天使の誘《いざな》い
右京はがっくりと肩を落とし、屋根に両膝をついた。
「金に目がくらんだばっかりに……」
悔しそうにこぶしを、屋根に叩きつけたところで。
菫の冷静なツッコミが。
「チップね」
「おう?」
はっとし、右京は親友を見上げた。
気持ちを入れ替え。
悔しそうに、もう一度こぶしで屋根を叩く。
「チップに目がくらんだばっかりに……」
今度は別の意味で、落胆した。
「……やっぱ、調子でねぇな、これじゃ」
右京はさっと立ち上がって、
「つかっ!」
非道な安斎を指差し、猛抗議。
「お前、さっき、落ちるなって注意したじゃねぇか! 何で、飛び降りろとか言ってんだよ?」
安斎は涼しい顔で、
「あれは、社交辞令ですよ」
堂々と、嘘だと認めた教師に。
生徒である、右京は一瞬言葉につまった。
「んっ!」
数秒、妙な間が流れる。
……。
…………。
………………。
ぷるぷると頭を振り、右京は自分自身に言い聞かせた。
「いやいや、めげんなって。ちゃんと突っ込まねぇと……」
気持ちを奮い立たせ、右京は。
空中に優雅に浮かんでいる、安斎に詰め寄る。
「生徒に自殺強要する先生が、どこにいんだよっ!!」
安斎は動じることなく、にっこりと微笑み返した。
「自殺ではありませんよ」
「いやいや、自分から飛び降りんだから、自殺だろう」
「死ぬことはありませんよ」
安斎の言葉に、右京はぽかんと口を開けた。
「あぁ?」
安斎は適確に答える。
「神崎君は一度死んでるんです。ですから、もうこれ以上死ぬことはありませんよ。肉体には限りがありますが、魂は永遠です。うふふふっ」
「……おう、そうかーー!!」
納得しかけた右京は、安斎の最後の笑い声に引っ掛かりを覚えた。
菫の方へぱっと振り返って、
「……菫、ちょっと」
「どうしたの?」
呼び寄せられた菫と一緒に、安斎に背を向け。
生徒ふたりでコソコソ話を始める。
「こいつの言ってること、マジか?」
「うん、本当だよ」
「けどよーー」
しびれを切らした、人でなしの教師ーー安斎は軽く嘆息し、
「仕方がありませんね。この話はなかったことにーー」
そう言って、帰るような素振りを見せた。
右京は慌てて止める。
「まっ、待った! やるやるっ!」
安斎はにっこり微笑んで、
「そうですか。それでは、飛び降りて下さい」
悪魔のような天使に誘われて、
「お、おう……」
右京は返事をしたものの。
目がくらむほどの高さを改めて感じると、自然と手をきつく握りしめた。
「…………」
どんな感じすんだろうな?
高いとこから落ちんのって。
面白ぇかもーー
ドゴゴゴゴゴゴ~~~~~ッッッッッ!!!!
突如、爆音が響き、爆風が吹き荒れた。
塔がガタガタと揺れる。
「あぁっ!? な、何だっ!!」
思わず目を閉じていた右京は、薄目を開け。
音が聞こえてきた地上をうかがうと。
さっきまでいた校舎が、砂煙をあげて、崩れていくのが見えた。
背後から、菫のため息が、
「また、壊れてる……」
「また?」
右京が振り返ると、安斎もため息をついた。
こっちは、さほど気にした様子はない。
「あぁ~、また、ウチの生徒がやってしまいましたか……」
「どういうことだよ?」
真剣な眼差しの右京に、菫が答える。
「この学校には、爆弾を作るのが好きな子がいるんだよ」
「どんだけふざけてんだよ!」
ゲラゲラ笑っている右京の視界の端で。
壊れてしまった校舎が、猛スピードで。
まるで、時間が巻戻るかのように。
散らばった破片が、ひとつも間違えることなく、元へ戻ってゆく。
「壊れても、戻んーー!!!!」
そこで、天の助けか。
右京の野生の勘か。
きわめて重要なことに気づき、安斎の方へぱっと振り返った。
「あぁっっ!! 死なねぇとしても、怪我ぐらいはすんだろ。校舎、ぶっ壊れてんじゃねぇか。魂も壊れんだろ」
安斎は澄まし顔で、こんなことを言う。
「おやおや、気づかれてしまいましたか」
本当に人でなしである。
