百一話 サフィールと過去
※ごめんなさい、血が出るところがあります!
サフィールが帝国に連れられてきたのは七、八歳の頃。
仲間と野営し夜を明かす中、突如現れた帝国兵によって連れ去られた。それはほとんど襲撃と呼べる形で、拉致であった。
理解の出来ない言語で話す男達に囲まれて、わけも分からず連れてこられた地。
突き刺さる悪意と好奇の視線に怯え、言葉すら通じない周りの全ては敵でしかなく恐怖に震えた。
皇宮から離れた薄暗い邸宅に押し込められて過ごさなければならない孤独と混乱の日々。
そこに変化があったのは、通訳のアイシャと専属で護衛に付くこととなったペタルという青年がやって来てからだった。
最初にやって来たのはアイシャのほうで、思わず笑ってしまうような可笑しなサファル語を話す、うるさいくらいに明るいよく笑う女性だった。
ヘンテコだが言葉の通じる安心感に、アイシャとのやり取りを重ねることで次第に竦んでいたサフィールの心もほぐれていった。
ほどなくしてやって来た護衛の割にはひょろっとしたペタルも、元は農民の家系であった為か血統主義思想も薄く、怯え警戒する子どものサフィールに対して素直に同情したようで好意的だった。
帝国に来て初めて出会った友好的な二人の存在で、サフィールは漸く安心出来る場を得られることとなった。
「信頼しておられたんですね、お二人のこと」
「当時はあの二人以外に関わることもほとんど無く、必然的に」
そうして少しずつ言葉を学んで暮らしにも慣れていく。
帝国内の事情などはまだよくわからなかったが、サフィールの世界はこの小さな邸宅とアイシャとペタルで構成されていたので、殿下と恭しく呼ばれようが異教徒と蔑まれようが、皇宮に渦巻く不穏な物は全て外の世界のことでどうでも良かった。
ペタルの指導で菜園の世話をして、アイシャが手に入れてくる見慣れない植物の栽培に三人で苦心する。
ささやかだが穏やかで心休まる時間だった。
サフィールの二人に対する信頼は厚くなり、二人もまたサフィールへそれこそ弟のような愛情を向けて接してくれた。
時間を重ねる毎に三人の絆はより一層深まっていく。
サフィールからの信頼も、二人からの慈しみも。
そして、二人の間を繋ぐ関係も。
「お二人は……恋仲に?」
ふと一瞬、瞳を見合わせすぐに逸らしては恥ずかしそうに笑い合う。
菜園の手入れの合間、ほんの僅か手を触れ合わす。
たったそれだけのことだが、それでもアイシャの表情は自分には向けないものになっているとサフィールは感じ取った。
「さあ……そこまでは。ただ俺にはそう見えた。そしてどうにも子どもらしい感情だと思うが、俺はそれが気に入らなかった」
壊されると思った。
奪われるの方が近いかもしれない。
アイシャの中に母に変わる愛情を感じ、少なからず恋慕に近い感情を抱いていたこともあって、サフィールは変化していく二人の関係にやっと手に入れた安心出来る居場所を盗られてしまうと焦燥感を抱いた。
サフィールにはわからない二人だけのやりとりが日に日に増えて、アイシャがペタルにだけ微笑んだと気づくたびに焦りと苛立ちは募っていく。
やがてその嫉妬の矛先はペタルへと明確に向いた。
だから、とサフィールは低木の葉を毟り取ると言った。
「意趣返しとばかりにペタルを困らせてやろうと考えた」
何の用であったかは覚えていないが、その日サフィールは非常に珍しく外に連れ出されていた。
馬車に揺られ見知らぬ市街地に着く。もっとも帝国内で知っている場所はあの邸宅だけだったが。
「怒られればいいと。あまり深く考えずに、ただそれだけで……なんとも子どもじみている。自分の立場がわかっていなかった」
ぼんやりとした記憶の中では、数人の偉そうな男達に引き合わされて何事か話していた気がするが用は早々に済んだ。
帰途に就くため再び馬車に乗り込むよう促された時、サフィールは行動を起こした。
馬車に乗ると見せかけて、突如走りだすと住宅地の路地に飛び込んで逃げたのだ。
専属の護衛である為、外出にも当然同行していたペタルを始め数名が慌てて追いかけてきたが、細い路地を右に左に駆け抜けてまんまと撒いてやった。
逃げ切ったサフィールは息を乱しながら、これできっとペタルは大目玉を喰らうだろうとほくそ笑む。
アイシャを、あの穏やかな時間を奪って行こうとした罰だ、と達成感でいっぱいだった。
しばらく隠れて探し回らせた後、頃合いを見計らって戻ろうと思った時に、ふと気づいた。
今なら逃げられる、自由だと。
わけもわからず連れて来られ、邸宅に繋がれた生活から今なら逃げ出せる。
