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百七話 この春が終わるまでは

 急に手を掴まれた為、フェリシアは初日の出来事を思い起こして身を竦めたが、サフィールは構わず話し始めた。


「俺は帝位が欲しい。誰にも支配されない自由を得るために。お前との婚姻は帝位をより確実にする為だけの、言わば偽装だった」


 そう語るサフィールの声からいつもの尊大さが消えている気がして、怯えていたフェリシアはサフィールへと顔を向ける。


「俺を支持する者達は皇帝の腹心と対立する派閥の一部、戦功をあげて取り立てられた新興貴族や、十分に自活できるほど税収が思わしくない狭領の貴族が主だ。このまま融和が進んでは身上が危うくなる為に、勲功や戦利品、あわよくば自領の拡大を目論んで従来通りの強硬な姿勢を望んでいる」


 サフィールは握った手を見つめていて表情が窺いづらいが、先程のような鋭い目はしていないようだった。


「だから俺は取り込んだ者達の声に応える意味でも、帝位に就いた暁には武力をもって他を支配し、蹂躙する道を歩むつもりでいた。いや、その道しかないと思っていた。圧倒的な力で支配する側に回る以外にないのだと」


 ぎゅっと、握った手に力が込められる。


「……だが考えが変わった」


 そう言うとサフィールはそれまで握った手に落としていた視線をあげ、フェリシアの碧色の瞳を正面から捉えた。


「融和に転換しようとする今、その象徴となる俺が帝国の体制へ根本的な改革を叫ぶことに不思議はない。帝位に就きさえすれば、多少の無理も通るし、黙らせるだけの実力を付けてきたつもりでもいる。血統を誇るしか能を持たない者どもを一掃し、優秀な者には相応の地位と保障を与えてやれれば、配下からあがる戦争を望む声も不満もある程度は抑えていけるだろう」


「……殿下……?」


「お前が示したように、和睦によって自由を手にできる道があるのなら戦争を望む必要がない。支配することもされることもなく、自由に生きられる世界を作れるのなら……そうしていきたい。今はその為に帝位が欲しい」


 フェリシアを見つめるサフィールの瞳は変わらず力強い。

 しかしそこに鋭さはなく、代わりに真摯さが宿っている。


「帝位を得る為に融和の姿勢を見せかける。今日までそういう話だった為に、俺が翻意したとなれば強硬派の反発も摩擦も当然あるだろう。敵はこの先も多いままで、実際に帝位に就けばより危険の増すこともある。だがお前には触れさせぬと誓う。必ず守り通すと」


 金の瞳は僅かもぶれることなくフェリシアを真剣に見つめ続けて、フェリシアもまた目を離せずにじっと見つめ返す。

 温室に差し込む陽の光が金色を一際輝かせて、その中に映される自身の姿がよく見えた。


「婚約を控えていたお前が、どのような経緯で俺の婚姻相手に選定されたかは知らない。そしてあの男に未だどのような思いを抱えているのかも。だが——」



 サフィールはフェリシアの手を握るのとは反対の手を伸ばし、黙って見つめ返すフェリシアの頬に触れると言った。


「あの男を忘れろ、フェリシア。そして飾りではない本当の意味で、妃としてこの先を俺と共にしてほしい」


 サフィールの言葉にフェリシアは息を呑む。


 一度は何もかもを失くして、意味もなく孤独に生きると絶望したフェリシアにとって、サフィールのその言葉はこの上ない理想だ。

 新しくこの場所で生きていくのに必死に作ろうとしていた意味も理由も、夫となるサフィールの隣にみつけられるのだから。


「何処にいても気の抜けないこの場所でお前の側なら安らげる。俺にはお前が要る。他に妃は置かない、お前だけだ。フェリシアお前にもそうあってほしい。だから」


 忘れろ、と囁いてサフィールはゆっくりとフェリシアへ身体を寄せた。



 傲慢で冷徹そうだったサフィールの妻になるのは怖かった。

 仕方がないのだと言い聞かせた理由だって空虚になりかけた。


 だが今サフィールは心をフェリシアに向けて、和平の道を共に歩もうとしてくれている。

 祖国の為、支えたいと思ったサフィールの為、そして自身の抱えた傷を癒やす為にもなる、新しい幸せがここにある。

 サフィールを拒む理由などない。



 身を屈めたサフィールがゆっくりと近づいてくる。


 目の前まで迫った金の瞳、額に触れる猫っ毛の前髪。寄せられた唇にフェリシアは目を閉じ——


「……ごめんなさい」


 それでも零れてしまった涙に、フェリシアは顔を背けた。何度も首を振って、掠れた声で違うと繰り返す。


「違います、嫌じゃないです……嬉しいです。殿下がそんな風に思ってくださって……嫌なわけじゃないんです。だって私だって殿下のこと好きですもの。政略結婚だってわかっていたのに、思い合えるんでしたら、……そんな幸せなことはないです……」



 でも、それでも。どうしても思ってしまうのだ。


 見上げた際の角度が違う。腕を組む高さが違う。

 同じくらい低い声でも、身体の真ん中にまで響いてこない。


 握る手の感触が違う。大きさが違う。

 目の色だってどんなに光に透けてもあの実のような赤にはならない。


 髪の色も質感も、纏う空気だって何もかもが違う。

 そっくりな傷痕を辿っても、柔らかく微笑んでくれる唇には辿りつかない。


 身体が触れるその度に、思い出す熱との相違に切なくなる。

 もっとずっと熱かった。もっとずっと大きくて、もっとずっと温かだった。


 サフィールの中にずっとあの人との違いばかりを探してしまう。


 遠い思い出になんてできない。

 まだずっとアルベルトは傍らにいて、五感の全てが憶えている。


「嬉しいです。でも、ごめんなさい……もう少しだけ、待っていただきたくて……私、まだ」


 忘れられない。

 どんなに現実を受け入れて忘れようとしたって、褪せることなく色づいて、思い出すその度に想いと共に鮮やかに蘇る。


「ちゃんと、忘れます。だけどもう少しだけ待って欲しくて……せめて、正式にあなたの妻になる日までは、せめて……」


 思い出すアルベルトとの記憶はもう全て余韻でしかない。

 ただそれがまだ鮮明に聞こえるから、アルベルトへの気持ちだって消えていかない。

 今もずっと愛している。


 だけどもうあの日々が戻ることはなく、意味も理由も、きっとこの先愛せる人も新しくここにある。

 婚姻を交わす日までに、二度と開かない思い出にしなくてはいけないのだ。


 けれど今だけは、整理するまでのあとほんの少しの間だけは思い続けることを許して欲しい。

 二人で同じ想いを持って、この先をずっと共にするのだと、夢見た春が終わるまでは。



 フェリシアは微かに泣き声を漏らしポロポロと涙を零す。

 サフィールは握った手の上に落とされる雫を見つめて何も言わずに、肩を震わせるフェリシアをそっと抱き寄せた。

お読みいただきありがとうございます。

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