愁風に散る
自転車にチェーンを掛けながら、少女はふとフレームに張られている長方形のラベルに目をやった。それは彼女の地元の市立高校が、学生に自転車登校を許可する登録シールだ。毎年春に配られるので、所属と名前を記入して車体のどこかに張っておかなければならない。
若戸東高等学校 3年4組 桐野真澄
薄くなった油性マジックの筆記を見つめ、あまりのみすぼらしさに桐野は苦笑を零した。文字だけではない。今や四隅が剥がれている上にずいぶんと色あせていて、元の鮮やかな黄色は見る影もなくなっている。
しかし桐野が若戸東の生徒だったのは、もう一年半も前の話だ。卒業生の桐野がいまさら、こんなすっかり薄汚れてしまった無効の許可証をいつまでも張り付けておく必要はないだろう。
「いらないな、もう」
無理に引き剥がしたせいで、テープの跡は未練たらしく銀色に残っている。けれどなくしてしまった称号をいつまでも持っていることに、ここほどふさわしくない場所はあるまい。
ゴミを握りこんだ手ごと、パーカーのポケットに行儀悪く突っ込みながら、桐野は頭上を仰ぎ見た。被っているパーカーのフードの下から、半分に切れた高い清秋の空が覗く。
そしてその狭い視界ですら確認できる、普段は見慣れないビビットカラーの群れ。青空と相まって眼に痛い。特設された駐輪場のすぐ先にある階段アートを目で辿れば、来客を出迎えるように立っているアーチに『若戸祭~開け! 未来への扉~』と手作業のレタリングが記されている。そこをくぐりぬけていく人は、在校生の数よりはるかに多く、多彩だ。今日は、桐野の母校の文化祭だった。
もうとっくに午後の授業は始まっている時間だというのに周囲の騒がしさが一向に改善されないのはつまりそういうわけで、今日組まれている時間割が普段とは異なるからだ。階段脇の時計は2時40分を示している、通常ならば生徒の大半は教室にいるべき時間帯だった。
人、人、人。親子連れ、他校の生徒たち、お年寄り。中学生。……またはおそらく、桐野のような卒業生。楽しげに連れだっている人が多い中で、つい自転車を乗りつけてしまっただけの桐野は肩身が狭い。
しかしいつまでもじっと眺めているだけでは不審者極まりなく、ここで帰ってしまってもそのレッテルは免れないだろう。後日、不審者情報としで自身の特徴を聞くことになるのは避けたかった。
いや、現に既に疑われているらしい。文化祭の案内所を兼ねたテントから出てきた長身の男子生徒が一人、明らかに桐野を目指して近寄ってくる。右腕には生徒会所属を示す腕章が、以前は桐野もつけていたものだ。記憶にない顔だったことだけが救いだ。後輩に不審者扱いをされたとなれば、恥ずかしいどころの騒ぎではない。
「こんにちはー」
離れた距離から話しかけられ、桐野はフードを少し持ちあげた。「こんにちは」
フードの正体が女であることが確認できたからだろう、彼はすこし警戒心を解いたようだった。
「卒業生の方ですか?」「ええ、まあ」
うなずいて、桐野はさらに付け加えた。「59期、……中西先生クラスです」
「ああ、先生なら講堂でビブリオバトルやってるので、そっちじゃないでしょうか」
笑顔で差し出されるパンフレットを受け取り、ぱらりと中をめくる。講堂では確かにいまビブリオバトルが開催中だった。
「楽しんできてください」
「--ありがとうございます」
おそらくそちらに行くことはあるまいと思いながら――、桐野は後輩に見送られて、人ごみに交じりながら校舎に入る。
とくに目的があるわけでもなく、ふらふらと桐野は展示を覗いていた。ついつい自分のクラスだった場所を探してしまうのは、仕方のないことだろうか。そこはもはや桐野の場所ではないのに。
そうして、こういった賑やかな場所にひとりで来るのはやっぱりいたたまれないな、ときゃらきゃらと楽しげな笑い声を立てて駆けていく後輩たちを横目に見ながら桐野はため息をつく。
文化祭があるのは知っていた。さりとて、行く気はなかったと言った方が正しい。予定を訊いてきた友人たちにも、断りを入れていた。それなのによりにもよって一人でやってきてしまったのは、本屋に行くついで、という言い訳があったせいだ。寂しくなるのは分かっていたのに。
(一年程度で、こんなにも心細い場所になるんだな)