「いやいや……」
右京は突っ込もうとしたが、
先手を打って、安斎は、
「うふふっ……」
と不敵に笑い、
「怪我はしませんよ」
平然と嘘をつき、人をだましても、何の罪悪感も感じない教師を。
右京はさすがに、すぐには信じなくなり、菫の方を見た。
「マジか?」
「怪我はしないけど……」
菫は下を見下ろして、
「地面にぶつかったら、痛いと思うよ」
親友の言葉を聞き、
右京は教師に恨めしげな視線を送る。
「あ~ん~ざ~い~~っ!! お前、どんだけ嘘つけば、気が済むんだって」
射殺されそうな、鋭い視線をモロともせず、安斎天使はしらっと。
「心配いりませんよ。地面に落ちる頃には、気絶してますから。少し、記憶がなくなるだけですよ」
「おう、そうだなーー」
一瞬、納得しかけて、右京ははっとした。
「ーーってっ! いやいや、痛みは残ってんだろ! 気ぃ取り戻した時、痛ぇだろ、それじゃ」
反論してきた生徒を、大人の余裕で、教師はかわす。
「向こうの世界に比べたら、大した痛みではありませんよ」
右京はすっと真顔に戻って、
「あぁ? 安斎も死んでこっちにきたのか? オレと一緒か?」
ちょっと親近感を覚えた生徒に、安斎は無慈悲な言葉を浴びせる。
「いいえ、私はこちらで生まれ、育ちましたよ。あちらの世界へ行ったことはありませんよ」
死というものが存在しない世界で育ったからこそ、安斎は残酷なほど、純粋であった。
右京は目を大きく見開き、
「あぁっ!? お前、何、適当言ってーー」
抗議しようとした生徒を遮って、安斎は真摯な眼差しで、
「ですから、知りたいんです。こちらの世界でも、人が気絶するのかどうかを」
「……そういう……ことか」
右京は心を打たれ、素直に納得した。
屋根の端に立って、元に戻った、ミニチュアの校舎を見つめる。
「…………」
死なねぇって、わかっててもよ。
落ちたら、痛ぇんだろ?
けどよ……?
沈んでゆく夕日の輝きを受けて。
遠く地平線が、綺麗なオレンジ色に染まっているのを眺め。
新しい世界の広さを感じる。
金がいんだろ? この世界だって。
誰にも頼れねぇんだ。
再び、はるか下にある、校舎を見下ろして。
これ、やったら……チップもらえんだ……。
けどよ……。
迷っている右京の背中に、安斎の無責任な発言が。
「それではこうしましょうか? 神崎君が地面にぶつかる寸前に、カンブラ君が助ける」
「えっ、僕?」
いきなり振られた菫は、珍しく驚いた顔をした。
「よし、菫、頼むぜ」
「えっ? 右京君まで……」
悪乗りしている教師と親友を交互に見つめ。
菫は戸惑った。
そんな、まともな生徒ーー菫に安斎はにっこり微笑む。
「出来ますよ、カンブラ君なら。たとえ、素早い行動が得意でなくても」
とてもーーいや、かなり引っかかる言葉を聞いた右京は、安斎の方へぱっと顔を向け、
「あぁっ!? ちょっと、待てーー」
安斎はそれを無視して、
「それでは、カンブラ君は地上近くで待機して下さい」
「……え~っと……」
躊躇する菫に、安斎は怖いくらいの笑顔で、
「先生からの指示です。生徒であるあなたは、速やかに従って下さい」
「……わかりました」
そう言うと、菫はぱっと姿を消した。
安斎に聞こえないよう、右京はぼそっと、
「パワハラだろ」
「何か言いましたか~?」
表情は満面の笑みだが、恐ろしいほどの殺気を右京は感じた。
それは、人の常識を超えた、すごみがあり。
右京は思わず、
「安斎、お前、幾つだよ?」
「うふふふっ……23歳という設定ですよ~」
「あぁ? 設定って何だよ?」
「この世界では、18歳以降は、自分の好きな年齢で止めることが出来るんです」
「……ってことは……本当は、何年生きてんだよ?」
安斎は空を見上げ、頭に人さし指を当てた。
「そうですね~~? ……もうずいぶん長いこと生きていますからね~~? ……ざっと、300億年ほどでしょうか?」
にっこり微笑んだ歴史の教師に、右京は、
