2 一人と一人
同盟(?)を結んでから早くも一週間が経った。
「仲良くしてくれとは言ったけど、やっぱり何もないと関わりようがないんだよな……」
ホームルーム前の教室、まだ生徒もまばらな中、裕一はぼやいた。
確かにそうだ。裕一は用もなく話しかける方ではないし、澄玲も教室では静かに過ごしているため、お互い何の口実もなければ会話することさえない。
故に、この一週間は何もなかった。起こりようがなかった。言葉を交わしたのは、初日の『お、おはよう』『……おはよ』という素っ気ない挨拶のみである。
「まぁ、別に期待なんてしてないからいいか」
裕一は誰に言うでもなく一人呟いて、教科書をカバンに詰める。
――ツンツン
裕一の脇腹をこそばゆい感覚通りが抜ける。
「ん?」
腕を上げて脇越しに後ろを覗くと、何やら不機嫌そうな顔をした少女が一人。
「日向君、私図書委員なんです」
唐突に澄玲の口から発せられた言葉に裕一は戸惑った。
「えっと、放課後の当番か? 頑張れ」
「自分のことじゃないと先生の話も聞いてないんですね……」
どうやら裕一の知らないところで何やら澄玲にあったようだ。
「もしかして俺、何か頼まれてたか?」
裕一は身に覚えがなく、頭上にクエスチョンマークをいくつも浮かべて首を傾げた。
「はぁ……もういいです。
ただ単に図書委員で今日の放課後、というか今から書庫整理があるだけです」
澄玲は、この後の重労働ともいえる書庫整理のことを考えて憂鬱になっているようだった。
「そうか、頑張れ」
「はいはい、言われなくても頑張りますよ」
そう言うと澄玲はくるりと背を向けて教室を出て行った。
「……今のはさすがの俺でもわかった。
一人だと大変だから誰かに手伝ってもらおうかと思ったが、声をかけられるほど仲のいい友達もいなくて仕方なく俺を頼ってきた、ってところか」
部活やバイト、遊びなどでほとんどの生徒が退室した教室で一人推測した。
「帰って何をするでもないし、手伝ってやるか」
裕一は先日のお礼も兼ねて澄玲の書庫整理を手伝うべく図書室へ向かった。
「って、図書室どこだよ……」
早速問題が発生したようだった。
その後裕一は職員室まで行き、校内案内図を確認してから速足で図書室へと向かった。
「ここか」
想像していたよりもかなり新しい扉だった。
裕一の想像としては、もっと古くて歴史を感じさせてくれるような扉が良かったようだ。
「とりあえず入るか。失礼します」
扉を抜け、中の様子を見渡す。
「おぉ……思ってたよりもきれいで大きいな」
本棚は全て同じ焦げ茶色で統一され、裕一の身長よりも高い二メートル弱ほどもある。その本棚にびっしり所せましとばかりに本が差し込まれている。
テレビで見るような見上げるほどの高さの本棚がある大図書館ではないが、裕一の通う高校の図書館もそこそこの広さだ。
教室二つ分の一階に、階段を上った中二階がある。
と、その中二階へ上がる階段に見知った姿を発見した。
「きのしたさ……あんなにたくさんの本を抱えて階段上がったら落ちるぞ?」
裕一は澄玲のその姿に若干の呆れを感じながらも手伝いに向かう。
「ぐうぅぅ、おも、いいぃぃ」
「木下さん、手伝おうか?」
裕一が不意に声をかけたことにより、澄玲は思わず振り返った。
本を抱えている体全体で。
「ふえぇぇぇぇ、日向く⁉ きゃああぁぁぁぁ」
ただでさえ不安定だった本の山が崩れ去り、本と一緒に澄玲がバランスを崩し、裕一めがけて落ちてくる。
「ちょ、おまっ⁉」
――ドサドサドサ
辺り一面に幾冊もの本が散らばる。
「木下さん、大丈夫?」
「は、はい……」
間一髪、澄玲を胸に抱きとめる形で落下を防ぐことができた。
「あの、ありがとう……ございます」