この高校に、もう桐野の居場所はない。再確認だ。当たり前に過ごしてきた、いるのが当たり前だった場所だというのに。そわそわと心臓が焦る。
自分が使っていた靴箱、机、椅子、全部他人に渡ってしまったし、同時に居場所も。もちろん進学先の大学に、桐野は新しく自分の定位置を拵えた。けれど桐野はまだ、高校に未練を残している。多分。
桐野にとって、過去の文化祭はそれなりに楽しいものだった。あれは駄目、これは駄目と規制もたくさんあったし、それに比例するように不満もたくさんあったけれど。それからもっとやりたいことだって。
でもそれなりに充実したものにした自負もあったのだ。所属していた調理部は校内で唯一飲食物を出せる部活だったし、当日は朝五時に学校に来て準備までした。毎年すぐに売り切れるほど好評だった。三年時には生徒会で、ミュージカルまでやった。いままであれほど盛況だった文化祭はないと聞いている。だのに回っている間、この子たちの方がすごいものを作ってるなあ、なんて思ってしまう自分がいた。肩身が狭い、
「あーっ、先輩! お久しぶりです! 変わってないですね!」
しまった、気づかれないように、桐野は顔を顰めた。
ここで知り合いに会いたくはなかった。
展示を見終わったところなのか、ちょうど教室から一人の少女が出てくるところだった。丸めたパンフレットを大きく振り、足を止めてしまった桐野のもとへ駆け寄ってくる。よくわかったものだ。二学年も下の後輩だった。後ろからついてきているのは、一緒に回っている友人だろうか。
「いつきてたんですかー? お菓子もう売り切れちゃいましたよう」
「ああ、うん」
桐野はなんとか曖昧に微笑んだ。こうして当たり障りのない態度しか取れないから、話しかけてほしくなかったのに。
彼女としても不本意ではないのか。先輩なんて鬱陶しいものだろう。それともこの子にとっては、違うのか。人懐こい子ではあったようだったが。こうして取り繕った態度しかとれない自分であることが申し訳なかった。
「いつ帰ってこられたんです? 大学、県外でしたよね? 結構遠かったような……」
「そうだね」
進学先は長距離バスで4時間。新幹線が通っていないため、それ以外なら飛行機を使う羽目なる。頻繁に帰ってくるならば、往復費用はばかにならない金額だった。
「歯医者の定期検診があったから。小さなころから診て貰ってるかかりつけの医者だし、他のところはどうにも信用できなくて」
ばかばかしい言いわけだが、今はこれ以上を思いつけそうもない。実際、歯医者の世話になるときには帰ってくるように、と親には言い含められているからあながち間違いでもない。定期健診を律義に受けるような繊細さや几帳面さは持っていないから、気が向いたときに行く程度だが。
だからこれは嘘だった。無性に郷愁に駆り立てられて、桐野は帰郷した。ただそれを冗談のように告げる技量を持ち合わせていないので、桐野は真顔で嘘をつく。
「もう少し早く来るつもりだったんだけどね。調理部のマドレーヌは絶品だ。間に合わなくて残念だったよ」
よく飄々とここまで口から出まかせが喋れるものだ。ちらと脳内で己を皮肉る声が聞こえたが、桐野は無視した。
買いに行く気などなかった。この子たちと会う気すら。それなりに愛想よく動く口とは裏腹に、爪先は逃げ出したそうに地面を引っ掻いた。
「それじゃあ、文化祭、続きを楽しんでお出で。これ以上友達を待たせちゃかわいそうだ」
後輩の後ろで、所在無げに畏まっている友人に一瞬だけ意識を向ける。ほっとしたように彼女の緊張が緩むのを、視界の端に確認した。こういう素直さは、嫌いじゃない。
「自分は行くから」
「あ、はい――、――先輩、」
踵を返した桐野の袖を、少女は掴んだ。桐野は軽く目を見張り、肩越しに顧みる。
「どうした――?」
「あの、これ。よかったら、どうぞ」
差し出されたのはシンプルながらもかわいらしくラッピングされたマドレーヌだった。それを見て、一秒にも満たない間ではあったが、桐野の脳は真っ白になった。ぺらぺらと回っていたはずの舌の根は凍り、言葉は沈黙する。
止めてくれ、桐野は泣きそうになった。
「それは、君のものだ」
ようやく絞り出した台詞は幸運なことに震えてはおらず、いつもの自分らしく冷静なものだった。しかし桐野はみっともなく狼狽する自分がいるのを、確かに自分の内側で感じていたのだ。
(なん、の。何のつもりだ?)
