず寝て過ごした為か、久しぶりに歩く庭は普段よりも華やいで見えた。


 先日の雨に煙って褪せていた姿が嘘の様に感じる。 

 まさしく麗かな春が咲いている庭で、フェリシアはあの雨の劇場を思い返した。


 あの日の事も今のフェリシアにとっては夢だった様な感覚がしている。


 あの雨の日、アルベルトの体温に安心した辺りから、フェリシアの記憶は曖昧になっていた。

 屋根の下まで連れて行かれて、謝ったところまでは不確かながら憶えている。だがその後だ。

 

 アルベルトは怒っていなかった気がする。それに対し何故と思った気も。

 けれど何を話したかは憶えていない。

 どんな風に謝ったのかも、アルベルトがどんな言葉を発したのかもぼんやりしていて思い出せない。

 ただあの鳶色の瞳がいつもと変わらず優しかった気がするだけだ。


 フェリシアは一度立ち止まると庭を逸れて温室へと向かった。


 降り注ぐ春の日差しが暖かいガラス張りの温室は、足を踏み入れただけでホッと安らぐ。

 温室内を賑やかす花々の葉や花弁についたままの水滴は、陽の光に煌めいていて眩しい。


 フェリシアは幾らかほぐれた心で、中央の丸テーブルへと向かい椅子に腰掛けた。そして手にしていた手紙に目を通す。


 それは今朝届いたアルベルトからの手紙だった。


 メアリーから渡された時点でもう何度も読み返しているが、やはりどこにも婚約解消の文字がない。それどころか先日の非礼に対する非難の言葉もない。


 雨の中何時間も待たせ、わざと約束を破ろうとした事もアルベルトには正直に伝えたと思ったが、これまで同様許容されてしまったようだ。

 手紙には逆に、フェリシアの体調への気遣いと謝罪の言葉があるのみだ。


 どうしてこんなに自分を気遣うのだろう。どうしてこんなに優しく接してくれるのだろう。


 いつも疑問に思う通りそう思ったが、今日のフェリシアはそれに対し解の様なものを抱いている。


 アルベルトはそういう人だ。今も昔も。初めて会ったあの日から。


 フェリシアを慈しむ様に見守って、危険があれば庇ってくれる。転ばぬように手を引いて大事に大事に守ってくれる。幼い頃から何も変わらない。

 疑う事など微塵も無かった時と同じく、変わらず優しいままなのだ。


 鳶色に浮かべる慈愛も、柔らかな微笑みも、フェリシアを呼ぶ声音の優しさも、手のひらの暖かさも。何も変わらない。

 フェリシアに対して、ずっと愛情を持って接してくれる人なのだ。


 完全に父の知り合いしか居ないような小規模の社交場にしか出向いた事がなく、友人も多くはないフェリシアは世間知らずの自覚がある。

 実体験に基づく経験はもちろん乏しく、数少ない友人からの伝聞やその手の読み物から得た知識しかない。


 だからアルベルトが自分に向けてくれる愛情が、どういった類に属するものかは定かではない。

 けれど、馬鹿な真似を繰り返して来た今に至ってわかる事がある。


 フェリシアに対するアルベルトの姿勢には嘘偽りなどないのだろうという事が。


「……だって子供の頃から変わらないんだから、もし作り物だったとしたら役者も驚いてしまう程の名演技だものね」


 手紙を見つめて呟いたフェリシアは、自分の言葉に可笑しくなって噴き出した。

 優しくはあるが不器用なアルベルトがそんな真似出来るわけがないと知っているからだ。


 子供の頃フェリシアの星を見たいと言うわがままを聞いて、二人でこっそり部屋を抜け出し騒ぎになった夜。上手い言い訳一つ出来ずにフェリシアを庇い黙って怒られていたあの人が。


 先日同様、実は昔からラズの実摘みがそう上手くない不器用なあの人が。


 デザートをひっくり返したとかそういった些細な事で泣くフェリシアに、毎度酷く動揺してオタオタするばかりのあの人が。


 演技など出来ようはずがない。

 だからこれは本物なのだ。疑う事など無かった時と寸分違わず。


 フェリシアはそう強く思った。

 