「い、いや、急に声かけて悪かった」
気が付くと裕一の顔が目の前にあり、澄玲は恥ずかしくなって思わず体を突き放した。
「ほ、本を片づけないと‼」
澄玲は取り繕うように床に落ちた本を拾い始める。
「さっきは気づかなくてごめん、一人だと大変だろうから手伝おうと思って」
「いえ、助かります。ありがとうございます」
澄玲がフッと微笑む。
やっと二人はいつも通りに戻れたようだ。
「それにしても、突然、しかも階段で話しかけるなんて非常識なんじゃないですか?」
「抱えてる本が重そうだったから」
「それならもっと早く来てください。
……さっきだって遠回しにお手伝いをお願いしていたんですから」
ぼそりと付け加えた本音は、本人は聞かれていないと思っていたが、裕一の耳にはしっかり届いていた。
(やっぱり手伝ってほしかったんだな)
「どうせ帰ってもやることないから、どうせなら手伝おうと思ってさ。
図書室は来たことなかったから興味あるしな」
「そうですか……ありがとうございます。
それなら、早速で悪いんですけどこの本を運ぶの手伝ってもらってもいいですか?」
澄玲は、先ほど落としてしまった本を拾い終え、山を三分の一程度を裕一に差し出した。
「無理するなって」
裕一はそれを受け取らず、もう片方の残り三分の二を手に取った。
「え、それじゃ私が――」
「いいんだよ、こういう時は男に力仕事は任せとけって。
俺が運んで、木下さんがどこにしまえばいいか教えてくれればその方が早いだろ?」
澄玲に有無を言わせずに本を運び始めた。
「あの、日向君」
「いいんだよ、任せろって」
「違うの、その本こっち……」
「……ごめん」
裕一は空回りしているようだ……
「でも、さっきは中二階の方に運ぼうとしてたよね?」
「それは……ちょっと横着して、こっちの少ない本を先にしまっちゃおうと思ったので」
澄玲は自分の腕に持った本を軽く持ち上げて示した。
「こっちはミステリー小説で固めて置いてあるんです。
日向君に運んでもらう方は、歴史書なので向こうに持って行ってください」
「持っていったら五十音順に適当に差していいのか?」
普段図書館を利用しない裕一は本の並べ方なんて五十音しか知らない。
「五十音以外にも並べる条件があったりするので、棚の近くの机に置いておいてください。私が一緒に教えますから」
「わかった、とりあえず運んでおく」
同じ図書室内なので、大した時間もかからずに目的の机に運び終える。
「これを女の子一人でやるとなると、かなりの重労働だよな……」
裕一は無意識に、中二階で本棚に本をしまう澄玲を眺めた。
澄玲は大人しくて地味なイメージが強いが、周囲からの脚光を浴びていないだけで、かなりのプロポーションの持ち主だ。
とても綺麗な黒くて長い髪、大きくはないが貧相とは言わない乳房、胸との差を強調するかのようにスッと締まった腰回り、長くはないが細くスラリとした脚。
それに付け加えて、しっかりと着こなした制服は彼女の真面目な性格を映し出している。
魅力を秘めていながらも周囲に知られていないその姿は、秘境にひっそりと咲く一輪の花だ。
魅力が知れ渡らない原因の一つに、澄玲の大人しすぎる性格と長い髪で顔を隠してしまっていることがしばしばあるからだろう。
「今までクラスメイトのことなんて気に留めたことなんてなかったんだけど……」
そう呟きながらも、裕一は澄玲の姿を目で追い続けた。
「やっぱり、この間の公園で……」
以前の公園で出会う前までのことを考えると、彼女は口数の多くない上に目立たない生徒のはずだ。
それも、席替えで後ろの席になっても印象に残らないほどに。
「木下さんの本来あるべき姿はどっちなんだろう……