「お前自身が、歴史なんじゃねぇか……」
「うふふふっ……」
安斎は微笑みを絶やさず、
「さぁ、お喋りはこの辺にして、そろそろ飛び降りていただきましょうか」
右京は手に汗を握りしめ、
「ちっと、心の準備すっから、待っててくれ」
「えぇ、構いませんよ」
安斎の返事を聞くと、右京は天を仰いで。
クリスチャンでもないのに、なぜか胸の前で十字を切った。
「…………」
大丈夫だって。
下には菫がいるって。
ちょっと、心配だけどーー
「うふふふっ……」
その時、少し離れた場所で浮かんでいたはずの。
安斎の声が、すぐ背後で聞こえた。
「……!?」
右京は振り向く間もなく、背中を押される感覚を覚え。
「うわっ!?」
気がつくと、足元には何もなく。
これから落ちてゆく寸前の、宙に浮いている状態。
そこへ、安斎の人でなしな言葉が浴びせられる。
「心の準備をされては困るんです。気絶する可能性が減ってしまいますからね」
右京は重力に引かれながら、ゆっくりと天使の顔をした悪魔の方へ振り返り、
「安斎、お前、今、オレのこと押しただろ?」
「えぇ」
教師は短く肯定し、さわやかな笑顔で、
「それでは、報告楽しみにしてますよ~~、アジュー《さよなら》~~」
安斎の笑顔が上へずれ。
ザーッと、右京は真っ逆さまに落ち出した。
「うわぁぁぁぁ~~~っ!」
自分から離れてゆく生徒を眺めながら、安斎は小さな声で、
「これで、出来るようになればよいのですが……」
恐怖のあまり、右京は固く目を閉じていた。
頭から落ちているのを感じる。
両耳には、ビューッと風を切る音だけが響く。
高い塔から落ちたためか。
なかなか、体は止まらず。
そのうち、恐怖心が少しずつ薄れていった。
そして、右京はそっと目を開け、気づくのだ。
「……あぁ? 遅くねぇか、落ちんの」
生きていた時とは違って。
右京の体は、ゆっくりと。
まるで、各階止まりのエレベーターのように、遅いスピードで落ちてゆく。
「……重力が少ねぇのか?」
下へ視線を向けると、少し離れたところで。
心配そうな顔をこちらへ向けている、菫を見つけた。
親友が浮かんでいる姿を思い浮かべ、右京は少しだけ微笑む。
「……飛べたら、気持ちいいんだろうなぁ」
そうしている間にも、みるみる地面が迫ってきて。
右京は頼みの綱の親友の名を呼んだ。
「菫っ!!」
占い師見習いは大きくうなずき、
「うんっ!」
かなり厳しい顔をして、
地面すれすれの位置で、右京の体を止めた。
逆さまになっている親友を、薫はくるっと反転させ。
地面にふんわり、ゆっくり下ろした。
地に足がついた安心感で、右京は大きく息を吐く。
「ふぅ~~、サンキュウな」
「……うん、よかった」
菫がほっとした顔を見せると。
右京は今感じた、新しい感覚を口にした。
「浮くって、こういうことなんだな……」
その言葉に、菫ははっとし。
何か考えがあるような教師がいる、塔のてっぺんを見上げた。
「もしかして……!」
「あぁ? 何だ? 菫」
右京に瞳をのぞきこまれ、
「えっ?」
安斎の意図に気づいた菫は、首を横に振り、
「……ううん、何でもないよ」
明らかに違和感を感じたが、右京はそれを見逃した。
「……おう、そうか」
「それじゃ、安斎先生のところへ戻ろう?」
「おう」
そして、親友ふたりは、夕暮れの中庭から姿を消した。
報告を聞かされた安斎は、残念そうな顔で、
「そうですか……。やはり、気絶はしないのかも知れませんね」
「なぁ? 安斎、ここって、地球と重力違ぇのか?」
右京からの質問に、安斎教師は、
「えぇ。15分の1ですよ」
「だからか」
合点がいった生徒に、安斎は訊く。
「他に何か感じたことはありましたか?」
屋根の縁で、階下を見下ろし。
菫に助けてもらった時のことを、右京は思い浮かべて、
「あ~っと……浮くって感覚がわかった気ぃすんぞ」
「そうですか」
相づちを打った安斎に、右京は戸惑い気味に、