ありがとう、なんて言えない。
咄嗟に他人の言動の裏を探ってしまうのが、桐野の悪い癖だ。彼女の好意はどこまで本物だ? せっかく帰ってきた地元でも同じことをしてしまっているのかと考えると疲労感が首筋に凝った。
「いいんですって、先輩、マドレーヌおいしいって言ってくれたし! あたしはまだいつでも食べれるから!」
掌の上に乗せられるそれを拒めずに、結局桐野は受け取ってしまった。校則規定より少しばかり短めの、スカートを翻して少女たちは行ってしまう。桐野は彼女たちが廊下の角を曲がるまで見届け、後輩が残した掌の重みに視線を落とした。顔の前でそれを掲げ、桐野は片頬をゆがめた。
「いつでも、ね……」
桐野の小さなつぶやきを、聞き咎める人間はいない。廊下の真ん中に立ち止まっている人間に、せいぜい邪魔だと一瞥を呉れる程度だ。
桐野は俯いて笑みを深くし、ポケットにもらったばかりのマドレーヌを押し込んだ。ラベルのごみを入れたのとは反対側。乱暴に突っ込んだつもりで、それでもなんとはなしに手つきが繊細なものになっていたのは、指先から溢れる桐野の情だ。
線を引かれる。在校生と、卒業生の境。
この違いは本当に大きいな、一緒に笑ってお菓子を作っていたのにもう部外者で、私の台詞は他人の賛辞か。桐野は自嘲せずにはいられない。フードを一層引っ張って、桐野は顔を隠した。
(帰、ろう。――帰ろう)
今度こそ、帰途に向けて桐野は足を踏み出した。かさりかさりとポケットに入れたままの袋と右の指が擦れる。左手では失った過去の身分証のなれの果てが。
帰ろう――と、そのはずだったのに、人込みを厭った桐野が向かっていたのはもっとも足が無意識に働く場所だった。
三年間上り慣れた階段を最上階まで上がりきり、周囲の喧騒から一枚膜を隔てたところに来てようやっと、桐野は顔を上向ける。
図書室、桐野は三年間、放課後の大半をここで過ごした。
友達とわいわいお喋りするのも楽しかったが、一人で読書をするのも桐野は好きだった。
今日は文化祭で、図書館は開いていない。司書もいないはずだ。だがそこで鍵がかかっていると思うのは、素人だった。
ドアノブをひねってみても、扉は開かない。しかしそれは鍵のせいではなく、この扉の建てつけが悪いせいだった。力を込めて引っ張れば、中へ迎え入れてくれることを、桐野を含め、ここの常連ならば知っている。床に擦れた扉がとんでもない音を響かせたが、それにおびえることもなくなった。
図書室に滑り込み、扉を噛み合わせようと強く引っ張る。
ついてもいない埃を叩く真似をしながら、桐野は室内に向き直った。
「――ああ、誰かと思ったら。久しぶりだな」
「――――ッッ!」
既に人がいるとは予想もしていなかった桐野は、声もなく悲鳴を上げた。動揺を瞳に浮かべて見ると、窓際の読書スペースに、書籍を手にした一人の男性教諭が座っている。
会いたくはなかった。この学校の教師とも。今日は無人でしかるべきこの部屋で、どうして馴染みの教員と再会するなんて思うだろう。
それに、彼は講堂にいるのではなかったか。
桐野を見て、ゆる、と彼の眼鏡の奥の瞳が細められる。
決壊しそうなものを、桐野は無理やりに押し込めた。
「な、中西、せんせ」
「帰ってきていたんだな」
「――はい、お久し、ぶりです」
そろそろと桐野は彼に近づいた。まさか、身を翻してここを後にするわけにもいくまい。フードを取り、無意識に髪を梳く。零れた長い黒髪は、くくらずにそのまま放置してある。肩より長い髪は、校則では結ばなければならなかった。その規則から外れた今も、教師を目の前にすると無性に悪いことをしているような気になるのはなぜだろう。
