(四) 踊る伯爵閣下(二)
佐野の予見通り、西郷従道の国民協会会頭在任は、わずか一年で終った。翌年三月、第四回帝国議会閉会後の内閣改造で、総理大臣伊藤博文は従道を説き伏せ、再び海軍大臣に復帰させたのである。従道は一度は断ったのだが、薩摩の先輩である黒田清隆や、親友で従兄弟で幼馴染の大山巌などに説得され、静岡県沼津の別荘にまで押しかけられて懇願され、結局、就任を承諾した。
一旦は野に下り、政治団体の会頭となった人間が再び内閣に―――それもいわゆる「元勲内閣」に列したとあって、世間では従道を批判する者もあった。俳人正岡子規は、随筆にこう書いた。
「君はまた大臣になり給ふぐらいなら、また何故に民間の協会になど入り給ひしぞ。それはより道でござる。「とんと落ち つつと上りて 雲雀かな」」
従道を「よりみち」と読んだ皮肉であるが、別の本に、子規は兄を追慕する従道の句を載せている。「亡き兄の まぼろし悲し 秋の暮れ」と。
国民協会会員の方も無論いい気はしなかっただろうが、従道は協会の送別会で壇上に立ち、訥々としたいつもの口調で、
「この度の、わたくしの入閣には、皆様大変驚かれたと思いますが、わたくしも大変驚きました。これでも静岡までは逃げたのですが、残念ながら追っ手に捕まってしまいまして。どうも、まことに面目ない次第です」
と言って深々と一礼し、笑いに包んで円満に脱会してしまった。
従道はこの八年後の明治三十五年、六十歳で死去するが、「政府の鍋釜」の形容にふさわしく、第二次伊藤内閣で復帰後は、第二次松方内閣、第三次伊藤内閣、大隈内閣(隈板内閣)で一貫して海軍大臣を務め、更に続く第二次山縣内閣の成立に当たっては、再び内務大臣に就任し重きを成した。そして山縣が辞表を奉呈し首相を辞したとき、従道もまた辞表を提出し、それ以降、要職に就くことはなかった。明治三十三年十月のことである。
この「なるほど大臣」から海軍を引き継いだのは、従道が信頼し重用したために官房主事時代から「権兵衛大臣」とまで言われていた、鹿児島人の山本権兵衛である。権兵衛は誰にでも正論を吐いて噛み付く男で、しかも口が悪い。上司が従道でなければ中佐ぐらいで早々にクビだっただろうと囁かれている。従道は海軍大臣復帰後、ようやく陸軍中将から日本で最初の海軍大将に進級するが―――陸軍中将を二十年もやっている―――、権兵衛はこの茫洋とした同郷の先輩に、
「あんたは、海軍ではおいよっか新参者じゃっでな」
などとズケズケ言いつつ、人員整理を断行し組織を整え、存分に腕を奮った。
この権兵衛が海軍大臣になってからのことである。権兵衛は対露政策の一環として計画していた、軍艦購入の手付金の捻出に窮し、内相の従道に相談しに行った。手付金の支払期日が迫っており、それまでに発注をかけなければ完成が間に合わなくなる。従道は相変わらずぼうとした様子のまま権兵衛の話に耳を傾けていたが、聞き終わると少し間をおいてこう答えた。
「そいは予算ば流用してでん払うほかなか。バレたらまた方々せからしかこつもあっがじゃろうが、そん時はまあ、仲良う並んで腹でん切りもんそ。おいらが腹で軍艦が出来っがなら、そや本望じゃっで」
そう言って、にこりと笑った。
こうして発注されたのが、明治三十七年に勃発する日露戦争で連合艦隊旗艦(きかん:司令官が乗る船)となった、軍艦「三笠」である。だが開戦の二年前に死去した従道が、その活躍を見ることはなかった。