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(一) 汗かき達磨と御用協会(二)

 「国民協会」は、つい三ヶ月前に結成されたばかりの、政府寄りの政治結社である。会頭の西郷従道、副会頭の品川弥二郎共、元政府閣僚であり、各省官僚出身者の参加も多い。故に「御用協会」と皮肉られることもあるが、あくまでも建前上は、政府からは独立した団体である。

 その成立の経緯について語るには、少し時間を遡らねばならない。




 二年前の明治二十三年十一月、長州(山口)の伊藤博文、薩摩(鹿児島)の黒田清隆に続く三代目内閣総理大臣、長州の山縣有朋の下、第一回帝国議会が開催され、大日本帝国憲法が施行された。

 第一回帝国議会の三百の議席は、選挙の結果、「民党」と総称される自由民権派の党に属する議員がその過半数を占めた。ここに、維新の功をもって日本国の政治を主導してきて、そのまま内閣の主要な構成員となった「元勲」たちと、国民の権利や利益を代表するものとしての民党所属の議員たちが、国会の場で火花を散らす時代が始まった。

 山縣首相率いる政府は、第一回帝国議会に八千三百万円余の予算案を提出したが、民力休養を主張する民党の削減要求額は一時九百万円にまで達し、議会は早々に大荒れとなった。国会会期ギリギリまでもつれた攻防は、最終的には政府案から六百万円余を削減する形で妥協が成立。第一回議会から解散という事態を何とか免れはした。ただ、国会での議論によって妥協点を見出したというよりも、最初の「お手合わせ」ということで、両者痛み分けの形でひとまず矛を収めたというほうが正確だった。

 日本国が、議会を運営できる近代国家であるということを内外に示さねばならない―――その認識は、政府の側にも民党の側にも共有されており、それ故に双方が自制したのである。




 辛くも乗り切ったとはいえ、この時の国会での衝突の激しさは、政府要職を独占する元勲たちにも、彼ら元勲が構成する内閣膝下の各省官僚たちにも、国会操縦のためには自分たちの「政治団体」を作ることが必要だと気づかせるのに十分なものだった。

 早いものとしては、伊藤博文の盟友、井上馨による地方の「良民」を集めた「自治党」結成計画があり、その後伊藤自身も新党立ち上げを目論見はしたが、それぞれの事情で結局お流れとなっている。

 そんな混沌とした状況の中で生まれたのが、元勲の一人西郷従道を会頭とし、元内務大臣品川弥二郎を副会頭とする政治結社、「国民協会」だったのである。

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