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三十二話 アルベルトの苦悩

 アルベルトは普段ふらりと出掛ける時の何倍もかけて入念に身支度を整えると自宅を出た。


 玄関先に待機させてある馬車までの短い道のりの間に、うるさくなりがちな心臓を深呼吸を二、三度して整える。


 落ち着いて来た所で馬車に乗り込んだが、車内に一人になるとまた心音がうるさくなって来るので、アルベルトは目元を押さえて一つ溜め息を吐いた。


 ニコルに言われるままフェリシアに歌劇のチケットを付けて手紙を送り、色よい返信があったので一先ずホッとしたのが一昨日。

 今日はその観劇の日で、カーライル侯領とレイフォード公領の間に位置するノルデン伯領にある、古城を改装した劇場に足を運ぶ所だった。


 当初、フェリシアの父に許可を貰う——当日報告する事に正直肝を冷やしていた——事も兼ねて迎えに行くつもりでいたアルベルトだったが、フェリシアからの返信に父へは自分から報告することと、現地で待ち合わせがしたいとの希望が書かれていたので、フェリシアの下を経由せず直接ノルデンの劇場へと向かっているのだった。


 運河を使えば早いのはわかっているが、これもニコルに言われるまま馬車で移動している。

 

 観劇を終えた後、街中や運河の畔でも散策してから馬車でフェリシアを送り届けろとの助言があったからだった。

 そうすればたっぷりと二人きりの時間も空間も作り出せるのだから、後はそこで——と言う事らしい。


 言われた通りにするつもりは毛頭無かったが、無から有が生まれることは往々にしてあることだし、そもそも無ではなく必死に抑えているのだから、結局言われた通りにしてしまいそうでアルベルトはまた深く息を吐いた。


 いつぞやニコルに言われた事を思い出してしまう。

 フェリシアに対して自分を過度に律し紳士的な大人として振る舞い続けてきた手前、急に距離を詰めたらどう思われるかがアルベルトは非常に気になっていた。

 

 たががバカになって衝動に負けそうになった事は何回かあったし、偶然事故的に抱きしめる形になったこともあるが、今日は半ば箍を外すと決めている様なものだからそれらとは事情が違ってくる。

 意図的に意思を持って、フェリシアに触れてしまった時に何と思われるものか。驚き拒否されるだろうか。それとも、吐露してくれた気持ちの通りなら受け入れてくれるだろうか、と。


 正式に婚約している仲ならば、そういった数々が二人の間にあったとしてもおかしくはないだろうし悩む事もなかったかもしれない。


 しかし、改めて考えてみれば今の状態は宙ぶらりんなのだと気付いてしまってアルベルトは悩む。


〈親同士が決めた婚約者になる予定の者〉


 という回りくどい間柄。

 そこへきて未来の義父に先手を打たれて身動きを封じられ、婚約云々に関係なく恋仲に発展させる事も出来ないまま、この微妙な立ち位置を今日まで守らざるを得なくなった。


 フェリシアを大事に思うからこそ距離を保ち、自分を律し、紳士に振る舞って来たわけだが、それを状況も立ち位置も変わらぬまま急に崩したらどう反応されるものか。


 ただ、今のフェリシアは守って来たそれら全てが裏目に出て不安になっているのだと、ニコルに指摘された通りアルベルトも気づいている。

 直接的にはっきりと言葉に行動にして気持ちを伝えたことがなかった為に、フェリシアもまたこの回りくどい関係に悩んでいるのだろうと。


 だかしかし、それは裏を返せば言葉と行動を待っているということだ。はっきりとアルベルトの口から愛を伝え、行動で示せば、きっとフェリシアは——。


 そこまで考えてアルベルトは片手で額を押さえた。


「……待て待て。あの女好きの悪魔にのせられてる。行動までは必須じゃないだろう。すべき事はまず謝罪だ。それからガーダへの誤解をといて、きちんと気持ちを——」


 言いながら頭の中で予行したアルベルトは、フェリシアがあの潤んだ碧色の瞳でこちらを見つめる姿を想像してしまった。


 不安そうに涙を薄っすらと溜めた瞳が、髪と同じ色の睫毛を揺らして瞬く度に艶々と輝く。

 無垢さの中に憂いを湛えたその瞳が自分だけを見つめて、庭を彩る花の様な唇が小さく開く。

 そして小鳥の囀りを思わせる高く澄んだ愛らしい声がアルベルトを呼び、伝えた想いに応える様に頬を赤く染めて嬉しそうに微笑んで……。


 はぁー、と今日何度目かの溜め息を深く吐き出して、アルベルトは思考を中断した。

 

 想像の中でさえとどまれる気がしないのだから、それが実際に起こったらぐちゃぐちゃ考えていた事など全部吹き飛んで、フェリシアを躊躇いなく抱きしめてしまうだろう。


 散々反論してきたが、今や自分を律せる気がしない。結局はニコルに以前指摘された通り、指示された通りになっている、とアルベルトは舌打ちした。


「……あいつ、本当にムカつく」


 アルベルトは馬車の小窓に目を向けた。

 街道沿いの運河を小型の船がゆっくりと航行して、アルベルトの乗る馬車を追い越して行った。


 船が通過して割れた水面は、激しく揺らめいた後にまた一つの穏やかな河に戻っていく。

 今日の水面は輝きに乏しい。アルベルトは運河から目を離し空を見上げた。


「……曇ってるな」


 広がるはずの青空には灰色の雲が薄くかかり、太陽を覆い隠していた。

お読みいただきありがとうございます。

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