教室での物静かな時なのか、それとも――」
「日向君、こっちは終わったよ」
今みたいに微笑んでいる姿なのか……
裕一は呟きそうになった言葉を飲み込んだ。
「あ、あぁ、お疲れ様。次はこっちだな」
先ほどのミステリー小説よりも二倍ほどの量がある歴史書を横目に裕一が言う。
「他の本と違って、歴史書は人物ごとに分けたり、出版社ごとに分けたりバラバラだから大変なんですよ……」
既に棚に刺さっている本を見ると、なるほど、誰でも名前を聞いたことのあるような様々な出版社から数多く本が出ている人物はその人物のみでまとめられ、逆にマイナーな人物は、一冊しか出ていない人物や、さらには複数の小説家を一冊にまとめて紹介した本もあるようだ。
「これはなかなか骨が折れそうだな……」
「そんなことはないですよ? 図書委員会顧問の先生が本の並べ方をメモしてくださったので、それを見ながら並べるだけですから」
裕一が思っていたよりもかなり楽に終わりそうだ。
「でも、まだあそこの段ボール二つ分はあるので……」
チラリと澄玲が示した場所を振り返ると、六十センチ四方ほどの段ボールが二つ置かれていた。
「どうりで棚が何段か空だったのか」
これはやはり一人ではかなり大変だ。裕一が手伝いに来なければ、澄玲はこれを一人でこなさなければならなかったのだから。
「俺が棚に本を差していくから、並べ方を教えてくれないか?」
「あの、それだと日向君だけが――」
「いいから、力仕事は男に任せて」
裕一は澄玲を強引に押し切ると、机に置いていた本を手に取り、本棚の前に立つ。
「この茶色い背表紙の徳川家康の本はどこなんだ?」
「それは、上から二段目に家康をまとめるのでそこに差してください」
手に持った本を澄玲の指示で棚に差し込んでいく。
「この青い源義経は?」
「義経は頼朝の隣にまとめてください」
徐々に棚が埋まっていく。
「えぇっと……んん?」
「日向君? どうしましたか?」
「いや、人物名じゃなくて別のタイトルが書いてあるからさ」
裕一は澄玲に一冊の本を差し出した。
「『明治に名を刻んだ小説家』ですか」
澄玲は手に持った本とメモを交互に見て、数十秒後に本を返してきた。
「この本は一人をピックアップしたものではないですし、出版社もこの一冊だけですから端にあるその他のところに差してください」
無事に人物不明の本も棚に納めることができ、さらに本棚は埋まった。
その後二人はもくもくと手を動かし、最終下校時刻の三十分前に片づけることができた。
「はあぁ~、終わった」
裕一は酷使して重くなった腕をだらりとぶら下げながら椅子にドカリと座り込んだ。
「手伝わせちゃってごめんなさい。でも、すごく助かりました」
澄玲も机を挟んだ向かい側にそっと腰を下ろした。
「日向君、この後って何かありますか?」
澄玲が、あくまでも平静を装って、しかし少し急いて上ずった声で問いかける。
「いや、結構疲れたしそのまま帰るよ」
裕一は、椅子に飲まれるように座ったまま答えた。
「……そうですか。
それじゃあ、気を付けて帰ってくださいね。疲れて注意が散漫になっていると思うのでうっかり車にはねられたりとかしないでくださいよ?」
澄玲の声音が、少しばかり変わったような気がしたが疲れ切った裕一は気が付かなかったようだ。
「木下さんも気を付けて帰ってね。
それじゃ、また明日」
裕一は名残惜しむこともなく、帰宅していった。
裕一の去った図書室で、澄玲は一人ため息を吐く。
「はぁ……少し強引にお願いしちゃったから、お礼にお茶でもと思ったのに。
やっぱり無関心なのかな……」
澄玲は、椅子に座ったまま頭を抱えてしばし唸った。
「うぅぅぅう……お礼を押し付けるのは良くないけどすっごく腹が立つ!