「……で、チップはもらえんのか? あんまし、役に立たなかったけどよ」
心配している生徒を安心させるように、安斎天使はにっこり微笑み。
「えぇ、約束は約束です。結果はどうであれ」
ポケットから1枚のカードを取り出した。
なぜか、生徒ふたりに見せつけるように、顔の前に掲げる。
右京は不思議なそうな顔で、
「あぁ? チップって、コインじゃねぇのか?」
「えぇ、チャージ式のカードなんですよ」
「ふーん」
すんなり納得した右京の隣りで。
菫は首を傾げていた。
「あれ、それって……?」
「何だよ? 菫」
右京は菫を見るために、安斎から視線をそらした。
それを待っていましたとばかりに、安斎は言葉を発し、
「神崎君、こちらが報酬です。是非、受け取って下さいねぇ~」
人さし指と中指に挟んだ状態で、シュッと水平に投げた。
「あぁっ!?」
不意をつかれた右京が、安斎の方へ振り返ると。
自分に向かって、1枚のカードが手裏剣のように飛んでくるところだった。
手渡せばいいものを、投げてくる。
明らかにおかしい行動をする、300億年以上生きている教師ーー安斎は。
右京の手がギリギリに届くところをわざと狙って、カードを放っていた。
16歳の若者ーー右京はカードを取ろうとして、素早くジャンプ。
「よしっ!」
ぱしっとキャッチしたが。
体が後ろに傾いていることに気づいた。
「あぁっっ!?」
「うふふふっ……」
安斎が怪しく微笑んで、右京はやっと気づいた。
天使の仮面をかぶった悪魔の、策であったことを。
「安斎、お前っ!! わざとーー」
「これが最後のチャンスです」
右京は自分の足が、屋根の縁でツルッと滑ったのを感じた。
「うわっ! ……チャンスって、何のだよ?」
それには答えず、安斎はさわやかに、右手を振った。
「アジュ~~!」
「右京君っ!?」
菫が手を伸ばし、
「菫っ!」
右京は親友の手をつかもうとしたが。
指先が触れただけで、無残にもつかめなかった。
誰も助けてくれない地面へ向かって、落ちてゆく。
「うわぁぁぁぁ~~~~っ!!!!」
「右京君~~~っ!!!!」
菫の悲鳴にも似た声が、夕暮れの風景に響き渡った。
飛べる者同士ーーふたりきりになった、塔のてっぺんで。
安斎は静かに口を開く。
「これでダメなら、彼は一生、出来ないかも知れませんね」
オレンジ色に染まる、安斎の端正な顔を。
菫はじっと見つめた。
「……やっぱり、そういうことたっだんですね?」
「えぇ」
静かに肯定した安斎の表情は、人を導く教師のものだった。
いくら不意をつかれたとはいえ。
落ちてゆくのは2回目。
目を閉じることなく。
右京は風のビューッという音を楽しんでいた。
飛びてぇな、オレも。
浮くって、気持ちいいんだな。
そう思った時、落ちる速度が少しだけ遅くなった。
「あぁ? もしかして……」
何かに気づいた右京は、迫ってくる地面を凝視して。
心の中で、唱えるように言う。
浮きてぇんだ。
オレ、飛びてぇんだ。
落ちてゆく速度は、相変わらず変わらない。
綺麗に染まる夕暮れの空を見上げ、
「あ~っと……これじゃねぇんだな」
再び、地面を見つめて。
気持ちを入れ替え、違う視点で考える。
飛べる。
オレも飛べるんだ。
ふっと、まるで背中に大きな羽が生えたように。
空中で制止した。
「おうっ! やった、飛べたじゃんか、オレ!!」
ガッツポーズをして。
高速で、上空へ上がってゆく。
「うほっ! すげぇ、オレ、飛んでんぞっ!」
体中で喜びながら、右京はぐんぐん塔を登ってゆく。
「すげぇ~、マジで飛んでるっ!」
あっという間に、塔のてっぺんへ戻ってきた右京を見つけて。
菫と安斎は、笑顔を見せた。
「おかえり、右京君」
「うふふふっ……」
彼らと同じ高さでぴたっと止まった右京は、ふたりの意図を一瞬にして読み取り、
「サンキュウな、安斎、菫。お前らのお陰で、飛べるようになったぜ」
菫はすうっと右京の方へ、近寄り、
「よかったね」
