百三話 これからは共に
「……泣くな。その声は明るく笑っていなければいけないんだ」
驚いて目を開けたフェリシアが見上げると、見下ろすサフィールの金の瞳と目が合った。
けれど目の前にいてこちらを見ているのに、サフィールは何処か遠くを見ている気がした。
「大きな声で煩く喚いて、いちいち大袈裟に反応して、音痴のくせに自信たっぷりに堂々と歌って——」
窓の外から差し込む陽射しを受けて金の瞳は鮮やかな輝きを放っている。
しかし先ほどまでの燃え盛る輝きではなく、暮れていく陽に感じる物悲しさを揺蕩わせている。
その瞳が一瞬翳ったと思った刹那、頬の上にあった手がするっと滑り落ちてフェリシアの二の腕を掴んだ。
「……許してほしい。あいつを殺してお前から笑顔を奪った俺を。あの時二人の幸せを願えなかった愚かな俺を、どうか……」
聞き取るのがやっとの掠れた声でそう言いながら、サフィールは身を屈めると縋るようにフェリシアの肩口に頭を凭せかけた。
遠くを見ているように思ったサフィールが、自分の中にアイシャを見ていたのだとフェリシアは気づく。
似ている声が呼び水のように、別れを経験してからずっと独り抱えてきた気持ちを溢れさせたのだろう。
ついさっき馬車の中で溜め込んできた気持ちを抑えられなくなったフェリシアと同じく。
やはりサフィールとはどこか似ているのだとフェリシアは思う。
過去を話してくれたのも、きっとサフィールもフェリシアに似た部分を感じ取ったからだろう。
大切な人が別れを経ても心の中にいて、どうにもできなかった悔恨と二度と戻らない歯痒さを抱える。
似た痛みと傷を持っているのだ。
だから、分かり合える部分も傷を埋め合えることもやはりあるかもしれない、とフェリシアはまた思ってしまった。
しかし以前とは違う気持ちが根底にある。
あんなに傲慢で冷酷に見えたサフィールが、今はフェリシアには傷ついた子どものように見えている。
例え相互に歩み寄れずこちらの一方的なものになろうとも、他意なく支えてあげたい、そう思った。
フェリシアの左肩に凭れかかったままサフィールは動かない。
表情は窺えないが、背中が震えている気がして思わずフェリシアが手を伸ばした時、サフィールが再び呟いた。
「……もう一度、今までのように笑ってほしい。あのヘタクソな歌をもう一度聴きたい。もう一度……」
「……下手な……歌——」
懇願するように呟かれた言葉を復唱したフェリシアは、ハッと思い至った。
「殿下……私、アイシャさんのことを知っているかもしれません」
確証はなかったがつい口をついて出た言葉に、フェリシアの肩に頭を乗せていたサフィールが顔をあげた。
「殿下も気にしてらっしゃいましたよね、私が歌っていたあの歌のことを。私に歌を教えてくれたカミルという男の子は、商人の女性から教わったと言っていました。その方は明るくて、声が大きくて……歌がお下手だったと」
驚いたようにフェリシアを見つめてサフィールは金の瞳を瞠った。
「私の歌は殿下の憶えていらっしゃるものと少し違ったのですよね? 殿下はあの歌をアイシャさんと一緒にお歌いになっていたのではありませんか? もしカミルが教わった歌が、商人の女性の……その……歌がお下手でいらしたから、間違った音程で伝えられていたものだとしたら——」
その商人とはアイシャではないだろうか。
そんな期待を込めてサフィールを見上げると、サフィールもフェリシアと同じ目をして見つめ返していた。
「……本当のことはわかりません。今どのようなお気持ちでいらっしゃるのかも、その方がアイシャさんであるかも……ですが、もしもアイシャさんだったのなら、ここでの思い出が詰まっているだろう歌をうたってらっしゃったんです。大きくて明るい声で、きっと笑って」
フェリシアはそう言ってサフィールに微笑んだ。
「殿下……悲しい出来事の記憶はアイシャさんの中にも残っているとは思います。でも、思い出の歌をまた明るく歌えるくらいです。アイシャさんにとってここで暮らした日々の記憶は、悲しみよりも幸せな思い出に溢れているのではないかと思うんです」
悲しい記憶を思い出すこともあるかもしれない。
けれど、口ずさむ懐かしい歌と共に紐解かれる思い出は、きっと幸せだった日々の記憶だ。
幸せな思い出を歌うアイシャは、悲しみも受け入れてきっとまた明るく笑えるようになっているのだろう。
だからサフィールも、もう自分を責め続けなくて——と言おうとしたが、フェリシアは続く言葉を発せなかった。
向かい合うサフィールが、初めて見る顔で笑ったからだった。
いつもの皮肉った笑みではなく、かといって腹を抱えて笑っていた時の顔でもない。
安堵したように穏やかで、ともすれば泣き出しそうにも見える柔らかな微笑みをサフィールは浮かべていた。
それが、思い出の中の大好きだった笑顔と重なって見えて、フェリシアは言葉が紡げなくなった。
瞬間的に思い出が蘇る。
サフィールの中に無意識に彼を探してしまい、見慣れた傷痕によく似た頬の裂け目に視線を止めると、サフィールが呟いた。
「いつかまた会える日が来るだろうか」
小さく囁かれた声はいつも通りのノイズの混じった低い男声だ。
しかし不思議と、声の響きは不安そうに肯定を求める子どものそれのように聞こえた。
フェリシアは、頭を占めかけた思い出とは重ならないその声に、意識を引き戻しサフィールの金の瞳を見つめた。
「……ええ、きっと。どちらにいらっしゃるかは分かりませんが、帝国もグランリッターも共に大国ですもの。その二つが和睦に向かえば大陸全土がいつか平和になる時も来ると思います。そうしたら、どの国とだって交流を持てて、何処へだってきっと自由に探しに行けます。いつか必ず、また再会できる日が来ると私は思います」
安心させるようにそう言うと、腕を掴んだままだったサフィールが一瞬微笑んで、フェリシアを引き寄せ抱きすくめた。
突然のサフィールの行動に驚いたフェリシアは動揺して、抱き寄せられた肩越しに見える鉢植えや低木にキョロキョロ視線を彷徨わせる。
「——で、殿下っ……あの——⁈」
「その時は共に来てくれるか、フェリシア」
慌てふためいていたフェリシアだったが、サフィールが初めて名前で呼んでくれたと気づき、驚きで動揺が治まる。
一方的になると思った関係にサフィールからの確かな歩み寄りを感じて、心に抱えていた孤独と虚しさが軽くなった気がした。
「……もちろんです、殿下がお望みでしたら。だって私達は……これから先を共にするのですから」
そう伝えると、サフィールが抱きしめたフェリシアの肩口に、まるで擦り寄る猫のように顔を埋めた。
くしゃっとした癖毛がフェリシアの頬に触れる。
猫に似たサフィールの黒髪は、見た目の印象通り猫っ毛で柔らかだった。
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