軽井沢康夫の『孤道』完結編・落選作品~天皇からの贈り物を運んだ人生~ 中巻
軽井沢康夫の『孤道』完結編(中巻)
〜天皇からの贈り物を運んだ人生〜
軽井沢康夫
『孤道』プロジェクト応募・落選作品です。
第十三章 二つの住吉山
七月十六日の朝九時過ぎ、藤田部長刑事と中村刑事は警察公用車のサニーで四条西洞院下ル芦刈山町にある丸菱工務店京都支社に向かった。近くにある三友ガーデンホテルの地下駐車場に車を止めさせてもらい、二人は徒歩で丸菱工務店に向かった。工務店のビルは間口幅二〇メートルくらいの四階建てビルである。道路に面した玄関口の自動ガラス扉を開くと風除け室があり、風除け室の奥にあるガラスの自動扉の内側が玄関ホール兼打ち合わせ室になっている。
玄関ホール正面奥に受付があり三人の女性が来客の応対をしている。
玄関ホールの左右の壁際に六人掛けのテーブルがそれぞれ五セット置かれた打ち合わせブースが設けられている。ブースは仕切り板で区分けされている。
「京都府警の藤田といいますが、不動産管理部署の方を呼んでもらえますか?」と身分を証明する警察手帳を提示しながら藤田が言った。
現在の新デザイン警察手帳は二〇〇二年十月一日より使用されている。手帳を開けると上半身の顔写真および職員番号と階級・氏名を日本語と英語で記入してある証票入れ部と金色と銀色の警察バッジを入れる記章部が現れる。それ以前は、メモなど記入できるノート部があったが、現在の手帳には無い。警察官は別途メモ用の手帳を持つ必要がある。なお、証票入れ部の裏側に名刺入れが付いている。
「ご用件は?」と受付嬢が訊いた。
「向日町にあるサンライズビラと云う名のマンションの住人の件で訊きたいことがあるのやが。」
「それでは、担当の者を呼びますので、あちらの五番ブースでお待ちください。」と言って受付嬢は玄関ホール左側壁際にあるブースを手で示した。そして、受付台の上に置かれている内線電話を手に取った。
「おおきに。ほな、待たしてもらうわ。」
藤田と中村は五番ブースに行き、椅子に座って担当職員を待った。
五、六分くらいして一人の男性が分厚いA4サイズのファイルを抱えて受付に降りてきた。ファイルの背表紙には【向日市サンライズビラ】と書かれている。そして、受付の女性から五番ブースを案内された。そして五番ブースに入り、ファイルをテーブルの上に置いた。
「お待たせしました。マンション管理担当の上杉と申します。」と言いながら男は名刺入れから名刺を取り出して藤田と中村に差し出した。
名刺には【不動産管理部賃貸マンション課洛西地域係 上杉武志】と書かれている。
「京都府警巡査部長の藤田と云います。こっちは中村です。」と言いながら、二人はそれぞれ自分の身分証を提示した。
「賃貸マンションのサンライズビラの居住者の件ということですが、如何いったことでしょうか?」
「301号室の竹島伸一さんのことが訊きたいのやが、マンションに入る前の住所や入居年月日はわかりますかな?」
「はい。301号室ですね。お待ちください。」と、上杉がテーブルの上に置いたファイルの301号室のページを開いた。
「入居年月日は平成元年四月一日になっていますね。ちょうどこの年にマンションが新築で竣工して賃貸が開始された年です。入居開始が四月からだったようですね。ですから、これは書類上の入居年月ですね。この書類の提出日は平成元年五月二十二日になっていますから、このころのご入居だと思います。平成元年ですから西暦一九八九年ですね。二十七年前ですね。入居前の住所は向日市寺戸町になっていますね。」
「ほんまでっか?ちょっと、それ見せてもらえますかな。」
上杉がファイルを回転させて藤田に当該ページを見せた。
「向日市寺戸町から久世殿城町へ移動しただけかいな。ほん近くやがな。向日市役所に住民登録されとらんかったと云うことは、以前から住民票は向日町には無いと云うことやな。どこの自治体に竹島伸一の住民票があるんやろかな・・・。寺戸町に来る前はどこに居ったんかやな・・・。」と藤田が考えるように呟いた。
そして、藤田は保証人欄に書かれている名前と住所に目を止めた。
「保証人が谷下菊男。職業が不動産業。住所が京都市西京区大原野上里勝山町となってますが、この人は如何いう人かわかりまっか?」
「さあ、私にはちょっと判りません。現在は保証人を立てずに保証会社が入居者を査定して承認すれば、入居を受け付けます。いわば、保証会社が保証人です。当時はまだ保証会社制度は無かったので保証人を書いてもらっていました。担当者が保証人に電話して保証確認するのが決まりでしたが、担当者によってはそれを怠る場合があったようです。その保証人の存在を確認するだけで入居をOKしていたことも多かったようです。ですから、谷下菊男さんが保証人を承諾していたかどうかは不明ですね。当時の担当者がどのように処理したか、この書類からは不明です。」
「そのページの下に担当者の印が押してありますよね。」
「生田ですね。わたしの知らない人です。現在この支店には居ない人です。今どこに勤務しているのか、上司に確認して来ましょうか?」
「いや、今日は結構です。そのうち必要なら聞きますわ。」
「しかし、京都市西京区大原野と云うのは向日市のすぐ隣にある街ですから向日市みたいなものです。多分、向日町競輪場の西側あたりにある住所でしょう。」
「不動産業とありますが、谷下満男さんと関係あるのですかね?」
「ああ、谷下満男さんですか。先だって、フグの中毒でお亡くなりになった東向日駅前にある不動産屋の方ですね。そういえば、同じ苗字ですね。谷下満男さんとこには新規の賃貸人の紹介をしてもろてました。もしかしたら菊男さんは満男さんのお父さんかもしれませんね。満男さんは父親がやっていた店を引き継いだと仰っていましたから。」と上杉が推測で言った。
「お父さんは生きてはりますかね。」
「さあ、それは判りません。」
「そうでっか。いや、いろいろ、ありがとうございました。おい、中村、この保証人の住所と氏名、電話番号をメモしたか?」
「はい。今からメモします。」と言って、中村はポケットか手帳を取り出した。
「ところで、このマンションは非常階段がありましたな。」
「はい。各フロアの廊下の西側端に非常口の扉があります。中からは鍵なしで開けられますが、外からは開けられません。扉が開いたら非常ベルが鳴る仕組みになって居ます。」
「扉が開いてる間ベルが鳴ってるんでっか?」
「扉の上側の扉枠にアクチュエータと云うばね式のスイッチが付いていて、扉が開くと自動的に非常ベルのスイッチが入ります。しかし、このアクチュエーターを押してやればベルが止まります。引っ越しの時など、運送屋がこのアクチュエータをガムテープで抑えて、ベルが鳴るのを止めて引っ越し荷物をマンションから出し入れしたりしていますね。」
「ガムテープでスイッチを止めてしまいよるわけですな。」
「まあ、そういうことです。」
「メモ取れたか、中村。」
「はい。取りました。」
「よっしゃ。ほな、行こか。」
藤田と中村が椅子から立ち上がった。
「これは祇園祭の山鉾ですね。」と、五番打ち合わせブースの横壁に掛かっている写真パネルを見ながら立ち上がった中村が言った。
「はいそうです。芦刈山と言う山車です。人は乗れませんが、由緒のある山車です。平安時代にあった住吉山と云う山車を引き継いだとされています。応仁の乱以前は住吉山だったのが応仁の乱後の一四九六年に芦刈山としてこの芦刈山町の場所で創建されました。」
「もとは住吉山ですか。」と中村が呟いた。