中年と初老の丁度中間に位置しているような中西は、厳しい国語教師だった。いつも眉間にはしわが寄せられ、唇も引き結ばれたまま、めったに笑わない。銀縁の四角いフレームメガネが、一層鋭利な印象を強めていた。だが教え方は的確でわかりやすかったし、論理的で整然とした考え方を桐野はいつも尊敬していた。おまけに、彼の推薦する図書は桐野の好みともよく一致していたのだ。
桐野は本棚ひとつ程度の距離を開けて立ちどまり、中西は桐野を前にし、本を閉じる。
およそ二メール。隔てるものがあるわけでもないのに設けられたその距離は、会話をするにはやや遠い。それは桐野の遠慮が生み出すものだ。
「いいんですか、先生がこんなところにいて」
口火を切ったのは桐野だった。「今日は文化祭なのに。見て回らなくて」
「さすがに今日の奴らのテンションにはついていけんよ」
本当に疲れたように言うものだから、桐野は片頬を緩めた。
「講堂のビブリオバトルは?」
「私の当番は終わってね。今日はもう、やることがない」
けれど気になることはまだある。
「クラス、とか。持たれてないんですか」
おもねるような、口調になったのを桐野は気にした。
「お前たちの学年が終わってから、教務主任だよ。今のところクラスは持っていないな」
「そう、ですか」
ほっと、した。
子どもっぽい、くだらない感傷だということは桐野も自覚している。とはいえ自分の気持ちをなかったことにできるほど、桐野は大人ではなかった。
居場所はどんどんなくなっていくだろう。年を経るごとに。母校だというのに、足を踏み入れることも、いずれ叶わなくなるに違いない。現に、中学まではそうだった。見知った先生も既におらず、訊ねたところで怪訝な顔をされるのがオチであるのでもう行きたいとも思えない。四月一日、新聞を眺めながら思い出がほろほろと欠けていくような胸の内の錯覚を、一体どう表現すればいいのだろう。桐野は唇を噛むしかない。
桐野から見て、教師たちはいつまでも教師だった。桐野たちが『元』生徒、という括りに分類されていくのとは裏腹に。桐野たちが卒業し、新たに入ってくる新入生たちを受け持って、鮮明だったはずの思いは時とともに薄れる。そうでなくても大勢の生徒の中の一、長い教員生活の中で、強く印象づいた生徒になることは難しい。どんなに生徒側からの思い入れが強くても、片思いだ、きっと。
だからせめて、少しでも長く、桐野は自分たちを『今』にしていてほしかった。次が現れるまで、桐野たちの学年を、クラスを、先生たちに気にかけてくれるのではないかと――、そんな幻想を抱いている。つまり桐野は、嫉妬、していた。次に受け持ってもらえる生徒たちに。そして中西が、どこのクラスも担任をしていないことに安堵するのだ。まるで両親の愛情を取られることを恐れる、年上の兄弟たちのように。
覚えていてくれていますか、そろりそろりと手を伸ばす。傷つくことに怯えながら。恩師を訪う行為は、桐野にとっては自傷行為に等しい。だから桐野は訪ねなかった。けれど忘れられることは耐えられなかった。桐野にとっては過去ではないのに。秋とともに鮮烈に色づいた思いは、桐野の手から離れていく。
「夏休みなんかは、帰ってきていたのか?」
「……え、――はい」
「こちらに寄ればよかったのに。顔を出さないなと思っていたら、今日会うとはね。あんまり大学生活が楽しいから、忘れられたのかと思っていたよ」
「……いいえ。――――いいえ、」
桐野はゆるく頭を振った。
こみ上げるものを、飲み下すのに必死だった。
「行きました、ほんとうは、一度。でも途中で――、――止めました」
卒業した年の、ゴールデンウィーク。
卒業後の学校がどういうものかは、小中学の経験で分かっていたはずだった。それでも桐野の認識は、まだ甘かった。
事務の人間の対応の仕方、『どの先生に会いに来たんですか』、どの――、どの? 卒業生ですと告げてみても軟化しない態度に、それが職務なのだと頭では理解できてもついていけなかった。ただ一度、枠の外に出ただけで他人になる。これが卒業というものの正体だったんだなあと、桐野は思い知ったのだ。
