(二) なるほど大臣の交際術(三)
「西郷伯がおられるのは、あちらの棟です」
角を曲がりながら言った中山は、そこに当の人物の姿を認めて硬直した。
国民協会会頭で、維新の元勲の一人で、実は大政治家だという西郷従道伯爵は、大柄な身体に寝巻きを巻きつけ丹前を羽織り、どこから持ってきたのか、一抱えもある桶と小ぶりの柄杓を手に、何故かのんびりと、庭木に水をやっていた。
唖然とした中山へ、相変わらずの茫洋とした顔を向けた従道は、「おはようございもす」と言ってにっこり笑った。
「これは、お妨げをいたしまして」
上ずった声で言うと、従道はまだ柄杓に入っていたらしい水を、足元の薄紫の撫子の花にそっとかけた。
「何の妨げな」
「いやその………あ、佐野さん。西郷伯爵です」
思わず間抜けな紹介をしてしまった中山だったが、恐らく、佐野の耳には入らなかっただろう。傍らを見やると、佐野は髭を震わせ、涙をぼろぼろこぼしている。
「佐野さん」
佐野は掠れた声で「南洲先生」と言った。
その声が届いたとは思えないが、従道はわずかに真面目な表情になり、ゆっくりと中山たちの方に歩いてきた。大柄な身体に似合わず、ずいぶんと静かに歩く人だ、と中山は場違いな感想を覚えた。
従道は二人の前に立つと、元内務大臣とは思えない衒いのなさで、ぺこりと頭を下げた。
「西郷従道でごあす」
顔を上げ、太いのんびりした声で名乗った。そういえば、昨日名前を問われたが結局答えなかったな、と思い出した中山は、深々とお辞儀をし、
「申し遅れましたが、明和新聞記者、中山と申します」
と言った。従道は頬笑む。
「もうちっと遅う来らるっと思うておいもした」
「いえ、その、庭を散歩しておりまして。早朝よりお妨げして誠に申し訳ございません」
伯爵は、謝罪など気にした風もない。
「よか庭じゃ。山も見えっで」
山形盆地の西、穏やかな山容を見せる面白山を眺めやりながら言った。
「あいが「おもしろやま」ごあすか」
「あの、「つらしろやま」と言います、閣下。白っぽく見えるので」
「つらしろやま、ちうか。なるほど」
西郷伯爵は、感心した様子で頷いた。
名にし負う「なるほど大臣」の「なるほど」を間近で聞ける機会などそうはないだろう、と中山は内心思う。
「こちらはわたしの先輩で、佐野記者です。先ほど、鶴岡から参りました」
自己紹介をするどころではない様子で咽んでいる佐野を、中山は紹介した。
「そや、こげんとこまでご苦労様でごあした」
従道は再びぺこりと頭を下げる。
「佐野記者は、戊辰の戦のあと鹿児島へ行きまして、南洲様に教えを受けました。閣下が鶴岡に入られたときには取材に出ておりましたので、ご遺徳を慕ってここまで追って参りました次第です」
六十を過ぎた老人が、挨拶の言葉さえも口に出来ずに咽び泣いているのを、伯爵は果たしてどう見ているだろうと思いつつ、中山はそう事情を説明した。
「南洲様には、庄内の皆が心から感謝しております」
従道はぱちぱちと瞬きをしながら佐野を見ていたが、ややあってしみじみとした口調で呟いた。
「………あいがてこっで」
あいがて―――ありがたい、だろうか。
従道は中山の背を軽く叩いた。
「朝餉ば頼むで、ちっと上がいやんせ」
「佐野さんがこんなに泣き上戸だとは存じませんでした」
部屋に上がってなおも泣き続けている先輩記者に、苦笑いしながら中山は声をかけた。ハンカチを渡すと、佐野は鼻をすすり上げ、割れた声で「すまん」と言った。
「感激で言葉が出んなど、記者失格であるな」
藍のハンカチを広げて顔をごしごしこすってから、佐野はそれをぐちゃぐちゃに丸めて和服の懐に突っ込んだ。
「後ほど洗って返す」
「そんな、結構です」
「では、これと交換でどうだ」
佐野は鞄から舶来品らしい上質な麻のハンカチを出してきて、ポンと中山の膝に投げた。上等すぎます、構わん、とっておけ、と押し問答しているところへ、廊下を渡ってくる気配もなかったのに、何の前触れもなく襖が開いた。
「お待たせしもした」
従道はそう言ってゆっくりと中へ入ってくると、慌てて姿勢を正す記者二人の前に胡坐をかいた。
「先ほどは、お見苦しいところをお見せいたしました」
佐野がそう言って畳に手をつくと、従道は「うんにゃあ」とかぶりを振る。
「庄内んお人はほんごつ情ば深か。未だに兄ば慕うてこげんとこまではるばる駆けつけてもろうて、兄はまっこち幸せもんでごあす」
「南洲様がおいで下さらなければ、庄内藩も殿もいかなることになっておったか判りません。南洲様は我々にとって大恩人です」
「………」
西郷伯はそれには言葉を返さず、ただ少し頭を下げた。
三人の女中が来て、膳を据えて下がった。従道は「上がったもんせ」と一言促して、自分もさっさと箸をつけた。太い指や大柄な身体にどこか不似合いに感じられるほど、酢で締めた鯖を器用にほぐし、ナスの和え物を口に運ぶ。食べる時に音も立てない。
「閣下は、舞や茶道を嗜まれますか」
同じことを感じたのか、佐野が尋ねた。
「茶は貧乏じゃった稚児ん時に奉公でやいもしたが、他は踊りも謡いも我流ごあす」
確かに、この伯爵の宴会芸である歌と踊り―――都都逸にカッポレ、おまけに裸踊り―――は誰がどう見ても自己流だろう。味があるのも事実だが、到底どこかの流儀に則ったものではない。もっとも、裸踊りに流儀も何もないだろうが。
そこまで考えてつい口元が綻んだのを見とめたのか、従道はへらっと笑みを浮かべた。
「そちらさんがよっくご存知じゃ」
表情を読まれて、しまったと中山が赤面するのを、伯爵は楽しげに眺め、味噌汁を口に運ぶ。中山は汗をかきつつも、何となく心が寛いでくるのを感じる。自然に人の緊張を解くゆったりした風格は、この男の天性か、それとも長年の修養によるものか。
経綸を語らず、演説も成さず、それどころか、まともに演説会にさえ出ない。ただ懇親会には必ず顔を出し、政治の話をはぐらかし、煙に巻きながら、ひたすら飲んで謡って踊る。
清濁併せ呑む貧乏徳利であると同時に、自らは器に合わせて自在に形を変える澄んだ水のようでもある。何とも不思議な男であった。