「住吉山云うて、御室の北側にある町名でんな。」と藤田が言った。
「そんなところに住吉山町があるのですか?」と上杉が驚いたように言った。
「仁和寺や竜安寺のある御室地域は、古代の天皇陵とかがある地域で、離宮を置いた天皇さんもいたそうでっせ。」と藤田が知識をひけらかした。
「へえ、刑事さん、博識ですね。」
「それほどでもないわ。長年、刑事しとると、いろんなとこへ行きまっさかいな。年の甲でんな。」
「勉強になりました。」
丸菱工務店を出て、三友ガーデンホテルの駐車場に止めておいたサニーに乗って藤田と中村は滋賀県甲賀市信楽町に向かった。時刻は午前十時三十分を回っている。
五条通りの国道一号線に入り、山科にある京都東インターチェンジから名神高速道路に乗り、新名神高速道路の信楽インターを出て、国道307号線を東に進んだ水口町にある甲賀市役所に着いたのが午前十一時二十分過ぎであった。
市役所で橘幸三の住所地などを確認し、信楽町長野にある橘家に到着したのが午後一時前であった。途中、信楽鉄道の信楽駅前にある蕎麦屋で二人は昼食を済ませていた。
敷地の中に小奇麗な古民家があると云った風情で裏手に山が迫っている。隣の家とは三十メートルくらい離れているが住宅街のはずれにある。
「甲賀市役所から電話した京都府警本部の藤田です。」
「中村です。」
「お待ちしておりました。橘幸夫です。ここでは何ですから、応接間にお通りください。」
二人は畳敷きの応接間に案内され、ソファーに座った。
「それで、どのようなお話でしょうか?」
「お父さんは昭和五十七年、七十七歳でお亡くなりになっとりますが、京都の寺町通りで信楽堂と云う骨董品屋を経営してはりましたな。」
「はい。そのように父は生前話しておりましたが、私はその骨董店の場所は知りません。」
「竹島伸一と云う人物を知ってはりますか?」
「いいえ。初めて聞くお名前です。」
「実は、今でも、その信楽堂の古物商免許の代表者がお父さんの幸三さんの名義になっとります。」
「それはおかしいですね。父の話ですと、趣味を生かして開業したが、四年くらい経ってから知り合いの人に店を譲り渡したということでしたが。どうも商売が下手で、経営が赤字続きだったようです。店仕舞いを考えていたら、その人が譲って欲しいと申し出られたので、安い金額で譲渡したらしいですが。」
「その人の名前は判りますか?」
「いいえ。判りません。父から名前を聞いたような記憶もありますが、名前は全然覚えておりません。」
「その方は信楽町の住人でしたか?」
「違います。確か、大学の考古学の先生の紹介だったと聞きました。考古学の先生と云うのは、聖武天皇の離宮があった紫香楽の宮の発掘調査の時に知り合った方だったと聞きましたが。発掘調査当時は研究員で有名な大学教授の助手さんだっただったようですが、その後に教授になられたと聞きました。」
「何処の大学の何という先生か判ってますか?」
「確か京都大学だったと思いますが。先生の名前までは聞いてません。」
「京大でっか。発掘調査云うて、それはいつ頃の話ですかな?」
「戦前の話だったと記憶していますが。昭和の一桁時代で、内裏野地区の発掘調査だったと思います。内裏野地区と謂うのは、以前は聖武天皇の宮殿があった場所とされていたのですが、その頃の発掘調査で寺院跡ではないかと判断された様です。」
「そうですか。それで、何ぼくらいで寺町の『信楽堂』の建物を譲られたんでっか。」
「金額は覚えていませんが、当時の値段でも安値だったようです。」
「建物の所有権も譲られたのですか?」
「はい。そうだと思いますが。固定資産税の納税通知書などは今まで届いたことがありませんから。」
「建築物の登記は変更されているはずと云うことですな・・・。」
「敷地は隣家からの借地でしたが、建物は父が建てたと聞きました。」
「昭和二十六年の開業として四年後は昭和三十年やな。竹島伸一が買うたんか? しかし、昭和三十年云うたら、あの老人もまだ若い時やろ。金を持ってたんかいな。誰ぞ、他の人間に買うてもろたんとちゃうのんか? そのころは何の仕事をしとったんかいな。考古学の先生を知っとるとはな。ほんま、素性のよう判らん奴やな。」と中村の方を向いて藤田が言った。
「はい。そうですね。」と中村が返事した。
「中村、帰りに法務局へ寄って登記を調べなあかんな。」
「判りました。場所は知ってます。」
「ところで、この家の横に登り窯がありましたが、信楽焼の壺でも作ってはりますのんか?」
「はい。我が家は代々、壺を焼いてますが、今ではそれほど商売になりませんから、趣味を兼ねて小遣い稼ぎをする程度です。収入は農業が主体です。日曜日や夏休みシーズンには陶芸展示館で陶芸教室の講師をしたりしています。」
「骨董屋を譲った人についてほかに何か覚えてませんかな?」
「骨董品などを扱うような人ではなかったらしいです。」
「どんな商売をしてたとか?」
「えーと。そうですね・・・。ああ、確か、その人の父親は土木関係の人で聖武天皇の隠し黄金を探しに来た人で、先ほどの考古学の先生の遺跡発掘作業の手伝いをされていたと聞きました。その子供さんに売ったとか言ってましたね。その人の商売は知りませんが。」
「戦前は紫香楽に金山があったんですか?」
「いえ、違います。聖武天皇はここ信楽の地に紫香楽の離宮を創建し、大仏を建てることを計画されて実行されたのですが、藤原氏の反対で平城京に戻ることになりました。しかし、大仏の表面に塗る金メッキのための砂金や黄金を日本の各地で集められました。大仏さんに塗った後に残った黄金を藤原氏に横取りされるのを防ぐ目的で、この信楽の地に隠したと、その父親の方は仰っていたそうです。父も興味があって場所探しのお手伝いをしたそうですが、結局は見つからなかったらしいです。それは戦前の話だったようですが・・・。」
「戦争前に宝探しでっか。」
「当時は日本全国でお宝探しのブームがあったと父は楽しそうに話していました。」
「なるほどね。」
聖武天皇(701年〜756年)は第45代天皇。天皇在位期間は724年から二十六年間。命日は天平勝宝8年5月2日で太陽暦756年6月7日と明治政府はしていたが、平成24年に6月8日と修正された。なお、奈良東大寺では毎年5月2日に命日法要『聖武天皇祭』を実施している。
聖武天皇は740年から五年間に恭仁の宮、紫香楽の宮、難波の宮に遷都を繰りかえした。仏教に帰依し、紫香楽の宮で始めた大仏鋳造を平城京に戻ってから東大寺大仏鋳造として再開した。そして、752年に大仏落慶供養が盛大に行われた。この時、日本の何処かで金山が発見され、大仏表面にメッキする金が賄われることを神託した宇佐八幡宮の八幡大神が大仏の鎮守神になるとされて大仏開眼供養に招かれた。大神杜女と云う禰宜尼(尼巫女)に神が憑依したとして神輿に担がれて大分県の宇佐から平城京に到着している。この杜女は供養式の後に薬師寺の僧侶と呪詛問題を起こしたとされ、神が穢れたとして宇佐神宮の本殿とは別の場所に十五年間祀られた。なお、大仏鋳造の費用を捻出するために僧侶の行基が全国行脚して、民から募金などを集めた。
その後、藤田と中村は京都御所の東側にある京都地方法務局で信楽堂の建物登記を調べたが、橘幸三や他の人間によって登記された形跡はなかった。敷地は隣家の不動産登記に含まれていたがそこに建物が建築されているという登記はなかった。
結局、竹島伸一が住民登録された自治体を見つけることはできなかった。
中村刑事が公用車を総務部へ返しに行っている間に藤田は捜査一課の部屋に戻ってきた。そして、遠藤課長が待ってましたとばかりに藤田を呼んだ。