「おうっ!」
喜び合っている生徒ふたりを見つめ。
安斎は珍しく、教師らしいことを口にした。
「うふふっ、きっと出来ると思っていましたよ、神崎君なら」
そう言って、もう1枚カードを取り出し、
「こちらが、チップです」
右京は受け取りながら、既にもらっていたカードを見つめた。
「あぁ、チップ?」
「うふふふっ。そちらは、先ほど、ハウゼン先生から、拝借してきたもので、寮のカードキーです」
次から次へと策を仕掛けてくる安斎に。
右京はいぶかしげな視線を送った。
「あぁ? 拝借って、お前、勝手に持ってきただろ?」
安斎はゆっくりと首を横に振り、
「いいえ、きちんと断ってきましたよ。少々、勘違いされていたみたいですが……」
「……だろうな、ボケてっからなぁ」
ボケボケなウェスタンガールを思い浮かべ、右京はニヤニヤした。
どんなやり取りが行われたのか、気になって、
「で、安斎は、何つって借りたんだよ?」
「私は『神崎君の寮のカードキーを貸していただけませんか?』と訊きましたよ」
「で、ハウゼン、何つった?」
歴史教師は、上品に微笑んで、
「うふふ。『あぁ~、髪飾りですね』とおしゃって。カードキーを渡して下さいましたよ」
ここにいない、担任教師ーーハウゼンに向かって、右京はきっちり突っ込んだ。
「いやいや、オレの名前、『かんざし』に聞き間違えんなって! つかっ、何で、渡してんだよっ!! 言ってることとやってること、めちゃくちゃじゃねぇか」
用の済んだ安斎は、
「それでは、私は先に戻りますよ。まだ、仕事が残っていますから」
そう言って、ぱっと姿を消した。
「じゃあ、僕たちも帰ろうか」
菫は右手を差し出したが。
右京はその手をつかまずに、
「このまま下に降りてぇんだ」
飛べるようになった親友の心を察して、菫は手を引っ込めた。
「じゃあ、一緒に降りよう」
ふたりはゆっくりと、地上へ降り始める。
右京は両腕を頭の後ろへ回して。
寝転がった状態で、降りてゆく。
オレンジ色に染まる、綺麗な空を視界いっぱいに映して。
ぽつりと言う。
「……綺麗だな」
真っ直ぐ立ったままの格好の菫も、空を見上げ、
「僕も、この時間帯は好きだよ」
「あっちとは全然違ぇ。こんな綺麗な世界があんだな」
右京の瞳は少しだけ潤んでいた。
それは、悲しみや淋しさから来るものではなく。
本当に美しいもの、尊きものに出会った時の感動の涙だった。
小さい頃から見慣れた空に、感動を覚えている親友。
自分とは違う感覚を持っている右京を、菫は素直に受け入れ、
「……そうなんだね」
ただ、相づちを打った。
こんなシリアスなシーンで、右京のお腹はまたグーッと鳴る。
「なぁ? 菫、飯食いにいかねぇか? おごるからよ」
菫のブルーグレーの瞳は、なぜか落ちつきなく、あちこち泳ぎ始めた。
「……えっと~……」
右京はぱっと起き上がって、
「おう? デートかっ!?」
「……今日は違うけど……」
明後日の方向を見ながら答えた菫を気にしつつ。
右京は話しを続ける。
「彼女いんのかよ?」
「うん、いるよ」
そこでやっと、菫は右京の目を見た。
「すげぇな」
「えっ? いる人がほとんどだけど……」
右京は少しだけ、ビュッと上へ飛び上がり。
「あぁっ!? マジかっ!? どんだけ、ラブラブなんだよ」
「向こうじゃ違ったの?」
菫に顔をのぞきこまれて、右京は戸惑い顔を見せた。
「……あ~っと、違ぇな……。いねぇやつの方が、はるかに多かった」
「不思議なところだね」
価値観の違いを、菫が口にすると。
ふたりはぴたっと地面へ到着した。
「それじゃ、寮までのバス停に案内するね」
「おう、サンキュウ」
夕日に照らし出された、細い影がふたつ。
とうに下校時刻を過ぎているためか。
正門近くのバス停には、右京と菫以外。
生徒は誰もいなかった。
バスが坂道を上ってくるのが見えると。
菫はなぜか、ソワソワし始めた。
右京の瞳をじっと見つめ、こんなことを言う。
