百六話 歩み寄る二人
「お前は歌が上手すぎるな」
もう夏と言って差し障りのない陽射しに暖められた温室で、フェリシアに歌わせていたサフィールがそう言った。
アイシャの話を聞いて以来、サフィールはフェリシアとお茶の時間を共にするようになっている。
「歌詞が違っていたらまるで別の歌に聞こえただろう」
「元の歌とはそんなに違いますか? 教わった時からこの歌でしたから、私にはどこが違うのか……」
「そうか、なら最初に教わった者もおそらく歌が上手かったのだろうな。あいつが歌うと高音は大体裏返って毎回音が変わるし、低音は途中から全部同じ音になって聞けたものじゃなかった。それをちゃんと歌になるように補正したようだから大したものだ」
「そんなに違うのでしたら是非元の歌を聞いてみたいところです。もちろん原曲の方も」
歌ってくれるかと期待してフェリシアは長椅子の隣に座るサフィールへ視線を送ったが、サフィールはふいっと素っ気なく顔を背けてお茶を啜った。
「……あれはヘタクソに歌う方がいいんだ。俺が歌ってもああはならない」
「そうですか……ではヘタクソに歌えるように練習しておきますね」
フェリシアがそう言ってふふっと笑うと、サフィールもほんの少し微笑んでみせた。
お互いに抱えていたものを吐き出したあの日から、フェリシアとサフィールの距離は以前よりもずっと近づいたように思う。
フェリシアはもちろん、サフィールの方からも日々少しずつ歩み寄りが見られ、今のように共にする時間が増えていた。
まだ憶えることがいっぱいのフェリシアに助言をくれることもあるし、時折他愛もない雑談だって交わす。
孤独に、ただ置き物として生きていくと思っていた日々が賑わい始めていて、フェリシアはここへ来てやっと穏やかに笑えていた。
この現実なら悪くはない気がする。
そう感じられる時間がこれからどんどんと重なっていくのならば、前を向いていけそうだと思えた。
たまに子どものように見えるこの人を、支えていく妃になれるよう努力しよう。
そうすればここにいる理由もきっといくらかは見出せるだろうから。
フェリシアがそう思い直せたところで、サフィールがカップを置いて、ふと思い出したように顔を向けた。
「お前は何故サファル語を憶えた?」
何故、と聞かれて鼓動が一つ大きく鳴った。そのきっかけはあの人だからだ。
「……知人が……カミルと楽しそうにサファル語でやりとりをしていたので……興味を持ったからです。一緒にお話しが出来たら楽しそうだなと……」
やっと受け入れた現実に押し込めたものが染み出しそうになる。
それを見ないように努めて、フェリシアは返答を絞り出した。
「……その知人とやらはサファル語が出来るのか」
話を切り上げたかったのに、サフィールは何か気にでもなるのか更に追及してくる。フェリシアは困ってなんとか話題を逸らそうと試みた。
「……カミルを引き取った方のご家族で、言葉を教え合ううちに自然と憶えたそうです。とても優秀な方ですよね。少し学んでみましたが、こちらの言葉に適切な訳がないと言いますか、表現が広く曖昧になる感じがして私には難しく思えたのに簡単と仰って……」
「……まぁ、確かに。独特なニュアンスの言葉が多くはあるからな」
サフィールが話にのってきたので、フェリシアはしめたとばかりにサファル語習得の話へと軸を移した。
「殿下はカミルの立場でいらっしゃいましたよね。どのくらいで公用語を習得なさったんでしょうか」
「一年程だ……サファル語がおかしかったから、教えられたのが正しい公用語なのかその後半年は疑っていたがな」
「一年……その逆も同じくらいで憶えられるものでしょうか。そうしたら私もう一度学んでみたいです。単語だけでしたらせっかく憶えた言葉も幾つかありますし、頑張って学び直せばいつかは殿下とだって——」
『愛してる、だったな。お前があの夜、口にしていたのは』
急なサファル語と一つだけ聞き取れた単語に驚いて、フェリシアはビクッと身体を震わせた。
何事かとサフィールを窺うと、先程まで幾らか柔和だった表情が急に不機嫌そうになっている。
「殿下……すみません、何と仰ったのですか?」
「わざわざ憶えた単語の一つが愛してるなのか、と言ったんだ」
「あ……それは、あの……からかわれて……頑張ってくらいの意味だと教わったのですが実は違ってい——」
「だが今は正しい意味を知っている。その上で発した、赤狼に向けて。そうだな?」
初日の夜に向けられたような強い眼差しに射抜かれて、フェリシアは言葉に詰まった。
サフィールが突然不機嫌になった理由もわからないし、何よりきつく口を縛ったつもりの気持ちを掘り返す質問に動揺してしまう。
「お前の言う知人とは赤狼だな。あの男の為にわざわざサファル語を憶えたのか」
否定したとて別の言い訳を用意できないので、フェリシアは素直に答える以外にない。
「……そう、ですが……サファル語を憶えたかったのは、本当に二人のやり取りが楽しそうだったからで——」
「赤狼とは深い仲ではなかったのだろう? それなのに何故あの男と接点を持とうとした? 憶えたのは最近だったはずだな」
半ば睨むような厳しい目つきでサフィールがじっと見下ろしてくる。
フェリシアは急変した態度と、揺り動かされた気持ちに戸惑うばかりだ。
「で……殿下……すみません、私何かお気に障ること——」
「あの男には他に慕う者がいる。だからふられたかったと言っていたと思ったが。それなのに未だに口にするのか、愛していると」
「それは……」
「何故だ」
サフィールの追及は眼差し同様鋭くフェリシアへ突き刺さってくる。
瞳の圧力のあまりの強さに、フェリシアは頬の傷の借りを返すと言っていたあの夜のことを思い出した。
「一時は恋仲であったが捨てられた。そうではないのか」
執拗な詮索に、ここで下手に返答してはあの時と同じことが再現されるのではと、不安が過ったフェリシアは怯えた目でサフィールを窺う。
不思議な色合いの金の瞳は未だ鋭く見つめてきていて、怖くなったフェリシアが思わず目を逸らすと、サフィールは短く息を吐いて身体ごとフェリシアへ向き直った。
そして、フェリシアが無意識に胸の前で握りしめていた手を取った。
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