「藤やん。如何やった?」
「あきませんわ。竹島伸一の住民票は見つかりませんでした。」
「住民登録しとらんのか。」
「まあ、そうですわ。もしかして、無戸籍と云う可能性もありますな。かもしれんということですがね。」
「最近ちょくちょく新聞に書いとるあれか。」
「何とかせんと行けませんが、ちょっと手詰まりですわ。」
「何とかしてや、藤やん。浅見刑事局長に報告せなあかんからな。しかし、参ったな。」
「今日、この後もう一遍、向日町のマンションへ行ってきますわ。夜になって家に居るかもしれませんよって。」
「向日町の駐在にちょくちょく見回る様に言うといたけど、何時行っても居らんみたいやで。」
「姿を隠してもうたんか、旅行にでも行っとんのか。まあ、何んか考えますわ。」
「頼むで。」
そして、翌日、七月一七日の朝、九時過ぎ。
「課長。お早うございます。」
「お早うさん。なんや、藤やん。えらい強そうな顔してるやないか。」
「ちょっと、出張したいんですが。」
「出張?どこへ行くねん。」
「紀伊田辺まで。」
「紀伊田辺やったら日帰りで行けるやろ。」
「電車で行って、ちょっと調べることが出るかもしれませんよって、一泊せなあかんかもしれませんので。」
「それで、何を調べたいねん。」
「実は、大毎新聞の田辺通信部に浅見刑事局長の弟さんが宿泊中ですねん。」
「何やて! 名探偵と噂の高い、それ、何と云う名前やったけ。ええっつと、名前は・・・・。」
「光彦さんでんがな。」
「それ、それ。その名探偵はんが何で紀伊田辺に居るねん。」
「どうも、大阪天満であった殺人事件の被害者の遺族と知り合いやそうです。」
「それで、犯人を捜しとる訳か。」
「刑事局長が竹島伸一のことを我々に調べるように言ってきたのも、大元は名探偵さんの推理があるものと思われます。何を掴んでいるのか、ちょっと聞きに行こうかと云う訳ですわ。場合によっては市役所へ調べに行かなあかんかも知れまへん。あと、牛馬童子像もこの目で見ときたいんですわ。」
「そうか・・。竹島伸一か。厄介な奴やな、ほんま。」
「今日、大毎新聞に電話して浅見探偵と会う約束が出来たら、田辺へ向かいますよって、よろしゅう頼みます、課長。」
「しゃあないな。宿泊は田辺署の宿直室を借りてや。それから、土産は梅干し以外の美味しいものにしてや。」
「判っとりますがな。任しとくなはれ。そやけど、課長。梅干しを邪険にしたらあきまへんで。平安時代にコレラが流行した時、天皇さんが梅干しを食べてコレラに罹るのを防いだという逸話が残されているそうでっせ。」
「ホンマかいな。梅干しで病気予防出来るんかい。今日、帰りにスーパーで梅干し買うて帰るか・・・。」
二人の話を聞いていた中村刑事が言った。
「藤田さん。私は竹島伸一の保証人の谷下菊男を当たっときます。」
「中村。そっちはまだ動くな。」
「どうしてですか?」
「不用意に動いて、警察が近づいて来たこと知った犯人は証拠となる物を捨てたり、身を隠したりしよるかもしれんからな。」
「えっ、谷下が犯人ですか?」
「アホ言え。そんなもん、まだ判らんわ。谷下菊男の周辺の人間が犯人である可能性も想定しとかなあかんと謂うこっちゃ。捜査の手順を間違ごうたら、犯人は挙がらんぞ。」
「そういう事ですか。」
「中村。藤やんが若い時にそれで痛い目に遭うとるのや。」と遠藤課長が言った。
「課長。余計な事言わんでもよろしいがな。」と藤田がくぎを刺した。
「まあ、ええがな。若いもんの勉強や。中村、藤やんが居らん時に話したるわ。」と遠藤課長が言った。
「お願いします。」
「承無いな。」と藤田が諦めて呟いた。
すると、席に座っていた若手の高井刑事が手を挙げて言った。
「課長。私も聞かせてください。」
「おお、ええぞ。」
すると更にまた、三人の刑事が同じことを言った。
「私もお願いします。」
「何や、時田。お前は若手やのうて中堅やないか。」と藤田が言った。
「藤田さんのその話は噂で聞いてますが、詳しいことは知りませんので、この際、勉強しとこと思いまして。」と時田刑事が言った。
「承無いな。」
「藤やんのお陰でええ教材ができたわ。」と遠藤課長が言った。」
「あんじょう頼んまっせ、課長。」
「おお、判っとるがな。俺と藤やんの仲や。任しといてんか。」
「ほんま。大丈夫かな・・・。」と藤田刑事が呟いた。
そして、あらかじめ大阪府警の岩永部長刑事から訊いておいた電話番号に電話を掛けた。
「はい。大毎新聞田辺通信部です。」
「そちらに浅見光彦さんは居られますか?」
「はい。私ですが。」
「こちらは、京都府警察本部の藤田と申します。」
「はい。」と言いながら、「そのうちに会いに行こうと思っていたが、そっちから来たか。」と光彦は思った。
「今、その近くに記者さんは居りますかいな?」
「いえ、居ません。先ほど外出したばかりですが、記者の鳥羽に何か用事ですか?」
「いえ、用事と違います。新聞記者には聞かれとうない話ですよって。」
「事務所には私一人です。ご安心ください。」
「そうですか。それで、今日の午後に田辺市内の何処かでお会いできますかな。」
「田辺市内でですか?」
「ええ、そうです。この後直ぐに京都府警本部を出ますから、午後3時以前には紀伊田辺駅に着けると思いますのやが。」
「判りました。田辺駅に着く30分前くらいに私の携帯に電話もらえますか?田辺駅に車でお迎えに参ります。電話番号を申し上げますからメモを取ってください。」
「それは有難いですな。ちょっと待ってください・・・。はいどうぞ。」と言って藤田は光彦の電話番号をメモした。
「それで、記者の鳥羽には知られないために、田辺署の会議室でも借りていただけますか?」と光彦が言った。
「田辺署でお話を聞かせてもらえますのんか?」
「はい。田辺署の生活安全課の馬島刑事に連絡して会議室を予約してもらってください。」
「判りました。京都府警から依頼してみます。」
「それで、お話の内容はどういったことでしょうか?」
「浅見さんが掴んでいる竹島伸一の情報などを聞きたいのです。そして、こちらの掴んでいる情報と照合して、新しい動き方が思い浮かべばと思っとります。」
「判りました。お待ちしています。」
「よろしゅう、頼んます。」
藤田部長刑事からの電話を切った光彦は、義麿ノートの続きを読み始めた。昭和十七年のページに入った。
「戦争が始まって、言論統制が強まっている。特高警察や憲兵が偉そうにしている。そふ謂えば、阿武山地震観測所の古墳騒動の頃、思想犯でもない山村先生を刑事が監視していた。あれは何だったのだろう。その刑事が僕と山村先生が肩を組んでいたなどと言い掛かりを突けて来たことがあった。下宿の文箱や抽き出しを観られたことがあった。ノートを観られた形跡はなかったが、これからは、変なことをノートに書かないように努めよう。しかし、今後の生き方を四月までに決めないといけない。考古学を学んでも就職口は乏しいと謂われたけれど、この道を選んだのは世の為ひとの為になると信じたからだった。伸一君の勉強も見て行かないといけないので、どうするか悩んでしまふ。」
その後の記述は日常の生活で感じたことなどが書かれていたが、四月になって父親の会社の手伝いをすることになったと書かれていた。