あの時襲撃を受けた家族だって探しに行ける。
しかし同時に思った。
今戻らなければ、ペタルは、アイシャはどうなるのだろう。
自分を逃したペタルが想定よりも重い罰を受けてしまうかもしれない、と。
二人がいなければ迷わず逃げただろう。
だが自由と天秤にかけても決められない程、サフィールにとって二人と過ごす日々はかけがえのない新しい居場所になっていた。
逃げるか戻るか。
戻るにしてもペタルが護衛を外されたら元には戻れないかもしれない。
だったら逃げてしまった方が……しかし一人で何処にいるともしれない仲間を見つけられるだろうか、だけど——。
懊悩していたサフィールは意識が内に向いていた為に、背後の路地から近づいてくる足音に気づかなかった。
ザリッと砂を踏みつけた音が漸く聞こえたところで、見つかってしまったと振り向くと、見知らぬ男が一人真後ろに立っていた。
平民と思しき服を身につけていたが、右手に光る短刀にサフィールはただの市民ではないと直感する。
握られた短刀の構えには戦闘の心得があると見え、こちらを見下ろす瞳は並々ならぬ殺気を放っていたからだ。
向けられた殺気に総毛立つ。
一気に血の気の引く感覚に、今までよく理解出来ていなかった帝国における自分の立場を瞬時に悟らされた。
ある者にとっては連綿と続く皇帝の血を繋ぐ希望であり、またある者にとっては政権を握る為の道具であって、そしてある者にとっては生かしておけないくらい忌むべき存在なのだと。
《卑しき異教徒め。帝国の血は汚させない》
低く吐き捨てられた言葉と共に、サフィールの胸元目掛けて短刀が振り下ろされる。
避ける間も防ぐ術もなく、短刀の切っ先が自身に迫り来るのをサフィールは見ているしかなかった。
ドン、
と衝撃が走って、刃が身体に突き立つ。
しかし刺さったのは自身の胸にではなかった。
深々と、根元まで短刀が突き立てられたのは、サフィールと男との間に身を滑らせたペタルの背中だった。
気づけばサフィールは地面に横倒しにされている。
男の凶刃がサフィールに及ぶ直前、真横の細い通路から走ってきたペタルがサフィールを突き飛ばし庇ったのだった。
目の前で差し貫かれたペタルの姿に驚愕し声もないサフィールに、仕留め損ねたと忌々しそうな表情を向けた男が短刀を引き抜くと、赤い血が壁に地面に振り撒かれた。
よろめいたペタルの口からゴボッと吐き出された血の量にサフィールにも深手だとわかる。
しかしペタルは手負いながらも剣を抜きサフィールを背に男と対峙する姿勢を取った。
男も一瞬血濡れた短刀を構え直したが、ペタルの駆けて来た路地から別の騎士達の足音が聞こえだしたことで、男は騒ぎが大きくなるのを嫌ったのかすぐさま身を翻して逃げて行った。
男が去ったのを見届けると、ペタルはガクンと地面に膝をついた。
服から滴るほど流れ出た血が床に赤い水たまりを作り、レンガの溝に沿ってじわじわと伸び広がっていく。
呆然と見つめていたサフィールは足先にまで迫って来た血の一筋に我に返り、ガクガク震える足で這いずって、蹲るペタルの側まで行った。
掠れ声で呼び掛けると、彼はサフィールの無事を確認し笑いかけ、糸の切れた人形のようにぱたりと血溜まりに伏した。
「……ペタルさんは……」
「……すぐに他の騎士が来て手当てしたが、傷は肺にまで達していて——助からなかった」
フェリシアは息を詰めて口許に手を当てる。
「その後俺は連れ戻され、アイシャにもペタルの死が伝えられた。あいつが泣くのを見たのはそれが初めてで、そしてアイシャと話したのはそれが最後だった」
笑顔しか持たないと思われたアイシャが顔面蒼白で何度も嘘だと口にして、もう戻らないと理解した瞬間か細い声を発して泣き崩れた。
喧しい彼女のことだ。
きっとわんわん声を張り上げて泣くと思ったのに、押し殺そうとして掠れた声を漏らす泣き方に、自分の犯した罪の重さを突きつけられた。
それから泣き通したアイシャについに笑顔は戻らず、サフィールの通訳としての役目も終えた彼女は去って行った。
幸せに過ごした思い出がそこかしこに染み付いたこの屋敷にはいられなかったのだろう。
愚かな嫉妬と焦りが、信頼する人の命を奪い、守りたかったものを全て壊した。
「……どうしてあいつを引き留められただろう。ペタルを殺した俺の側に変わらずいてくれなどと」
話し終えたサフィールは低木から黒い実を一つ摘み取って、その実に詰まった思い出を覗くように見つめた。
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