百五話 ガートルードの涙の魔法
「おば様!」
その時、バタンッと大きな音を立てて部屋のドアが開けられた。
廊下に立っていたのはガートルードで、涙を溜めた悲痛な表情をして少しの怒りを滲ませていた。
「ガートルード——」
「おやめになって! 今アルベルト様にそんなお話なさるなんて! この状況下で誰よりお辛いのはアルベルト様なのに!」
「でもね、ガーダ、私達心配で——」
「お気遣いには感謝致します。おば様達のご心中もお察し致します。でもそのお話はまた後日お伺いしますから、今はそっとしておいてください!」
ガートルードはそう言うと、まだ何か言いたげな夫人をアルベルトの部屋から追い出した。
ドアを閉めた姿勢のまま、ガートルードは肩で息をし涙を拭う仕草を見せている。
部屋の中は時折りガートルードの鼻を啜る音が微かに聞こえるだけとなった。
「……アルベルト様、ごめんなさい。こんな時にあのようなお話し……」
「いや……ガーダが謝る必要はない。父の怪我もあって母は少し不安定になっているんだ。巻き込んで悪かった」
「アルベルト様こそ謝られる必要は……アルベルト様のせいじゃありませんもの。おじ様のお怪我もおば様のことも……フェリシア様のことだって」
そう言ってガートルードは振り向いた。
目には涙を溜めていて薄っすら赤くなっている。
「……ご立派ですねフェリシア様は。国同士の架け橋となるべく隣国へ渡られたのですから。お相手の皇子様にはあまり良いお噂を聞きませんのに……それでも大義の為にアルベルト様の下を去られる決断をされた」
ガートルードの言葉にアルベルトはまた書類を握る手に力が入る。
ガートルードはそれを認めてさらに続ける。
「アルベルト様だってフェリシア様のご決断を尊重されて……お二人で歩むことを諦めて静かに受け入れたんですもの。我欲に溺れることなく、別れをお選びになったお二人はご立派ですわ」
立派なものか、とアルベルトは皺だらけになった書類に目を落とした。
受け入れてなどいない。
今だって忙しくして頭をいっぱいにしておかないと、生まれた余白にフェリシアとの思い出が顔を覗かせて、その度に衝動的に家を国を飛び出してしまいそうになるのだから。
だがそういうわけにはいかない。
自分には継ぐべきものと守るべきものがあるのだと、擦り切れかけた理性で繋ぎ止める。
何もかもを捨てて逃げられはしないし、フェリシアにも捨てさせられはしなかった。
彼女だってそう決断したのだとわかるから。
だから必死に、仕方がないのだと諦めさせて体裁を取り繕っているだけに過ぎない。
何をおいても守りたかったはずのものは結局守れず、情けないだけだとアルベルトは目元を押さえた。
「……お辛いのですね、アルベルト様。こんな突然の別れですもの当たり前です。それなのに普段通りに振る舞われて……そんな気丈なお姿を見てると私……」
段々と声を詰まらせたガートルードは顔を覆って泣き出したようだった。
それに気づいて、アルベルトは書類を置いて入り口付近に立ったままのガートルードの側へ向かう。
「……ガーダ、君が泣くことはない。心配させて悪かった」
「アルベルト様が……お泣きにならないから……私が代わりに泣くのですわ。こんなに辛いことありません……だって、私だったら……いっそ何もかも忘れてしまいたいと思ってしまうほどだもの」
漸く何の蟠りもなく手を取れる日が来たと思ったのに、掴み切る前にすり抜けて行った。
握りしめた手には何も残らず、ただ思い出の中でだけフェリシアが微笑み続ける。
もう戻っては来ないのに。
「……そうだな。それが出来たらきっと、楽になるだろうな」
仕方がない。諦めろ。
遠い思い出にして忘れるしかないのだとわかっているが、いつまでもあの微笑みと高く澄んだ声が頭の中で繰り返される。
これからはずっとその笑顔も小鳥を思わせる笑い声も、傍にいて見続けられると思っていたのに。
思い出す度に胸の奥が痛んで苦しい。
「いっそ忘れられたら、いいんだろうな」
愛しくて仕方なかった記憶の全てを忘れられたら、この痛みも消えるだろうか。
そう思って堪らず零したアルベルトに、ガートルードは覆った手の隙間から、にぃっと笑顔を見せた。
「では忘れてしまいましょう」
「——ガーダ?」
アルベルトが尋ね返すと、ガートルードは顔を覆っていた手をスッと避けて、垂れ目気味の濡れた瞳でアルベルトをじっと見上げた。
艶々と輝くその瞳は、普段の青紫とは違い艶やかな赤紫色に染まっていた。
「もう戻って来ることのないフェリシアへの想いなんて、持っていても辛いだけ。愛した記憶と共に忘れてしまいましょう?」
クラッと目眩がする感覚がして、頭に靄がかかった気がする。
ガートルードは目の前にいて話しているのに、何処か遠くから語りかけているように聞こえてアルベルトはこめかみを押さえた。
「忘れましょう、アルベルト様。そして代わりにその愛情は、私に向けてくださいませ。例えお慰めするためでも、お側にいられるのなら喜んで婚約致しますわ」
「いや……だが……それは……」
ぼんやりする意識の中、僅かに残った理性で何かおかしいと感じ取ったアルベルトは抗ってみせる。
「ガーダ、いいんだ……母に気を遣ってくれなくて……」
「おば様の都合に巻き込まれたなんて思ってませんわ。私アルベルト様のことずっとお慕いしていたんですもの。ずっとずっと小さい頃から。もっとずっと前世から」
赤紫の瞳を見開いて、ガートルードは未だ抗うアルベルトへ詰め寄った。
「大丈夫。その愛が本物かどうかなんて、この瞳の前では無意味ですから。だって、ずっと私を愛してくれるように魔法をかけ続ければ、それはもう本物と同義だもの。私はあなたに愛されたい。あの笑顔を向けられたい。フェリシアの代わりに婚約者になりたいの」
アルベルトの頭の中にはガートルードの赤紫の瞳が焼き付いて、エコーのかかった声がこだまし続けている。
「だからアルベルト様、私を見て。そしてフェリシアを忘れて私を愛して微笑みかけて」
ガートルードはふらつくアルベルトへ身体を寄せ、しなだれかかると下から覗き込むようにアルベルトを見つめた。
「アルベルト様。私と婚約、してくださいますよね?」
赤紫の瞳は瞬きもせず、じっとアルベルトの鳶色を捉え続ける。
頭の中では誘うガートルードの声が響き、赤紫の瞳以外アルベルトの目には入らなくなっている。
何かおかしい気がしたが、やがてそう思う気持ちもぼんやりした意識の海に呑まれていって、ただ赤紫の光と繰り返される言葉だけが正しいと思えてくる。
そこへ、
ね?
と赤い唇から吐息に近い声が漏らされ、再度問いかけられた。
その言葉に、最後の理性の一雫を弾かれて、魔性の瞳に捕えられたアルベルトはガートルードへ向けて優しく微笑んだ。
「……ああ、そうしよう」
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