「僕が京都に下宿していることを良いことに、父は僕が高槻などの北摂地域にある鈴木家の土地を管理する役目を言い出した。どうも、京都の中学に入れた目的はこれだったようだ。伸一君の勉強を見ていることもあり、承諾することにした。おまけに、土地の管理の為に株式会社を設立する心算らしい。会社名はご先祖が大和朝廷にお世話になったことに鑑み、八紘掩宇を参考に八紘昭建とするらしい。当面は、現在の下宿をその会社の京都事務所とする。四月二十三日、竹さんから就職のお祝い金をもらった。伸一君の家庭教師を引き続き頼まれて、承知した。伸一君も漢字や足し算引き算を大分覚えてきた。集中力はまだないが、宿題を出して、自分で勉強させているので覚えが速い。」
その後は、不動産関連の勉強を始めたことが書かれているが、生活が忙しいためなのか、それとも思想統制があるためなのか判らないが、記述がほとんどない。竹島伸吾郎の話も出てこない。あっても、新聞情報の戦争の成果状況を記しているだけであった。軍事教練や疎開、勤労動員などの話が少し書かれているが、それに対する自分の意見は述べられていない。言論統制を気にしているのか、自分の意見を述べた事項は全くなくなっている。そして、突然に竹島伸吾郎の話が登場する。
「昭和二十年三月十四日、昨日十三日の深夜から本日の未明にかけて、大阪にアメリカ軍の空襲があったらしい。かなりの被害が出たとの噂である。新聞には記事が出ていないので状況は噂でしか届かないが、かなり大規模な攻撃で被害が甚大であると言ふ。近所でも大阪方面の空が赤く染まっているのを見た人がいた。僕はぐっすり眠っていたので気が付かなかった。和歌山は大丈夫であったのか心配である。」
「四月四日、伸一君の勉強を見ている時、竹さんが帰って来た。四月になってから大阪の柴島浄水場周辺の土木工事の仕事に行っているといふ。近いうちに田辺の実家へ伸一君を連れて帰省するので、一緒に来て欲しいという。国民学校の生徒たちは軍事教練や軍需工場への勤労動員で働いているというのに伸一君は気楽なものである。実家の八紘昭建本社に顔を見せる序でに同行することにした。」
「四月九日から十一日にかけて二泊三日で紀伊田辺の竹さんの実家に行ってきた。十日は熊野の古街道を歩いた。何故か判らないが竹さんは牛馬童子像を伸一君に見せたかったようだ。牛馬童子像の前で花山法皇の行った事などを話していた。僕も古代史などで花山法皇の悲劇や西国三十三所の観音霊場を巡礼修行をしたことなどを知っていたが、竹さんもよく知っているなと思ふた。特に、牛馬童子像の横にある行者像も牛馬童子と同様に花山法皇の前世の姿だと説明していたのには驚いた。僕には初耳であった。竹さん曰く、陰陽師の安倍晴明が花山天皇を霊視した時の話らしい。花山天皇が前世で行者修行をしている時、吉野大峰で死亡したと云ふ。そして遺体が野ざらしになって風化した法皇の頭蓋骨が岩の間に落下し、挟まってしまった。雨が降ると岩が雨水で膨張し、頭蓋骨を締め付けた為、花山天王は雨が降ると激しい頭痛に襲われたらしい。そして、花山天王は安倍晴明から聞き出した岩場の場所から頭蓋骨を取り出させ、頭痛は消えたと云ふ。伸一君も面白がってその話を聞いていたのが印象に残った。竹さんはどのような本で勉強したのだろう。それとも、誰かから聞いた話をしただけなのだろうか。」
ここまで読んで、光彦は思った。
「竹島伸五郎が古美術商の仕事を辞めて土木工事の仕事に戻った時期が書かれていないな。太平洋戦争の開戦時点ではまだ祇園で仕事をしていたとして、空襲が始まり戦況が不利になったころには骨董品は売れないだろうし、そのころから仕事を土木工事に戻したと想定するしかないな。まあ、理由は古美術商の事務補助の仕事は不要になったと云ったところだろうか? 本土決戦を想定した軍隊の陣地構築などもあって土木関係者からの仕事復帰依頼があったのかもしれないな。いずれにしても、終戦前に土木職人に戻っていた訳だ。竹島由和氏が話していたのと同じだな。そして、米軍が再開した六月の大阪空襲で死亡した訳だ。」
そして、阪和線のくろしお九号に乗っている藤田部長刑事から光彦の携帯に電話が掛って来た。
京都府警本部からJR京都駅までパトカーで送ってもらった藤田部長刑事は、十時三十分発の姫路行き新快速に乗った。十時五十八分に大阪駅に到着し、大阪環状線ホームから十一時八分発の関西空港行快速電車に乗り換え、天王寺駅に十一時二十四分に到着した。そして、駅構内で駅弁「ひっぱりだこ飯」とペットボトルのお茶二本を買い、阪和線の15番ホームから十一時三十二分発の新宮行き特急くろしお九号の2号車に飛び乗った。
JR天王寺駅は大阪と和歌山を結ぶ阪和線の始発駅である。また、大阪難波から奈良、三重を通り愛知の名古屋駅に至る関西本線の主要駅でもある。プラットホームの数は1番線から18番線までの九本である。阪和線乗り場は1番、3番、4番、7番、8番、15番である。11番、12番、14番が大阪環状線のホームである。
特急くろしおの自由席は2号車と3号車である。車いす対応座席がある4号車を自由席とする列車もある。全車禁煙で運行される。くろしお九号は新大阪駅を十一時十五分に始発し、大阪環状線を通って天王寺駅には十一時三十分に到着する特急列車である。新宮駅には十五時二十分に到着する。
「出張の楽しみはこれや。」と思いながら空席に座ると直ぐに駅弁を開け始める藤田であった。
「ひっぱりだこ飯か。」と茶色に塗られた小さな陶器で出来ている蛸壺の形をした弁当の掛け紙をしげしげ眺めた。
「西明石の名物駅弁やな。」とニヤニヤしながら藤田は壺の上に被せてある蛸の絵と明石海峡大橋が描かれている掛け紙を眺めた。そして掛け紙を〆てある紐をほどいた。ゆでられた蛸の脚が現れ、その横には卵焼きやニンジン、穴子、菜の花が見える。
「旨そうやな。」と思いながら箸を壺の中に入れて蛸ゲソを摘まんで口に運んだ。
「タケノコ、しいたけ、鶏肉も入っているな。」と藤田はもぐもぐと口を動かしながら移り行く車窓の映像を楽しんでいる。
天王寺駅から和歌山市駅までは阪和線。和歌山市駅から新宮駅までは紀勢本線と路線名が変わる。紀勢本線は和歌山市駅から東海道線・関西本線の三重県亀山駅までのJRの路線名である。なお、新宮駅はJR西日本とJR東海の境界駅である。
車窓の風景を楽しんでいるうちに午後一時になったので藤田は携帯電話を取り出し、光彦に電話を入れた。
「早いですね。もう少し後かと思っていました。」
「ええ。思ったより乗り継ぎが上手く行きましたのでこの時間になりました。十三時二十四分に紀伊田辺に到着する予定です。」
「判りました。駅の改札口でお待ちしています。藤田刑事と判る何か目印は有りますか。」
「そうでんな。何にしましょかな。ああ、小さな茶色の瀬戸物を左手に持っている男が私です。」
「小さな茶色の瀬戸物ですね。判りました。それでは。」
「駅弁が役に立つとはな。」と思いながら藤田は電話を切った。
光彦は紀伊田辺の改札で藤田部長刑事を出迎え、光彦の愛車ソアラに乗って田辺警察署に向かった。
田辺署の四階建てビルの前にある駐車場にソアラを留め、光彦と藤田はビルへ入り、受付で馬島刑事を呼び出してもらった。しばらく待つと馬島刑事が上から降りてきた。そして一階にある小さな会議室へと三人は入った。
「わざわざお越しいただき恐縮です。」と目上の藤田刑事に馬島刑事が言った。
「まあ、仕事でっさかい、よろしくお願いします。」と藤田が言った。
「意外とお早くお着きですが、お昼は済ませましたでしょうか?」
「電車の中で駅弁を食べましたよって、心配せんといてください。」
「はい。」
「田辺は海寄りですから、京都よりは少し涼しいですな。」
「そうですかね。まあ、夏の昼間は暑いですわ。」と馬島が言った。
