一台の机を隔てて、真っ白な世界から
変えられなくて、変わらない物がある。例えば思い出なんかがそうだ。過去に行った出来事は、未来にしか進むことが出来ないこの世界ではやり直しが効かず、全て今の自分をかたどっていくモトへと姿を成していく。その行く先々で見て、触れて、感じた世界は、言うまでもなく全て自分のものであり、故意に捻じ曲げたりしない限り変化することはない。いつか薄れはするだろうが。
僕はそんな存在でありたかった。何ものにも汚されることなく、影響されることなく、変えられなくて変わらない、そんな少年でいたかった。
「ご察しの通り、ノイローゼでしょう」
淡々とした口調で目の前の臨床心理士がそう僕に告げる。30を回ろうとしている僕よりも随分と若くみえる風貌は、およそ心理士とは言えないぐらいに冷たい顔をしていて、僕の相談を親身に聞いてくれる風にはとてもじゃないが見えなかった。
まあ、何を話すべきか全くわからないからいいのだけれども。
「雁屋さんは何かそういった出来事はありませんか?」
「出来事……?」
僕はぼんやりとした頭で心理士が言った言葉をそのまま返す。
「そう、出来事です」
心理士はあくまで事務的に、機械的に答え、深い隈を何度か触り、そして話を続ける。
「何か、そう、今雁屋さんの悩んでいるモトとなっている出来事などはありませんか?」
僕は今、初めてカウンセラーというものに掛かっていた。
世の人の何パーセントが頭を悩ませて臨床心理士のところに足を運んでいるのか知らないが、人生の三分の一ほどを生きているというのに、一度も行ったことがないというのはなかなかに珍しい部類ではないだろうか。
悩みがないような楽な人生だったのだろう。そういわれても否定することなんてできやしない。きっとカウンセラーもそう思っているのだろう。例えば家が借金まみれで明日をも知れぬ身だったとか、いじめられていて毎日学校に行けば傷を付けられて帰っていたとか、そんなこととは一切無縁な人生だった。家自体はそこそこ裕福だったし、その金を親がたくさん貢いでいたせいか、学校の先生は贔屓目に僕を見ていた。懇談会に一度も出席しない僕の親を見て同情したというのも少しはあるのかもしれない。
たくさんの塾にも通った。ただ何も実らなかった。唯一才能があったギターも辞めてしまった。
それでいてつまらないことで悩んだ結果、中学校は途中から不登校。運良く滑り込めた高校も、一年とせずに中退。最終学歴中学生の引きこもり。それが僕だ。
そうであるから、僕は働きもせずに親のすねをかじりながら生きることが出来ているのだ。
十数年前は想像もできなかったほどに老けてしまった父母の背中を毎日のように見送りながら、無力な自分に絶望し、暗い自室に潜っていく。生きる気力が頭の中から欠落していて、使わなくなって何も考えられなくなった頭で何で生きているのだろうと一人永遠と考え続ける日々。15年前からずっと続いているそんな生活に見かねた父母が、優しく遠まわしにカウンセラーに掛からないかと言ってくれたのだ。
「例えば中学生の時いじめにあっていたとか、家族から何かされたとか……ささいなことでもいいのです。それが今あなたを悩ましているのなら、十分に大きな問題なんですから」
優しい言葉とは裏腹に、心理士の表情はひどく退屈そうだった。僕は数多居る客の一人であって、ここまでは恒例事業なのだろう。そうやって客から話をさせるだけさせて、返答は五行で終わるような当たり障りのないことを言うに違いない。結局の所、カウンセリングも職業の一つなのだ。
僕は心理士の顔をまじまじと見つめた。寝不足なのか目が充血している。僕が顔を合わせたからか、薄く笑いかけてくるも、それが面倒くさい話を持ち掛けてくるなよという言葉無き威圧にも見えなくはない。
ああ、でも、
「……少し長くなりますけど、大丈夫ですか」
心理士が少し驚いた表情を浮かべた。まさか僕が話し始めるとは思っていなかったのだろうか。
「ええ、大丈夫ですよ」
心理士は疲れた口角を精一杯上に引き上げ、先ほどの微笑よりも何十倍も年相応の笑みを浮かべる。
冷たさ一色であった目の前の心理士のイメージが若干変わった気がした。言葉にするのは難しいが、少しばかり別の側面が見えた気がした。
「じゃあ、お言葉に甘えて話させてもらいますね」
今まで誰にも話せなかった僕の記憶を誰かに話せるのならば、たとえ無駄でも話してみることにしてみようか。
「それは……そうですね、中学三年生の冬のことでした」
とある少年と、とある少女の僅か一カ月にも満たない、小さな小さな逃避行談を。
後々、必ず指摘があると思いますので先に記述しておきます。これはカンザキイオリさんの楽曲『あの夏が飽和する』のオマージュです。