(五) 露と消えなん
軍人としては元帥海軍大将、華族としては侯爵に昇った西郷従道は、明治三十五年七月十八日、自邸において逝去した。胃癌であった。
従道はかつて親友の大山巌と共同で、栃木県の那須野が原を開墾し、その開墾場を「加治屋開墾場」とつけた。「加治屋」は従道が生まれ育った鹿児島の地名である。開墾を始めた当時、兄隆盛に敵対した従道に対して、郷里鹿児島の人々の眼はまだ相当に冷たかったから、そこにかれの望郷の思いを見ることは難しくはない。死の一年前、従道はかの地で死にたいと東京を出てこの開墾場へ赴いたが、病状の悪化を懸念した家族によって連れ戻された。
それもまた、西郷従道という男の一つの側面である。
中山の手元には、従道ゆかりの品が二つ遺されている。
一つは米沢で配られた綿入れで、さすが姉の見立てというか、秋口に羽織るには最適の品だ。毎年こればかり着るうちにすっかりくたびれてしまった。
もう一つは、大砲の形をした一本の鉛筆である。
中山は日清戦争では従軍記者として清国に赴いた。維新後初めての対外戦争となるこの戦いは、民間人の「記者」が、新聞や雑誌を通して広く国民に情報を発信した初めての戦争でもあった。従軍する方も取材を受ける方も初めての体験で、様々な不快な思いもしたし、清国の厳しい寒さにも苦しめられた。
従道は当時海軍大臣だったが、清国へ司令官として赴いた大山巌の代理として、陸軍大臣も兼務した。一貫して内地にあって陸海軍の軍政を一手に握っていたわけであり、だからこそ、記者たちの果たした役割をよく理解していた。
戦争が終結してから、美術学校に協力を求めて大砲の形をした鉛筆を作らせ、所属の会社を通して記者たち一人ひとりへ贈った。表面はいぶし銀で仕上げてあり、伝書鳩を模した金の鳩の浮き彫りが施されている。さすがにこれは削って使ってしまうことはとてもできず、未使用のまま自宅の執筆机の上に飾ってある。
愛宕神社の前で、長い祈りを捧げていた従道の大きな背を、中山は思い出す。
死を前に、従道は二首の歌を残した。
若きより 死地の山旅数知らず 寿ぎ祝え けふの別れを
世の中に 思うことなし 夕立の 光り輝く 露と消えなん
世の中に思うことなし―――そう言い遺してこの世を去った男が祈ったものは、果たして何だったのか。形なき水のごとく、中身なき器のごとく生きた従道は、数多くの逸話を残しながら、その実ひどく寡言である。
世の中に 思うことなし 夕立の 光り輝く 露と消えなん
享年、六十歳。暑気を払い、地を潤す驟雨と共に、その捉えがたき魂は去り、西郷従道は東京の地で、静かに永遠の眠りについた。
【了】