「でも、夜は、比較的涼しいですね。」と光彦が口を挟んだ。
しばらく雑談をしている間に女性が冷たいお茶を運んできた。
そして、話は始まった。
「それで、どのようなお話をすればよろしいですか?」と光彦が言った。
「竹島伸一に関することで判っていることを聞かせてもらえますかな。」と藤田が言った。
「承知しました。それでは掻い摘んでお話しします。日露戦争が始まった明治三十七年に竹島伸一の祖父である竹島伸兵衛さんが淀川大改修の現場監督の仕事で高槻に出ました。そして、この時、尋常小学校を卒業したばかりの伸一氏の父親である伸吾郎さん十二歳も一緒でした。このころ伸兵衛さんは竹島家の戸主で妻子がありました。長男が伸吾郎さん、次男が由伸さんでした。妻と由伸さんを田辺に残したままでした。多分、伸兵衛さんは、高槻から田辺へ時々は戻ることにしていたのだと思います。実際に戻っていたかどうかは不明です。それで住居の移転届は役所には出さないままだったようです。伸吾郎さん十五歳には工事人夫として伸兵衛さんの土木工事を手伝い始めます。淀川改修工事が終わった明治四十三年に伸兵衛さんは田辺の自宅に戻りましたが、伸吾郎さんはそのまま大阪で土木工事の人夫を続けたようです。そして、大阪市内のデパートの食堂で給仕をしている女性と知り合い、伸一氏が誕生します。それは昭和九年のことと思われます。このころ、伸吾郎さんの戸籍や住民票は田辺に残したままでした。その為かどうかは判りませんが、伸一氏の誕生届はなかったようです。田辺市の戸籍簿や住民登録簿に竹島伸一の名前は有りません。」
「そうですか。やはり、伸一は無戸籍でしたか。」と藤田が呟いた。
「いえ。まだ、そうとは断定できません。」
「と言いますと?」
「伸一氏の母親は石川県出身のようです。名前は判っていませんが、母親の戸籍に伸一氏の名前が記載されている可能性も考えられます。」
「石川県ですか・・・。」
「話を続けます。昭和九年ころ伸吾郎氏は高槻にある京都帝国大学阿武山地震観測所の地震観測用トンネル工事に従事していました。人夫頭として京都帝国大学理学部の森高教授の指示で工事を遂行していました。そして、昭和九年の夏に藤原鎌足の墓所と思われる玄室がトンネル工事の現場で発見されました。古墳事件詳細は省略しますが、新聞情報などで多くの野次馬が工事現場に押し寄せて混乱し、内務省の指令で警官の他に憲兵隊まで警備で出動したようです。どうも、古代の天皇のお宝が古墳周辺から発見されるのではないかとの風聞が飛び交っていたようです。その年の八月にはその墓は埋め戻されて古墳騒動は終焉しました。」
「このころの伸吾郎さんの住まいは大阪市内ですか。それとも、高槻ですか?」
「主に阿武山の工事現場に寝泊まりしていたと思われますが、大阪市内に住居を持っていた可能性もあります。伸一氏が生まれて母親に育てられているものと考えられますからね。伸吾郎氏も子供に会いに帰っていたことでしょう。そして、観測トンネル工事が終了した後、一時期、京都の祇園にある古美術商の従業員になっていました。昭和十五年、伸一氏が六歳になったときには京都市内の円町に借家住まいをしていたようです。伸一氏と伸吾郎氏の二人だけで、母親は別居していたようですが、何処に住んでいたのかは不明です。ただ、母親の出身地は石川県だったようです。」
「石川県ですか・・・。」と藤田が呟いた。
「太平洋戦争が始まったころから戦時中を通して、伸一氏は鈴木義麿という京都大学で考古学を学んだ人物に家庭教師をしてもらい、算数や国語、漢字の勉強をしていたようです。そして、昭和二十年四月九日から十一日までの間に紀伊田辺の竹島家に伸一氏と伸吾郎親子、それと鈴木義麿の三人で帰省しています。」
「その時に撮った写真がこれですな。」と言いながら、藤田刑事が着替えの入った手提げバッグから大阪府警の松永部長刑事からもらった写真のコピーを取り出して、光彦と馬島刑事に見せた。
「あれっ、牛馬童子像ですがな。」と馬島が叫んだ。
「これが竹さん親子か。」と光彦は思った。
「写っている人物が竹島親子で、この写真を撮ったのがその鈴木義麿さんですな。『昭和二十年四月十日、竹さん親子と熊野古街道にて』と写真の裏側に書かれとりました。この写真は、浅見さんはご存知だと思いますが、大阪天満の八軒家船着場で水死体で発見された鈴木義弘さんが所持していたものです。」と藤田が言った。
「その鈴木義弘さんの祖父が鈴木義麿さんです。」と光彦が言った。
「そうですか。なるほど。京都の殺人事件と大阪の殺人事件が繋がっている可能性があると云うことですな。」
「それと、牛馬童子像の頭部損壊事件も関係している可能性があることをこの写真が示しているのかもしれません。」
「大阪と京都の殺人事件とこの田辺の首切り事件が関係していますか・・・。」と馬島刑事が呟いた。
「その根拠は何ですかな、浅見さん。」
「まだ、直観の段階ですから、根拠はありません。」
「ゲーテ曰く、『直感は過たない。過つのは判断だけだ。』ですかな。」と藤田刑事がにやりと笑った。
「これからの田辺署の捜査に期待してください。」
殺人事件と関係するかもしれないと聞いた馬島刑事は強い口調で言った。
「先を続けます。戦争中のどの時期か判りませんが、竹島伸吾郎さんは京都の古美術商の仕事を辞め、土木建築の仕事に戻っています。京都から転居したかどうかは不明です。そして、伸吾郎さんは昭和二十年六月七日、大阪柴島浄水場で改修工事に従事している時に空襲に遭い、死亡しました。浄水場近くの長柄橋の下に避難していて機銃掃射を受けたそうです。」
「長柄橋云うて、八軒家船着き場で死んでいた鈴木義弘氏が社長をしていた会社の従業員が水死体で発見された毛馬水門近くの淀川河川公園と柴島浄水場前に架かっている橋ですな。」と藤田が言った。
「えっ。長柄橋はそんな場所にあるのですか。」と東京在住の光彦は意外な顔をして言った。
「そう云う事ですな。」
「そう謂う事ですか。」
「なるほど。」
と二人の刑事と一人のルポライターが互いに顔を見合わせた。
「それで。父親が死んで、その後の竹島伸一はどうなったのですか。」
「そこはまだ、読んでいません。」と光彦が頭を掻いた。
「読んでいないとは?」と藤田が訊いた。
「実は、鈴木義麿さんが大学ノートに手記を残されています。それを読んでいる途中なのです。」
「そうでっか。その手記が浅見さんの大きな情報源ですな。」
「まあ、そう云う事です。」
「竹島伸一のその後が判ったら教えてください。」
「勿論です。」
「それでは、私の掴んでいる情報を言いますわ。」と藤田が言った。
「向日市の毒殺疑惑事件のことは新聞では読みませんでしたので、事件の現場状況を含めて捜査状況を教えてください。」
「判りました。それではまず事件の概要を説明します。」
「お願いします。」
「頭部がなくなっている牛馬童子像が発見されたのが六月十九日の早朝でした。同じ十九日の午前九時過ぎ、阪急電車の東向日駅前にある不動産業者の事務所内で店主の谷下満男五十二歳が石川県特産の『フグ卵巣の糠漬』を食べて中毒死していたのをアルバイト従業員が発見しました。死亡推定時刻は前日の午後七時から午後九時の間です。一方、同じ日の午前十時前、東向日駅から五百メートル離れたところにある向日町競輪場近くの寿司屋の主人の高山史郎五十四歳が『フグ卵巣の糠漬』を食べて死んでいるのが発見されました。死亡推定時刻は前日の午後五時から午後七時の間です。本来の商品である『フグ卵巣の糠漬』は毒素が消滅しているので中毒死することはありません。しかし、現場に残されていた『フグ卵巣の糠漬』からは濃度の高いテトロドトキシンが検出されました。誰が猛毒をどのようにして混入させたのか、それとも欠陥商品で卵巣に毒が残ったままであったのか。被害者は毒で痙攣が始まったときに救急車を呼ぶことが何故にできなかったのか。などの疑問点が残る事件現場です。因みに、被害者の高山史郎は石川県の出身です。」
