三十四話 灰色に呑まれて
昼食もとうに終えて、早めのティータイムを居間で過ごすフェリシアは、やはりアルベルトの事を考え続けていた。
昼前から降り始めた雨は未だ止まず、春であることを忘れさせるほど空を寒々しい色に染めて雨足を強めている。
約束の時刻から相当な時間が経っているしアルベルトもとっくに帰っているに違いない。
そう思うが非礼を働いた罪悪感からか、この雨ではゴンドラも運行していないだろうし、もしもまだ待っていたら——と想像してしまって心が落ち着かない。
「……どうしたの? 朝からずっと様子が変だけど、具合悪い?」
朝からずっとこんな調子のフェリシアを、ロドニーが定期的に気遣ってくれる。今日の約束と作戦の事はロドニーにはもちろん誰にも言っていないので、出掛ける予定であった事は知らない。
だからフェリシアは尋ねられる度に曖昧に笑って誤魔化した。ロドニーをも騙している様で心がより重くなる。
フェリシアは小さく嘆息して、取手に指をかけて持ち上げるでもなく、カップを満たした冷めゆく液体を眺めてから、また居間の窓へ目を移し雨の様子を気にした。
すると庭を館に向かって歩いてくる人影が見えて、フェリシアはドキッとした。アルベルトだと思ったからだった。
このすっぽかしに対してその内アルベルトから手紙か直接訪問があって詰問されるだろうとは思っていたが、今日の今日、それも雨の中やってくるとは思っていなかった。
その為、フェリシアは心の準備が間に合っておらず鼓動が速くなる。
「……だ、大丈夫。知らぬ存ぜぬを通して、無視する。出来る、大丈夫」
「フェリシア? 本当にどうしちゃったの? 何かあるの?」
挙動不審な上にぶつぶつ言い始めた従姉妹の様子にロドニーが訝しみだす。フェリシアがまた笑って誤魔化そうかと思った時、メアリーがやって来た。
「お嬢様、アルベルト様の——」
「し、してないわ何も、約束なんて。知らないからって言って、今日は、あ、会わないわ」
「……何を仰っておいでで……。アルベルト様の使者がいらっしゃって、お嬢様が在宅かどうかを確認されて行きましたが、何か……お約束でも?」
「……使者」
てっきり本人が来たと思っていたが、この舟も動いていないだろう雨の中だ。来るはずがないと気づき、同時にアルベルトは帰宅したのだと分かってフェリシアはホッと息を吐いた。
「いいえ、何も」
そう答えたフェリシアに、メアリーは少し考える様な表情をした。
「そう、ですか」
「な……何か、使者の方が言ってらして?」
「いえ……この雨ですから、弱まるまで休んでいかれてはと応対した者が言ったそうなのですが、アルベルト様がお待ちになっているから取って返すとの事でしたので何か急ぎのお約——」
「待ってる⁈ どちらで? ご自宅よね?」
フェリシアは驚いて立ち上がりメアリーに詰め寄った。
「さ、さあ。子細は伺っておりませんので……」
態度の急変したフェリシアにメアリーは驚いてロドニーと目を合わせたが、ロドニーも事態を飲み込めていないので首を傾げるしかない。
「誰か知らないの?」
「誰も伺っては……よろしければ聞いて参りましょうか? まだ門の外に馬車がおりましたので今なら間に合うか——」
「門の外? わかったわ」
フェリシアはメアリーの言葉を最後まで聞く事なく居間を飛び出して階下の玄関ホールへ走った。
「フェリシア! 何処行くの! 雨が降ってるんだから外になんて出ちゃダメだよ!」
ロドニーが慌てて叫んだのを背中に聞きながら、フェリシアは階段を駆け下りると玄関を抜け、雨降る庭に出来た水溜りを踏み越えて門まで走った。
馬車は丁度御者が席に着いたところだった。
「待って!」
雨音に負けない様に普段出さないレベルの大声を出す。力任せの声であっても高く澄んだそれは雨音に掻き消されることなく御者の耳に届いて手綱を握る手を止めさせた。
「……お嬢様? どうされました!」
雨の中を走って来るフェリシアに驚いて門番が声を掛けたが、フェリシアは答えず閉まりかかっていた門を擦り抜けると、門番同様驚いている御者の元へ駆け寄る。
「待って! 戻られるってどちらへ? ご自宅よね? アルベルト様はご自宅にお帰りですよね?」
「フェリシア様、濡れますのでお戻りに……」
「何処です⁈」
「——ア、アルベルト様でしたらお待ち合わせのご予定だった劇場前に居られますが……」
「まだ待っていらっしゃるの⁈ どうして……」
雨も降る中、朝から何時間も待っているだなんて癖にしたって信じられず、フェリシアは驚きを超えて動揺し口許を押さえた。
「とうに約束の時間を過ぎているのにアルベルト様は何故まだ劇場前にいらっしゃるの? お帰りになるか、こちらへいらっしゃれば良かった筈なのに。貴方だけを寄越してこんな時間までお待ちになっているのは何故⁈」
「それは……アルベルト様が、いらっしゃらないフェリシア様に何かあったのではと相当にご心配なさっていたからです。けれど、もしもフェリシア様が遅れていらっしゃるだけでしたら、あの場を動いては行き違いになってしまうとも危惧されておりまして……。そこで、アルベルト様はあの場に残られて、私をフェリシア様のご在宅と安否の確認に伺わせました」
「……怒っては、いらっしゃらないの? 私が使者もやらずに約束を破った事を、怒っては——」
「アルベルト様はただフェリシア様の安否を気遣っておいでで、怒るなどという事は……あの、濡れますのでお戻りに……」
フェリシアはそう聞いて息を詰めた。
癖だなどと失礼な疑いをかけていたが、アルベルトはフェリシアの非礼過ぎる行為に怒るでもなく、寧ろ安否を気にしてくれているという。
連絡もせずわざと待ち合わせをすっぽかしている最低な人間に、未だ心配と底抜けなまでの優しさを向けてくれるアルベルトに対し、フェリシアはずっと抱いてきた罪悪感が一気に膨らんで、酷い裏切りをしたのだとの思いに押し潰されそうになった。
「……行かなきゃ……こんなつもりじゃなかったの……謝らなくちゃ。乗せて下さい、連れて行って」
「そんな、フェリシア様。この雨ですし時間もかかりますので今からお連れするわけには……ご許可も……」
「構わないわ乗せて! お願い!」
フェリシアの懇願に御者が折れて馬車に乗せた所で、ロドニーが庭を走って来るのが見えた。
「フェリシア! 戻るんだ! 何処に行く気なの!」
「ロドニー! 私行かなくちゃ! 酷い事をしたの! 謝らなくちゃ! すぐに戻るからお父様には言わないで!」
フェリシアは車内から叫んで、ロドニーが門にたどり着く前に馬車を発たせた。
「フェリシア! 行っちゃダメだ! 戻って!」
降り続ける内に強まった雨音と馬車の駆動音の向こう側で、ロドニーの制止する声は灰色の世界に吞まれてフェリシアには届かなかった。
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