 疑念から揺らいでいた思い出の中のアルベルトの姿がまた輪郭を取り戻していくようだった。

 何も疑う事はない。これが望む愛情とは違っても、少なくともアルベルトはフェリシアを愛してくれている。


《アルベルトはあんたの事なんて微塵も愛してないの》 


 だから、偽りがあるとするならあの占いの方だ、とフェリシアは思う。


 あの占いとアルベルトの行動や言動の間に事あるごとに感じた齟齬は、アルベルトの方ではなく占いの方にあったのではないか、と今ならそう思える。


 雨の降る中、待ち続けてくれたアルベルトの姿にどうしてと問いかけながらも、心の何処かでは待っていると思っていた。いや知っていた。

 ずっとずっと見つめて来たアルベルトはそういう人だからだ。

 そして今も変わりなくそういう人だった。 


 あのゴツゴツした手で綴られたとは思えない整った文字を見つめて、フェリシアが夢から覚めた様な気持ちでいるとカチャンと音がしてロドニーが温室にやって来た。


「いた。移動するならメアリーに言わないと。病み上がりだから皆心配してるんだよ? 急に消える前科だってホヤホヤなんだし」


「あ……ごめんなさい。ちょっと考え事したくて」


 ロドニーは仕方ないと言うように嘆息してフェリシアの向かいに座った。


「……それはアルベルト卿から?」


「ええ、今朝届いて。心配してくださってるの。私酷いことしたのに」


「すっぽかそうとしたんだっけ?」


「そう。そうやって失礼な事をしていたら振っていただけるかと思って」


 フェリシアは手紙の最後に記された署名を細い指でなぞるとロドニーに尋ねた。


「……ねぇロドニー。あの占いをどう思う?」


 唐突な質問にロドニーが瞠目した。

「どう……って?」


「私ね、思い込み過ぎてたのかなって……。事実と、かもしれないことを一緒にし過ぎてたのかもって」


「……うん?」


「ロドニーも言ってくれてたじゃない、あくまで占いだからって。いくら当たるって言われていても、私信じ過ぎていたんじゃないかなって……急に思って」


 ロドニーは、手紙を見つめるフェリシアには見えないようにテーブルの下でグッと拳を握った。


「占いを信じ過ぎて、事実を見ていなかった気がするの。見えているアルベルト様の方がおかしいんだって思い込んで……。でも違う気がして。だってアルベルト様はずっと、幼い頃からお変わりになってないんですもの」


 フェリシアはまた、手紙の署名を見つめて指でなぞった。

 アルベルトからの手紙に愛おしげな表情を向けるフェリシアにロドニーは眉根を一瞬寄せたが、すぐに笑みを作って穏やかに反論する。


「……確かに、そうかもしれないけど……でも、現にガートルード嬢はいらっしゃったじゃないか」


 フェリシアは手紙から目を離しロドニーを見た。

 

 外から射し込む光が映り込む碧色の瞳に、微かに憂いと迷いが浮かんだのを見てとってロドニーは続ける。


「彼女とアルベルト卿はとても仲睦まじく見えたけどな……少なくとも僕には。あの占いが指すのは彼女なんだろうなって無理なく思えるくらいに。君もそう思ってなかった?」


 それは……、と口籠って目を伏せたフェリシアを見てロドニーは握っていた拳から力を抜いた。


 けれど、また手紙に綴られたアルベルトの名を目にしたフェリシアはすぐに顔をあげる。そして真っ直ぐな眼差しをロドニーに向けた。


「……それもそう思ってしまっただけかもしれない。だって、アルベルト様の口からまだそうだと聞いていないもの。アルベルト様に確認していないもの」


 今までと違うフェリシアにロドニーは動揺した。

 ガートルードがフェリシアに施した何かから覚めかかっているのだと気づいて焦燥感が湧き上がる。


 内心の動揺を悟られまいと平静を装ってロドニーは諭すように反論した。


「君は……口約束とはいえアルベルト卿の婚約者なんだよ? その君から想い人ないし恋人の事を尋ねたところで、答えるとは思えないけど……」


「そうね。そうかもしれない。でもきっと嘘だけは吐かないわ。そんな器用な方じゃないから」


 ほんの少し微笑んだフェリシアにロドニーは何も言えなくなった。

 

 どんなに仲を乱してやっても、自分には見えず、触れる事も出来ない部分で二人は繋がっているのだと見せられた気がしてしまった。


 微笑んだフェリシアは意志の灯った瞳を陽射しに煌めかせて続けて言った。


「だから私、振られようとする前に確認しようと思うの。アルベルト様のお気持ちが誰にあるのかを……私をどう思っていらっしゃるのかを、きちんとご本人からお聞きする。私は……振られなくちゃいけないのかを」


 陽に透けた白金の髪は降り注ぐ光に溶けたようにけぶって見えて、目に痛いほど眩しい。

 直視するのが苦しい程の眩しさに、形を成しかけた期待の輪郭が揺らいでいくようで、ロドニーは、そうと呟いて俯くしかなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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