「和歌山の紀伊田辺にある頭部損壊された牛馬童子像が発見された時刻と京都向日市で遺体が発見された時刻は六月十九日の午前ですね。そして、牛馬童子の首が持ち去られたと思われる時刻が前日の午後です。毒で死亡した時刻が前日の夕刻。同一犯である可能性は薄いですかね。」と馬島刑事が言った。
「フグ毒が体内に回って死亡するまでに四時間から八時間かかるそうです。猛毒の場合ほど早く回るので、六月十八日の午後二時頃から五時頃の飲食で毒が被害者の体内に入ったと考えられます。」
「竹島伸一さんは六月十七日の午前十時過ぎから十一時過ぎまで、六月十八日は十時過ぎから午後二時半頃まで今城塚古代歴史館にいましたね。」
「浅見さんはようご存知ですな。その通りですわ。竹島伸一がJRで京都と紀伊田辺を移動し、熊野古道の牛馬童子像のところで歩いた可能性は無いとは言えませんが、ちょっと無理がありますかな。」
「紀伊田辺駅から箸折峠の牛馬童子像までは、タクシーで牛馬童子像前バス停まで移動するとして三十分から四十分、そこから徒歩で二十分くらい。往復で一時間半から二時間くらいかかりますな。」と馬島刑事が言った。
「それに、JRのくろしお号で京都から往復で六時間を加えて速くとも七時間から八時間は必要ですな。」と藤田が言った。
「まあ、アリバイを考えるのはさて置いて、捜査状況をお聞かせください。」と光彦が言った。
「捜査線上に浮かんでいる参考人は、竹島伸一の他に不動産業者の田島兼人、が居ります。石川県出身の田島は現在行方不明ですが、所轄の向日町署が追跡捜査をしとります。なお、被害者の谷下満男も本籍が石川県になっとりますが、石川県では生活した実態はないようです。多分、父親か、その前の先祖が石川県に住んでいたものと思われます。もう一人、田中健吾という廃品回収業者も参考人と考えとりますが、まだ調査はしとりません。これらの参考人たちは聞き込み情報から向日町競輪などのギャンブル仲間と考えています。」
「石川県が毒殺疑惑事件のキーワードですか。」と光彦が呟いた。
「それでは、竹島伸一に関して現在までに判っていることを話します。」
「お願いします。」
「竹島伸一の住居はJR向日町駅の東側にあるサンライズビラと云う名称の六階建てマンションの301号室です。現在、竹島伸一は行方を晦ましていて、部屋には戻って来てません。また、京都市内の寺町通りに骨董品を扱う『信楽堂』と云う小さな店舗を持っています。そこの場所は借地で店舗の建物自体は竹島伸一の所有です。こちらにも竹島は姿を現していない模様です。近所の話ですと今までも度々、店を休んだりしてたみたいです。あんまり商売っ気は無かったようですな。マンションの管理会社から聞き込んだ情報によると、竹島が入居したのが平成元年四月一日で保証人が被害者の一人である谷下満男の父親ではないかと思われる谷下菊男と云う人物です。谷下菊男の住所は向日市にある向日町競輪場の近くですが、京都市西京区大原野と云う処ですが、昔は乙訓郡大原野村と云いまして、乙訓郡向日町の隣の村でした。」
「竹下伸一と死んだ谷下満男は面識があったということですな。」と馬島が言った。
「そう云う事です。二人は向日町競輪場近くのパチンコホールによく出入りしており、ホールの休憩場で会話をしているところをたびたび目撃されとります。」
「仲が良かったと云う事ですかな。」
「詳細な調査はまだしとりませんので、仲が良かったかどうかは判りませんが、谷下満男の父親の菊男の代からの付き合いがあったと想定できます。」
「谷下菊男さんの年齢はお幾つですか?」と光彦が訊いた。
「それはまだ調べとりません。谷下満男が五十二歳でっさかい、父親は七十歳いじょうですな。三十歳の時に産んだ子供とすると八十二歳ですな。」
「竹島伸一と同じうような年齢ですか・・。」
「まあ、その辺ですが、それが何か?」
「いえ。特に如何と云う訳ではありません。同じ年頃なら話が合うかなと思っただけです。」
「話が合いますか。なるほど。」
「その他に判っていることはありますか?」と光彦が訊いた。
「実は『信楽堂』の名義人が竹島伸一ではなく橘幸三と云うて滋賀県信楽町の住人でした。それで、信楽まで行って橘幸三さんの息子さんに話をきました。」
「橘幸三さんはご存命でしたか?」
「すでにお亡くなりでした。それで息子さんがお父さんから聞いた話をしてくれはりました。」
「橘幸三さんは何歳でお亡くなりになったのですか?」
「七十七歳です。」
「と云う事は・・・?」
「明治三十八年生まれで、昭和五七年死亡です。」
「と云う事は、昭和九年頃は二十九歳くらいですか・・。」
「まあ、そのくらいですかな。それで、昭和一桁時代はお宝探しのブームがあって、信楽でも黄金探しに来た人物が居て、その人物の手伝いを幸三さんがしたらしいのです。その人物の名前は不明です。その人は紫香楽宮発掘調査をしていた大学の先生の紹介があって手伝いをしたそうです。仮に人物Aとしますと、Aの息子Bが『信楽堂』の購入者だったそうです。Aが竹島伸吾郎であれば、Aの息子Bは伸一と言うことです。竹島伸一がAの息子Bから『信楽堂』を購入して現在に至っていると考えることもできますがね。」
「竹さんが黄金探しをしていた可能性があるのか・・。そして、山村教授の史蹟発掘調査の手伝いもしていたとなると、森高教授の葬儀の場でのヒソヒソ話の意味もみえてくるな。」と考えながら光彦は盛尾教授の話を思い出していた。
「盛尾教授は宮門警護をしていた薩摩隼人が朝廷の黄金を何処かに隠した可能性があると言っていたな。そして、古墳が発見された昭和九年頃、森高教授がその黄金を探していたと云う噂があったと。」
「橘幸三さんの息子さんの話で、信楽堂は竹島伸一に譲ったと仮定して、伸一は名義書き換えをしなかったと言うより、出来なかったのではないかと私は考えております。」と藤田が言った。
「出来なかったとは?」
「竹島伸一は戸籍上、誕生していないのではないかと思うのです。」
「無国籍ですか?」
「先ほど浅見さんが仰った話では、竹島伸兵衛は田辺からの住居移転届を高槻の役所には出していない。また、伸吾郎も住民票は田辺に残したままでした。伸兵衛が田辺に戻った後、伸吾郎が生まれた伸一の出生届を役所に出していないということから考えて、伸一は無国籍の可能性が大きいと考えています。石川県出身の母親の戸籍に入っている可能性もない訳ではおまへんが、伸吾郎と二人で京都などで生活していた事実などを考えると、母親とは疎遠であったと私には思われるのですがね。」
「確かに、無国籍の可能性も否定しませんが、もう少し捜査が進んでから結論を出すことにしませんか。」と光彦が言った。
「そうでんな。浅見さんが言うように、事実確認が重要ですな。しかし、母親の名前が判らんようでは調べようがありませんな。」
「鈴木義麿さんの残したノートの先を読めば何か判るかもしれませんね。」
「行方不明の竹島伸一に関しては全国の警察署に照会を出してまっさかい、何か判ればよろしいのやが。」
「石川県警本部に重点捜査をお願してはいかがですか。」と馬島刑事が言った。
「そうでんな。京都に帰ったらそうしますわ。」