人の厚意に気が付かないのって、さすがにどうかと思うんだけど。親切にしてもらったお礼を、何も聞かずに断られると逆に頭にくるのね……
私は気を付けるようにしないと」
澄玲はそう独りで呟きながら、帰宅するために荷物をまとめる。
「あれ、そういえば私、今日のお礼がしたいからって一言も日向君に言ってなかった。
は、恥ずかしい……意図も伝えずに一人で憤りを覚えているなんて」
一人で怒りで顔を赤くし、一人で羞恥心で顔を赤くする。
傍から見て澄玲は、一人芸のようでさぞ面白かっただろう。
「はぁ……私のバカ、明日またお礼を言いなおそうかな」
カバンを肩にかけ、澄玲も裕一に遅れること十分、図書室を後にした。
***
翌朝、いつも通りの朝。裕一も澄玲も、いつもとまるで変わらない朝を迎え、いつも通りの通学路を歩いて学校へ向かい、そして教室へと入る。
今日もまた、日向裕一の方が木下澄玲よりも早く登校し、席に着席している。
何をするでもなくボンヤリと窓の外を眺めている姿で。
「日向君、おはようございます」
周囲に気を配らない裕一は、名前を呼び掛けてから出ないと、自分が話しかけられていることに気が付かない。
ボッチは筋金入りだ。
「木下さん、おはよう。昨日はごめんね、いつもあんまり力仕事しないからすごく疲れてさ……」
自嘲するかのように裕一が笑う。
「いえ、昨日はありがとうございました。おかげでとても助かりました。それでなんですけど今日の放課後って何か予定はありますか?」
昨日と同じく、本人は平静を装っているつもりで、切りした。
「うん? いや、知っての通り一緒に出掛けるような友人は居ないからな。
今日も今日とてフリーだよ」
「そ、そうですか……
それなら、今日の放課後少しお時間いただいてもいいですか?
昨日のお礼がしたいのでお茶をごちそうさせてください」
澄玲の中でもかなり勇気を出しての誘いだ。裕一もここまで言えば断りもしないだろう。
「いや、そんなにお礼を言われるほどのことじゃないから。
そこまでしてもらわなくても構わないよ」
裕一は、澄玲の内心も知らずにその誘いをあっさりと断った。
「え、あ……そ、そう……ですか。
そうですよね、仲良くもないのにこんな誘いされても迷惑ですよね……
ごめんなさい、今のは聞かなかったことにしてください」
澄玲は、裕一に取りつく島もなく断られ、ネガティブに入ってしまったようだ。
「えぇっと、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「いえ、いいんです。話し相手ができて嬉しくて、少々舞い上がっていたので」
どうやら完全に落ち込んでしまったようだ。
「俺の話、聞いてる?」
「聞いてないです。しばらくそっとしておいてください」
澄玲は裕一の話を聞かずに、ふさぎ込んでしまった。
裕一も仕方なく正面を向く。
(おいおい、これどうすればいいんだ? 木下さんはお礼だって言ってたから、俺はお礼をされるようなことはしてないからって断っただけだぞ。
断っちゃダメだったのか? まだ友達ともいえないからそんなに簡単に誘いに乗るべきじゃないと思ったんだが……)
裕一は、ホームルームと授業中、ひたすら頭を悩ませ続けた。
「……坊弁慶と……丸が出会い、た……とされる……の名前は何ですか?」
案の定、授業の内容はほとんど頭の中に入っていないようだ。
「では、日向君、答えてください」
ほぼ話を聞いていなかった裕一は、名前を呼ばれたことによってハッとして顔を上げた。
「え、あ、あぁ……五条大橋ですかね?」
とっさに黒板と周囲の生徒の教科書やノートの状況を把握し、正解を導き出したようだ。
「そうです、五条大橋ですね」
教師は、特に気に留めることなく授業をそのまま続けた。