告げる名前をなくしたら、ここはもう桐野の母校ではなくなるのか。
きっと誰もがこんな哀切を抱えて生きてはいくのだろうけれど。何もなかったふりをするにはまだその感情は大きかった。
なぜ、と中西は訊かない。その聡さと言うべきか、気遣いと言うべきか、そんなところが、この教師の尊敬すべき点のひとつだった。
「御無沙汰を、しました」
足元に目線を落として、桐野は頭を下げた。靴下を穿いただけの足先が視界に入る。中西は苦笑した。
「いいや。――来客スリッパは、借りなかったのか?」
前髪で目元を隠してしまいながら、桐野は首を傾げてわらった。桐野の無言の意を、中西は汲み取ってくれたようだった。
「調理部にはもう寄ったのか?」
「いえ。……でも後輩には会いました」
「お前が卒業してから、お菓子をもらうこともなくなったよ」
美味しかったのに、いささか残念そうなつぶやき。
覚えていてくれた、その事実が、桐野の心臓を震わせる。
卒業して、もう一年以上経つというのに、
そういえば、いかめしい外見に反して中西は甘味を好んでいた。調理部では余ったお菓子を教員に差し入れするのが恒例化していて、桐野は三年間、担任だった中西に渡し続けたのだった。
「今日、買われなかったんですか」
「ひとが多かっただろう?」
ポケットの中身が唐突に重くなった気がした。ここには渡されたばかりのマドレーヌが入っている。どうしよう、桐野は逡巡した。あげてしまっても、いい気がした。けれどためらう気持ちは強く胸を押す。ここでも桐野はいまだ子どもじみた独占欲を棄てきれていない。
本当は桐野だって誰かに対して、欲を持つことを赦されるほど親しくなれたなんて思っていない。たとえ桐野の方が親しみを覚えていたって、相手からも同じように情が返されるなんて、そんなまやかし。中西ともそれなりに交流はあったものの、交わす言葉はいつだって短かった。
「……先生、これ、いかがですか」
そんなすべてを思い切り、取り出したマドレーヌの包装を整えて中西に差し出した。何か言われる前に、言葉を紡ぐ。「自分は別にあるので」
「――悪いね、いただこう」
受け取った中西は中身に目を留め、マドレーヌだね、と少し相好を崩す。
「丁度いい。職員室に下りて、お茶でもどうだ?」
「ああ、いえ。もう文化祭も終わるだろうから。――部外者は外へ出ないと」
失礼します、出口へ向かいかけたところで、声が掛けられる。
「桐野、」
、名前。
桐野は瞠目する。覚えて、くれていた。
「これを、」
てのひらに乗せられたのは、中西の読んでいた書籍だった。
「マドレーヌのお礼に、貸してあげよう。――私のものだから返すのはいつでも構わない。暇な時にお出で。こうすればいつかは顔を見せにくるだろう」
「っ、先生、まだ、移動とか」桐野にはそれが一番怖かった。
「予定はないから、安心しなさい。まだしばらくは、ここにいるよ」
――桐野の感傷など知らないくせに、中西はそれを拭い去る。桐野は息を呑み込み、精一杯の勇気を振り絞って拳を握った。窓の外では盛大に紅葉が舞っていた。
「先生、住所、教えてくれませんか」
自惚れているわけではない。でも自分が中西にとって、教え子のどんな位置に立っているかなんてもう忘れる。面倒だと思われるかも、なんてそんなこと。
「年賀状とか、出したいです。万一、異動にならないとも限らないし。不義理はしたくないです。だから、」「――いいよ」
常にない必死さを見せる桐野に、中西は口元を緩めた。
取り出したメモ紙と万年筆で、中西は連絡先を綴る。硬質なその字が紙の上を滑るのを見つめながら、桐野は愁傷が癒えていくかすかな気配を感じていた。