「京都に戻られたら調べていただきたいことがあるのですが。」と光彦が言った。
「何を調べますねん?」
「昭和九年頃に東山の泉湧寺近くに森高露樹と云う地震研究の学者で京都大学の教授がお住まいになっていたのですが、その娘さんで森高千尋と謂う方を探してほしいのです。現在、生きておられるとしたら、九十五歳くらいだと思います。」
「九十五でっか。生まれは何年になりますかいな。」
「大正九年頃です。」
「取り合えず京都市役所に行って調べて見ますわ。生きてはると良いのですがね。」
「まあ、そう願いたいのですが、お元気であるかどうかも心配な点です。」
「そのお方に会うて何を聞くんでっか?」
「森高教授と竹島伸吾郎が何を話していたか、覚えていることを聞きたいのです。もし、千尋さんに会えたら竹さんと鈴木義麿さんの事で訊きたい事があると伝えてください。」
「昭和九年頃云うたら太平洋戦争の前でしゃろ。覚えてはりますかな、そんな昔の事。」
「まあ、当たってもらえませんか。」
「承知しました。」
「それで、竹島伸一が毒殺疑惑事件のホシと謂うことなんですか?」と馬島が藤田に訊いた。
「いや、まだ判りません。殺人事件かどうかも確定しとらんのですわ。うちの課長は事故死にしたいみたいですが、まあ、ちゃんと証拠固めをしてからの判断になります。」
「そうですか。大変ですね。」
「それで、お願いがあるんですが。」と藤田が馬島に行った。
「はい。何でしょう。」
「今日は宿直室の止めてもらえますのかな。」
「ええ。遠藤課長さんからうちの課長に依頼があり、承認されてます。布団の準備はできてますから、この後、宿直室にご案内します。」
「それはおおきに。それで、明日ですが、牛馬童子像の場所に行きたいのですが、馬島さん案内してもらえますやろか?」
「それは構いませんが、何でまた、そんな処へ行きたいんですか?」
「竹島伸一が写ってるこの写真ですが、子供ながらに楽しそうな顔してまっしゃろ。牛馬童子が好きになったんとちゃいまっしゃろかな。」
「確かに、そういう印象がありますね。」
「それで、牛馬童子像の首を切ったんは竹島伸一ではなく、他の人物が切り取った。それを知った伸一が毒殺事件を引き起こした可能性がある、と推理を組み立てて見たんですが、浅見さん、どう思われますか。」
「確かに、八十一歳になった老人がバス停から箸折峠まで歩いて行って、石像の頭部を切り取るのは大変ですね。そして、それを持って山道を二十分あるくには、ひと苦労ですかね。手ぶらならまだしも。」と光彦が言った。
「背中のリュックサックに入れて歩いた可能性も考えられるのでは?」と馬島が言った。
「なるほど。リュクなら両手は空きますから、杖を持って歩くことはできますね。」
「明日、牛馬童子像の前に立って、竹島伸一の心境を想像してみたいんですわ。」と藤田が神妙な顔をして言った。
「僕も同行していいですか?」と殺人事件の真相追及に心を奪われていた光彦が田辺に来た当初のルポ目的を思い出して言った。
「勿論です。名探偵さんに頭部損壊事件の犯人を推理してもらいたいですからな。」と馬島刑事が言った。
馬島刑事は光彦が竹島土建へ行ったときに言った質問の仕方で、光彦の鋭い推理力を感じ取っていた。しかし、光彦が刑事局長の弟であることは知らない。藤田も黙っている。
「はあ。これは参りましたね。」と光彦は頭を掻いた。
田辺署から大毎新聞田辺通信部に戻った光彦は義麿ノートの続きを読み始めた。
「昭和二十年四月十一日、本日、田辺の竹島家から海南市の実家に帰って来た。竹さん親子は京都へ戻って行った。明日から竹さんは仕事に復帰するようである。伸一君にはさびしい日々がまた始まるのだろうか。でも、伸一君が今回の旅行では本当に楽しそうにしていたのは救いである。父から仕事に使うためにもらった写真機で竹さん親子を写した写真フィルムを父の現像室を借りて現像し、焼き付けした。京都に帰ったら伸一君に挙げることにする。きっと喜ぶことだろう。夕食の時、父から北摂地域の土地管理状況を聞かれたので、貸し地料収入などの状況を簡単に話した。米国軍の空襲が始まって日本は負けると感じている人は多い。しかし、滅多なことを口に出したら憲兵に引っ張られるから誰も何も言わない。戦争に負けたら日本人はどうなるのだろうか。国民学校の生徒たちはどうなるのだろう。今考えても背負うがないが、国民学校に通っていた子供たちより学校に行っていない伸一君の方が幸せなのかもしれないと思ふことが時々ある。父は鈴木家が所有している先祖代々の土地についての資料を纏めているらしい。戦争に負ければ米国軍に我が家の所有する土地はすべて奪われるだろうと考えているようだ。戦争後は乞食になるしかないか。不安であるが、考えてもどうにかなる訳ではない。不安ではある。」
そして、竹島伸吾郎が死んだ昭和二十年六月八日頃の記録には姿を消したと書かれている。
「六月九日、伸一君の勉強指導の為に円町に行った。一昨日から竹さんが帰って来ないと伸一君が言ふた。理由は判らないと言ふ。仕事に行ったままだと言ふ。伸一君は竹さんの仕事場が何処なのか知らないらしい。如何したのだろう。家主の奥様に訊いてみたが、やはり、知らないらしい。一昨日には大阪で大規模な空襲があった日である。何もなければ良いのだが。心配ではある。伸一君の食事は大家の奥様が作ってくださっているので心配はいらないが、伸一君を見捨てるような竹さんではないので、やはり何かあったのだろうか。しばらく様子を見ることにする。」
「六月十一日、やはり竹さんは帰って来ていない。どうしたもんかと思ふ。戦時中の事でもあり、警察に行ってもあしらわれるだけか、スパイ容疑を架けられるだけかもしれない。空襲でなくなっているならどこで仕事をしていたのかだが・・。空襲での遺体は人物確認ができないほど損傷していることが多いと謂ふが、如何だろふ。大阪の何処を捜せば良いのか。竹さんの死亡を確認するよりも、これから伸一君の面倒を誰が見るかだが。竹さんの実家に相談するかどうか。この前に田辺の実家へ行った時の伸一君の様子では、実家の人にはなつかない可能性がある。実家の人たちも、結婚もしていない女性の子と云う事で、竹さんに辛く当たっていた。当面の食事は大家の奥様にお願いするとして、僕が面倒を見てやらねばならないかもしれない。」
戦時中に書かれた義麿ノートはこれで終わっていた。
「その後、義麿氏が伸一君を育てたのだろうか? もうすぐ終戦を迎え、終戦後の生活はどのようになったのだろう。この時、昭和九年生まれの伸一君は十一歳か。」と光彦は思った。
そして義麿ノートは終戦の記録を書いて完了する。
「今日は記憶すべき昭和二十年八月十五日である。正午から天皇陛下のお言葉がラヂオで放送された。戦争に負けたとはっきりとは仰らなかったが、これからの国民に向けたお言葉の主旨は、萬世の為に太平を開かむと欲す、であったと思ふ。僕も将来を見据えた人生を考えないといけないと思うた。八紘昭建が存続できるのか如何かは不明である。いっそ、考古学研究者の道を進むべきか、真剣に考えることにする。今日は萬二十七歳である。三十三年後の還暦を迎えた僕は何をしているのだろうか? かつて戦争で負けた独逸国が見事な復活を遂げた事例を考えれば、日本も悲観することはないかもしれない。太平を開くために。」
「戦時中には義麿さんは日々の記録を書かなかったのだろうか。他の時代に比べて書かれた文章の量があまりにも少ない。他に記録があったが失くなってしまったのだろうか。戦後の生活のことを書かなかったのだろうか。小さい時から裕福な生活を送って来た所為なのか、この文章から義麿さんの戦後における不安が感じられない根っからの楽観主義者なのだろう。」と思いながら光彦はノートを閉じた。