勉学には頭が回るのだから、決して頭が悪いわけではないのが逆に残念だ。
「……はぁ、危なかった」
「朝からボーっとしすぎじゃないですか? こっちに注目されたらいやなのでしっかりしてくださいね」
後ろの席の澄玲から、教師に聞こえないほどの声量で、叱責が飛ぶ。
「ごめん、ちょっと考えごとしてて。
あ……あのさ、放課後少し時間もらえるかな?」
何気なさを装いながら、裕一は澄玲に今朝の謝罪のための時間をもらえるか聞く。
「別に構わないですけど……私はあなたと違って暇じゃないので、長居はしませんからね」
「ありがとう、よろしく頼む」
裕一はどうにか約束を取りつけたが、澄玲はかなりご立腹な模様だ。
その後、裕一は高校生活で初めて落ち着かない昼休みを過ごした。
そして、数時間後。待望の放課後となる。
二人はお互いに口火を切れず、徐々に減っていくクラスメイトの姿をただひたすら眺めていた。
「さて……なんと話しかけたものか」
「日向君、いつまで待たせるつもりですか? 何もないなら私も帰らせてもらいたいのですが?」
しびれを切らした澄玲が先に口を開いた。
やはり今朝の怒りがまだ収まっていないようで、言葉の端々にトゲがある。
「ごめん……いや、今のごめんは待たせてごめんって意味で。
今朝は本当に申し訳ないことをしたと思ってる。せっかく木下さんが厚意で誘ってくれたのを無下にして……」
「はぁ、そのことはもういいです。謝らないでください、思い出しただけで恥ずかしいので」
「あのさ、まだ気が変わってなければ、俺と一緒にお茶してもらってもいいかな? 今までは誰とも関わってこなかったけど、いざこうやって人とかかわって話していると、もっと相手のことを知りたいと思ったんだ」
自分の羞恥心を押し殺し、裕一は続ける。
「だから、きっかけはどうあれ木下さんと話すようになってから、君のことをもっと知りたいと思うようになった。
嫌なら断ってくれて構わないから」
「そんな風に言われたら断れないじゃないですか……
わ、私だってあんまり人と話すことが無かったので、日向君の気持ちわかりますから」
澄玲は、先ほどまでの怒りとふと沸いた羞恥心で頬は真っ赤だった。
そんな赤い顔を見られるのが恥ずかしくて、顔を背けて続けた。
「ほ、ほら、早く行きましょう! 時間は有限なんですから!」
「自分で言っておいてあれなんだけど、いいのか?」
「もともとは私の方から誘ったんですから、ダメなわけないじゃないですか」
人付き合いの苦手な二人だが、そこは似た者同士。切っても切れない関係が既に成り立ちつつある。
「そうか、それは良かった。ゆっくり話をできるお店は知らないんだけど、木下さんが紹介してくれないかな……?」
「ふふっ、大丈夫です。日向君がそんなお店知ってるわけがないのは私でも想像できるので、今日はご案内しますよ」
喧嘩をした後だというのに平常運行な裕一の姿を見て、澄玲は思わず笑みをこぼした。
「ほら、早くしないと暗くなってしまいますよ?」
「あ、あぁ。すまん、ずっとどう謝るか考えてたからまだ支度が出来てないんだ。
悪いけど、先に下駄箱で待っててくれないか?」
澄玲は、わかりました、というと先に教室を出て行った。
「……はぁ、良かった。あのままずっと怒ってたらどうしようかと思った」
残された裕一は、カバンに荷物を詰めながら一人溢した。
「それにしても、人付き合いというのもなかなか難しいな。一つ間違えれば人間関係が危うくなるものなのか?」
深いつながりがあれば、易々と縁が切れるものでもない。しかし、他人とかかわることを積極的にしてこなかった裕一からは想像できなかった。
「木下さんも待ってるし急がないと」
手早く荷物を詰め、遅れること五分。裕一は下駄箱へと向かった。
***
裕一は、下駄箱で待っていた澄玲と合流し、帰路に着く。
