(四) 踊る伯爵閣下(一)
三人が宿に戻ったときには、既に十一時近くになっており、当然のごとく、というか、国民協会の一行は演説会へ出発して不在だった。だが、従道が下駄を脱いで上がろうとすると、どたどたと廊下を走る音がして、小太りのずんぐりした男が一人、息せき切って出てきた。東京から同行してきた、二十代半ばの東京新聞の見習い記者だ。
「西郷先生っ」
「こや、西村さあ」
従道は相変わらずの緊張感のない笑みを見せた。西村記者見習いは何やらびっしりと字が書かれているらしい紙を、ほとんど振り回すようにして言った。
「困りますよ本当に。せめて協会の方々に話ぐらいはしてから外出頂かないと。何かあったらどうなさるんですか。懇親会の予定とか打ち合わせとか、お伝えしておかなければいけないことが山のようにあるんですから。大体―――」
たかが記者見習いにまで―――もっとも、中山も似たようなものだが―――、これだけガミガミ言われる伯爵閣下も珍しい。
「俥(人力車)を待たせていますから、お願いですから早くお支度をなさって下さい」
「あい。判いもした」
どちらが立場が上か判らないようなやりとりの末、西村は従道に紙を押し付け、ばたばたと玄関を出て行った。従道はそれを見送ってから紙を畳み、懐に無造作に突っ込んだ。読む気はどうやら皆無のようである。
「こいから懇親会ば行くで、佐野さあも来てくいやせ」
「あの、閣下」
遠慮がちに中山は呼びかけた。
「わたしに御用がおありだったのでしょうか」
尋ねると、従道は「あ」と言って、額をぽんと叩いた。明らかに、すっかり忘れていたらしい。
「明朝、また話もんそ。おはんのよか姉さあに、頼み事ばあっで」
「姉に、ですか」
中山はぽかんとする。伯爵はにこにこと「あい」と言った。
一行は山形を通り、かつて上杉家が治めた旧米沢藩の城下町に入った。徳川幕府の時代、減封につぐ減封で、一度は領地返上寸前にまで困窮した米沢藩だが、名君上杉鷹山が地場産業の振興を図ることで財政を立て直した。
その米沢で、地元の名産品である米沢織りの綿入れが全員に配られた。軽く暖かい上質のもので、そろそろ肌寒くなってきたこの北の地では何よりの贈り物だった。従道の計らいで、先行して米沢に入った中山が呉服屋の姉に依頼して手配してもらったものである。国民協会一行はこの予期せぬ会頭の気遣いに感激した。
自らも同じものを羽織った西郷伯爵は、隅の方にいた中山を傍近くへ呼び寄せた。
「こんお人が、姉さば仕立てたちよか着物ば着ておいやしたでのう。何とも羨ましゅうて」
部屋中の人々に、感謝の意なのかパチパチと拍手されて、中山は顔を真っ赤にしながら頭を下げた。
「………あれは一体、どういうお人なんでしょうか」
米沢でも変わらず開催された懇親会の席で、中山は先日と同じ疑問を、佐野相手に呆然と呟く。
その日の懇親会も、従道は相変わらず、綿入れはおろか着物も全て脱ぎ捨て、真っ裸で手振り足振り、歌まで謡いながら珍妙な踊りを披露していた。
酔っ払いかと首を捻るところだが、あの会頭は、二升や三升の酒では酔わない。大体、五十人はいる全員と盃を交わした挙句にこれだけ動き回れば、途中でばったり倒れるのが普通だろう。だが、五十歳になる従道は、一度たりともそんな醜態を晒したことはない。ふらついているところさえ見せはしない。
懇親会の会場内は一緒に歌う者あり、茶碗を叩くものあり、集まって政治談議をするものあり、ひたすら飲むものありとにぎやかである。
佐野は、茶碗に酒を注いでぐいと飲み干した。
「わしにも判らん。文士も政治家も民権派の連中も、多分誰にも判らんだろう」
佐野に促され、中山も酒盃を乾す。
「無論承知だろうが、先般、伊藤(博文)伯が元勲総出を条件に、松方伯の後を受けて二度目の組閣をした。総理大臣伊藤伯、内務大臣井上(馨)伯、司法大臣山縣(有朋)伯、逓信大臣黒田(清隆)伯、陸軍大臣大山(巌)伯、とまあ錚々(そうそう)たる顔ぶれだが、西郷伯がおらんではいささか心許ない」
中山は従道を見た。解いた帯を頭に結び、しつらえのよさそうな扇子をひらひらさせながら、蝶でも追うようにして我流の振り付けで踊り続けている。
「西郷伯を評して、新聞は「内閣の鍋釜」だと言うておる。「元勲の調和機関」ともな。大黒柱とは言い得ないが、鍋釜なしに所帯は成り立たん。伊藤伯などは、だから喉から手が出るほど西郷伯が欲しい。伊藤伯が政党結成を言い出したとき、元勲で賛成したのは西郷伯ただ一人だった。伊藤伯とは親友同士と、自他共に認めているはずの井上伯でさえ反対をした」
「しかし………西郷伯は国民協会会頭です。内閣に入るのは難しいでしょう」
「西郷伯の会頭は長くはない」
佐野はきっぱりと言った。中山は多少慌てた。ここは仮にも、国民協会の懇親会なのだ。
「佐野さん」
名を呼んだとき、目の前にひらりと扇子が差し出された。ハッとして振り向くと、扇子を掲げた従道が、ニコニコ笑って立っていた。
「一杯、もらえっか」
「あ………はい」
中山は酒盃を渡そうとしたが、佐野が「中山君」と言ったので手を止めた。見ると佐野は二合徳利から、中身が全て入りそうな大ぶりの茶碗―――というよりむしろどんぶり鉢―――にドボドボと注いでいた。
「さ………佐野さんっ」
中山の呼びかけを無視して、佐野は酒がなみなみと入った茶碗を、従道に差し出した。
「どうぞ、閣下」
従道は相変わらずの笑みで茶碗を受け取り、「かたじけなか」と言った。
「佐野さあ」
「はい」
「返杯は、あん菓子鉢辺りでいきもんそか」
呑気な声で言われて、佐野の笑顔が多少引きつったような気がした。