「右京君、ご飯食べるなら、寮に行ってからの方がいいよ」
「あぁ?」
どっからどう見ても、不自然な言動をする菫。
右京は不思議そうな顔で、見つめ返した。
菫は難しい顔で、
「えっと……あっ、そうだ!」
一生懸命、言葉を探した占い師見習いは、
「寮には色んなメニューがあるから、右京君が食べたいものもきっとあると思うよ。だから、真っ直ぐ寮にーー」
必死な様子の親友に、右京は優しく微笑んだ。
「真っ直ぐ寮に帰るって、だから、心配すんなって」
「……あぁ、うん。よかった……」
菫がほっと胸をなで下ろすと、バスのドアがパタンと開いた。
右京はさっと乗り込んで、右手を挙げる。
「じゃあ、明日な」
「うん、またね」
菫がそう言うと、ドアは閉まり。
滑るようにバスは、走り出した。
運転手のトラ以外誰もいない。
貸し切り状態の車内を移動しようとして、後ろへ振り返り。
遠ざかってゆくバス停を見ると、菫の姿はもうそこにはなかった。
右京はつり革を次々に変え、移動しながら、首を傾げる。
「あいつ、何、急いでんだ?」
最後部の座席、その中央にどさっと腰を下ろした。
バスは小高い丘を、快適に登ってゆく。
右京は背もたれにもたれかかり、木々の間に見え隠れする夕日を眺めていた。
色々あったな、今日は。
死んじまったのは、驚いたけどよ。
幸福感に浸りながら、軽く目を閉じた。
友達も出来たし。
空も飛べるようにもなったし。
いいことばっかだな、この世界って。
20分ほどバスに揺られていたが、不意に停車した。
運転手が振り返る。
「神崎君、到着だよ」
ぱっと立ち上がって、右京は、
「おう、サンキュウな」
開かれたドアから、一歩地面へ足を降ろした新入生は。
建物を見て、驚きの声を上げた。
「あぁっ!?」
運転手の方へ振り返って、
「ここ、ホテルだろ!」
「この道5千年、道は間違えないよ」
ベテラン運転手から、右京は再び建物の方へ顔を戻した。
彼の目の前には、高級ホテル顔負けの、立派な建物があった。
バスはブーッと音を立てて、走り去ってゆく。
右京はしばらく、建物に圧倒されていた。
空へ向かって、巨大な円柱の、シャンデリアが輝いていた。
星が瞬き始めた夜空をバックに。
「すげぇ~」
本物のプラネタリュームを。
右京は上空を見上げたまま、ぐるーっと360度見渡す。
「……マジで綺麗だな」
そこで、右京は親友ーー菫の言葉を思い出した。
「おっと! 真っ直ぐ帰るって約束したかんな」
大きなガラス張りの扉の中からは、穏やかな光が漏れている。
ホテルの正面玄関と間違えるような、入り口に向かって右京は歩き出した。
もう少しで、到着というところで。
すうっと、扉の前に突如誰かが姿を現した。
その人の格好を見て、
あぁ?
あれって、ベルボーイか?
タキシードに身を包み、背筋をピンと伸ばし。
こちらに向かって、微笑んでいる、その人の顔を見て。
右京は少し笑った。
「っつか、ベルドッグだろ」
なぜ、彼がそう言ったのかというと。
白地に茶色と黒のぶち模様が付いた、犬族だったから。
その犬が、丁寧に頭を下げる。
「神崎 右京様ですね? お待ちしておりました」
「おう」
犬は胸に手を当て、
「わたくしは、ここの管理を任されております。ジュリアーナ プルミエと申します。以後、お見知り置きを」
礼儀正しく頭を下げられたため、右京も居住まいを正して。
「お、おう……よろしく」
ペコリと頭を下げた。
プルミエは上品に微笑んで、
「お荷物はござませんね?」
「おう、身ぃひとつで来たっ!」
右京が調子よく答えると。
プルミエは自動ドアを開け、手で軽く止め、
「さぁ、どうぞ」
「おう、サンキュウな」
二重張りになっている、正面玄関を抜け。
突如、目の前に広がった光景に、右京は思わず立ち止まった。
「これって……」
建物の中のはずなのに。
桜並木がどこまでも続いており。
穏やかな春風に、桜の花びらが舞っていた。