そして、鈴木義弘氏と松江孝雄の殺人事件に考えを移した。
「大阪天満橋での事件と京都向日市の事件は関連があるのか如何か。関係性を結びつけるのは牛馬童子像と仮定すると、竹島伸一がキーマンとなる。無関係とすれば鈴木家の所有不動産の処理に関係する人物が犯人と想定することになる。向日市の事件も不動産屋が殺されている。二つの事件が無関係と考えること自体に無理はあるかな。鈴木義弘氏が残した言葉『何で今頃になっておかしなことを』の内容が何であるかだが。大事な人に会うから暑い夏なのに上着を着ていた。しかし、その大事な人に会うのは気乗りがしなかった仕事。それは、聞き入れると面倒なことになると云う事だが・・・。鈴木家の所有ではない土地に関する斡旋売買の問題かな。自分の土地ならどうにでもなるから気乗りしないと云うことは無いな。あるいは土地ではなくて物品の販売取引かもしれない・・・。鈴木義弘氏や松江孝雄氏の仕事相手なら警察が調査をしているだろうから、それを確認するか。殺された義弘氏が札入れに竹さん親子の写真を持っていたことは何を意味するのかだが。義弘氏の父親である先代社長の清吉さんから写真を引き継いだと考えるよりも、祖父である義麿氏から直接渡されたと考えると、義麿氏から竹島親子に関する何かの依頼事を託されたと考えられるかな・・。それは何か・・・。それを確認する手段が一つある。竹島伸吾郎と森高教授が二人だけであの夏の日、高森家の中で何を話したのか。それまでやその後も竹さんは高森家を訪問しているだろう。その時の話を千尋さんは何か聞いているはずだ。千尋さんが生きているとしたら今は何歳だろう。かなりの老人になっているはずだ。昭和9年のあの夏の日、義麿氏より一つ年下だった高等女学校の娘さん。5年前、九十二歳で亡くなった義麿氏。すると、千尋さんは現在、九十六歳になっている。この事件を解く鍵を握る人かもしれないな。京都向日市の事件との関連を考えるのは千尋さんから話を聞いてからだな。」
あれこれと事件の事を考えていると、アッと言う間に夜が更けた。
眠くなった光彦は床に着いた。八月半ばを過ぎたが、まだまだ暑い夏の夜である。
鳥羽映佑は明日の午前中にある大毎新聞和歌山支局での会議に出席する為、和歌山市内のホテルに宿泊していて、今夜は田辺通信部には戻って来ていない。
藤田部長刑事と浅見光彦は馬島刑事の案内で午前中に箸折峠へ行き牛馬童子像を見た。三人が移動に使った車は光彦の白いソアラである。道の駅『熊野古道中辺路』でソアラを駐車し、三人は牛馬童子像がある箸折峠近くまで古道を歩いた。
「これが牛馬童子像でっか。それに横が行者さんですな。思ったより小ぶりに出来てますな。」と藤田が言った。
「高さが五十センチくらいですからね。今は頭部が無いから三十五センチくらいですかね。余計に小さくみえますね。」と馬島刑事が言った。
「何時頃、頭部が復活するのですか?」と光彦が訊いた。
「今、市役所の担当部署が計画中です。予算承認を取り付けなあきませんから結論はもう少し先になるようですな。前回の損壊事件の時と同じ様に修復するのと違いますかな。」と馬島刑事が答えた。
「藤田さん。竹島伸一の気持ちが何か判りましたか?」
「あっ。いやあ、何も浮かんで来ませんな。伸一少年のあのにこやかな表情はどこから来たのか。それに引き換え、伸吾郎の厳しそうな表情。好対照ですがな。まあ、親子で楽しいハイキングの時間を過ごしたと云う事ですかな。」
「そうですね。」と言いながら光彦はある考えが浮かんでいた。
「親子の好対照な表情。それは認識の差。その認識の対象は伸吾郎の信楽でのお宝探しに関係があるのではないだろうか。」
しばらく石像を眺めた後、三人は道の駅に向かって熊野古道を歩き始めた。
その後、三人はソアラで田辺市街に戻った。
遠藤課長への土産として『弁慶の釜』という最中を馬島刑事が紹介した銘菓店で購入した藤田刑事は、12時38分に紀伊田辺を出発するくろしお18号に乗った。昼食の駅弁は『紀州てまり弁当』である。新大阪に14時50分に到着した。そして快速に乗って京都駅に到着したのが15時29分であった。京都駅から地下鉄烏丸線に乗り丸太町で降りたのがで15時52分であった。
そして、徒歩で京都府警本部に戻ったのが午後16時15分ころであった。
一方、馬島刑事と供に藤田部長刑事を紀伊田辺駅で見送った後、大毎新聞の田辺通信部に戻った浅見光彦は義麿ノートがびっしりと詰まった段ボール箱の底を漁っていた。
「読み忘れたノートは無いだろうか・・・。何か紙切れでもはいっていないだろうか・・・。」
未練がましい自分が嫌になりながら、なお何か情報を求める光彦の姿がそこにあった。
翌日、藤田部長刑事と中村刑事は京都市役所で森高千尋の消息を調べた。そして、養子を迎えて結婚をしていた千尋は森高教授の邸宅に住み続けていたことが判明した。そして、東山区泉涌寺東林町の森高家を訪問して千尋が元気に暮らしていることを確認した。そのことを浅見光彦に電話連絡をした。
「森高千尋さんはご存命でした。」
「お元気でしたか?」
「ええ。九十六歳には見えませんでした。立浪泰代と謂う娘さんご夫婦が同居されていました。娘さんも六十八歳ということでした。まあ、老々介護ちゅう奴ですな。玄関の表札も森高と立浪の二つ掛ってましたな。」
「明日の午後二時頃に森高千尋さんに会えますかね。」
「まあ、仕事はされてませんから大丈夫と思いますが、電話して確認してみます。一旦、この電話を切りまっせ。」
「判りました。お願いします。」
しばらくして、再び藤田刑事からが光彦に電話が掛った。
「明日の午後二時にアポイント取れましたで。」
「ありがとうございました。それでは明日どこで落ち合いましょうか?」
「最寄りの駅はJR奈良線の東福寺ですが、浅見さんは車でっか?」
「はい、その心算ですが。」
「それでしたら、泉涌寺の駐車場で一時五十分頃に会いましょか。場所判りますかな?」
「はい。泉涌寺は判りますから、大丈夫です。」
「泉涌寺の社務所には私から駐車のお願いをしておきますわ。じゃあ、そう云う事で。」
「それから、もう一つお願いしたいのですが。」
「何でっか?」
「竹島伸一さんのマンションの部屋を家宅捜索できますかね?」
「まあ、捜索令状が取れれば大丈夫ですが。また急なことですな。」
「部屋で孤独死されている可能性も考えまして、部屋の中を確認しておきたいのですが。」
「孤独死ね。それで竹島伸一の行方が判らんのですかね。自殺はせえへんと思いますが、確認は必要ですな。よろしおます。逮捕はまだできませんから、所在不明参考人の身柄確認を理由にしますが、捜索の立会人をどうするかですな。それに中へ入るにはドアーの鍵が必要ですな。」
「立会人はマンション管理会社の担当者にお願いすると云う事でどうですか。」
「あそこは賃貸でっさかい、管理会社にある部屋の入口扉のスペアキーを持って来てもらいましょか。そやから、立会人はマンションを管理している丸菱工務店の上杉と云う担当者にお願いするのが筋ですわ。マンション管理会社の担当者に連絡して、向日市のマンションまで来てもらえるかを確認しておきます。要は、令状が下りるかどうかですわ。」
「何とか、お願いします。」
「判りました、課長に言うてみますわ。」
〜天皇からの贈り物を運んだ人生(中巻)〜
完 下巻に続く