百四話 フェリシアのいない世界
先日の港での失態から、ガートルードは当初、カーライル邸に着いた時点でアルベルトに魔法をかけてしまう気でいた。
しかし到着から日を跨いだ今の時点で、ガートルードは未だアルベルトへ魔法を発動させてはいなかった。
昨日のロドニーの言葉に影響を受けたわけではないが懸念から慎重になっている。
目の前で共に昼食を取っているアルベルトが、気持ち悪いくらいに普段通りであったからだった。
てっきり、いつぞやの婚約破棄直後に見せた憔悴した姿でいると思っていたのに、アルベルトは普段と変わらず凛と姿勢を正し食事をしている。
それどころか昨日も今朝も、領主に代わり様々な書類に目を通したり出掛けたりして仕事はするし、早朝から訓練も行っていた。
まるでフェリシアのことなど無かったかのように、普通なのである。
その姿が信じられず、そしてまた渾身の作戦が何の意味も為さなかったのかと愕然として、ガートルードは魔法を発動出来ずにいた。
昼食を先に終えるとまた出掛ける予定があるようで、アルベルトは早々に食堂を後にした。
夫人と二人残されたガートルードは、ここからどうするべきか考えあぐねて唇を噛む。
追い詰めたはずなのに、魔法をかければいいだけのはずだったのに。
ガートルードがアルベルトの座っていた席を見つめてそう思っていると、カーライル夫人が気を遣った様子をみせた。
「ガーダ、せっかく来てくれたのにアルベルトが慌ただしくてごめんなさいね」
「——いいえ、おば様。予定もお聞きせず突然伺ったのですからいいのですわ。おじ様もお怪我なさったと聞きしましたしお忙しいのは仕方ないかと……」
「気を遣わせて悪いわ。アルベルトを心配して来てくれたのでしょう? それなのに……」
「お兄様からお話しを聞いて、いてもたってもいられなくて私が勝手に来てしまっただけで……それに今お辛いのはアルベルト様ですから……」
そう、そのはずなのだ。
それなのにアルベルトは落ち込んだ様子もみせず、至って普段通りなのである。
恋人との唐突で抗えない別れに普通は傷つくものではないのか?
いつぞやと同様、何も手に付かず心にぽっかり穴が開くのではないのか?
昼食を終えて部屋へと向かう廊下で、アルベルトの不可解さにガートルードは首を捻った。
だが、ふと窓の外に出掛けようとするアルベルトを見つけて足を止めた。
アルベルトは馬車の支度を待つ間、庭先で奥の方へと目を向けている。
こちらは二階で距離もあるし、後ろ姿のアルベルトの表情をはっきりとは読み取れない。
けれどその背中が漂わせる雰囲気は、背筋は伸びているのにどこか物悲しく、庭のガゼボへ向けたちらりと見える横顔は寂しげであった。
「……そう……そうよね……」
アルベルトは弱っていないわけではない。
必死なのだ。
必死に普段通りの姿勢を貫いて、フェリシアのいない世界を日常に落とし込もうとしているのだ。
唐突で理不尽ではあるが、この別れはフェリシアの決断でもあるとアルベルトはきっとよくわかっている。
だからこそ食事もゆっくりと取らないほど忙しく、フェリシアを思い出す隙間を作らないように努めて、この現実を受け止めようとしているのだとガートルードは読み取った。
傷つかないわけがない。
喪失感に打ちのめされないわけがない。
「……私とあんたは違うわ。手に入れるわよ、必ずね」
馬車に乗り込むアルベルトを横目にガートルードは夫人のいる居間へと踵を返した。
「アルベルト、いいかしら」
護岸工事の視察から帰って来たアルベルトが部屋へ戻ると、間を置かず母がやって来た。
「なんでしょうか」
「あなた少し働きすぎではないかと思って……領主代行としての責任感はわかるわ、でもガーダも来てくれているのだし——」
「……ご心配ありがとうございます。父上の怪我の事もありますので、なるべく私で対応出来るものは片付けておきたいのです」
言いながらアルベルトは次の仕事へ取り掛かるため書類を机に並べだす。
「でもね、アルベルト……少しは休まないとあなたまで倒れてしまうわ。フェリシアのことで心労だってあるでしょう? 私達だってとても……苦しかったもの……」
フェリシアの名に、アルベルトはピタッと書類を整理していた手を止めた。
「フェリシアのことは突然で……こんなことになるだなんて夢にも思わなくて。だってあなた達の婚約式まではあと十日ほどだったんだもの。準備だってほとんど終わっていて……」
母が残念そうな表情で語る話しをアルベルトは俯いて何も言わずに黙って聞いている。
「一度レイフォード公から婚約破棄のお話しがあった時は落胆したけれど、またあなた達が元に戻れて私達も本当に幸せで」
母の言葉に押し込めていたフェリシアとの記憶がアルベルトの脳裏に浮かぶ。
もう戻らないのだと諦めさせて、フェリシアの意志で選んだ結果だと尊重し、受け入れようと必死に固めた心が突き崩されていく。
「それがこんな風に全てなくなって、フェリシアは隣国へ輿入れするなんて……想像もしていなかった」
しているはずがなかった。
これからはもうすれ違うこともなく幸せな日々を送れる、そうとしか思っていなかったのだから。
「そのうえ旦那様が階段から落ちられて怪我を……想定していなかった事ばかりで私とても不安なの。そこへあなたまでもしも倒れてしまったらと思うと……お願いだから自分を大事にして、アルベルト」
「……ご心配ありがとうございます。私は大丈夫ですので……」
アルベルトはそう絞り出す。
いつの間にか握りしめていた書類はグシャグシャになっていた。
「不安なのよアルベルト……フェリシアとの婚姻もなくなって、あなたに何かあったらこの地を継げる者もいなくなるんだもの。心配なの。このまま独りで無理をしては——」
「……無理などしては——」
「頼っていいのよアルベルト。独りで無理をしないで誰かに頼って。支えてくれる人は側にいるわ。例えば……ガーダみたいに」
それまで悲しげにしていた母は、そう言うと微笑んだ。
「あの子、あなたとフェリシアのことを聞いて飛んできてくれたのよ。誰よりもあなたを心配してる。あの子なら今のあなたの辛い気持ちに寄り添って、きっと癒してくれると思うの。優しい子だもの」
「……そうですね、ガーダはニコルの妹とは思えない気遣いの出来るしっかりした子です」
「ニコルは領主になっても変わらずああいった風だから、私達もガーダの今後をずっと心配していたの。でもあなた達なら幼い頃から知った仲なのだし安心じゃない。考えてみてはどう?」
「……母上、それは……どういった意味でしょうか……」
握り潰した書類を広げ直す手を止めて、アルベルトが母の言葉の意味を質した。母はまた心配そうな表情を浮かべている。
「世の中には自分の力ではどうにも出来ないこともあるわ。フェリシアのことは仕方がないこと。忘れる以外に解決法はないのよ。その為にもあなたが立ち直るには、誰かが側にいた方がいいと思うの。あの子ならきっとあなたのこともこの地のことも支えてくれるわ」
母はそういうと、再び微笑みかけた。
「だからね、アルベルト。フェリシアとのことは忘れて……ガーダとの婚約を考えてみてはどう?」
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