「それで、今から向かう店はどんなところなんだ?」
「普通の喫茶店ですよ。あまり洒落たお店に行っても私たちでは気後れしてしまうと思いましたので。日向君も静かなお店の方が好きですよね?」
この時、澄玲自身は気づいていないが、“好きですよね”という表現をした。恐らく、この数日間で裕一の好みを徐々に把握してきたのだろう。
「そうだな。飲食をするのに騒がしいと落ち着かないからな」
二人は今、話しながら並んで歩いているが、お互いにお互いが歩みの速度を意識して合わせようとしているため、逆に歩調が全くあっていない。
傍目に見るとおかしくて笑ってしまいそうだ。
「……誰かと並んで道を歩くのってなんだかとても新鮮です」
ふと澄玲がそんなことを言った。
「そうだな……俺も誰かと連れ添って歩くことはほとんどなかったから。
確かに新鮮だ」
裕一も、隣で自分に歩調を合わせて歩く澄玲を横目に答える。二人とも兄弟姉妹はなく、幼少期もあまり他人と戯れて何かをすることを好まなかった結果だ。
「……」
「……」
そして、何を話せばいいのかも分からず、そのうちに無言となってただひたすら目的地を目指す。
「……」
「あ、日向君。止まってください」
「え?」
惰性で歩いていた裕一は、目的の店を通り過ぎてしまい澄玲に静止を促される。
「ここですよ」
澄玲が指し示した。店というには随分とシンプルで、言われなければ普通の民家だと思い、素通りしてしまいそうだ。
焦げ茶色の壁には飾りはなく、はめ込まれた窓ガラスが澄んだようにきれいに磨かれている。扉も壁と同色の木製で、窓には『嶋田喫茶』とだけ書かれたこれまたシンプルな白いプラスチック製のプレートが下げられていた。
「外装も落ち着いてるし、俺でも入りやすそうなお店で安心したよ」
裕一が率直な感想をこぼすと、澄玲は嬉しそうに答えた。
「それは良かったです。私もたまにここでコーヒーを飲みながら読書をするので。
さ、入りましょうか」
澄玲は扉を開けると、裕一に先に入るよう促す。
「あ、ああ……」
裕一は、恐る恐る扉を通り、店内へと入る。
「し、失礼します」
「日向君、ここは学校ではないですよ? 入店するのに挨拶は必要ですか?」
「そうだったな……」
澄玲に指摘され、裕一は苦笑いしながら入店した。
「いらっしゃいませ、只今のお時間はお客様の入りが緩やかですので、お好きな席をごゆっくりとご利用ください」
入店して早々に男性店員の挨拶があり、客入りの少ない店内を示した。
内装は、想像した通りの喫茶店だった。
机や椅子、カウンターは全て落ち着きのある茶色で統一されている。
個人用にカウンター席が五席、四人掛けのテーブル席が四席、対面の二人席が二席あり、そのうち四余人掛けのテーブル席が二席埋まっていて、カウンター席も二席埋まっていた。
天井から四つ、低速で回るファンがぶら下がっている。
老人が一人趣味で経営しているのかと思ったが、そんなこともなく、先ほどの店員もそうだが、若いアルバイト店員らしき人物も複数人いる。
「日向君、入り口で立ち止まっていると他のお客さんの迷惑になりますよ?」
裕一が店内の様子を眺めている隙に、澄玲は既に二人掛けの席に腰かけていた。
「こういったところはあんまり来ないから珍しくてな。
ついじっくり見ちゃって……」
裕一は澄玲の対面の席に陣取ると、言い訳を述べる。
「そうですよね、日向君は一緒にくるような友達いませんしね」
「いや、それって木下さんも同じだよね」
「いえ、私は一人でもいろいろなお店で飲食をしますので、この辺りの飲食店に関してはそれなりに詳しいつもりですよ?」
ドヤ顔で返す澄玲だが、一緒にくるような友達(’’’’’’’’’’)、という観点で見ると残念なことにどんぐりの背比べでしかない。
「そんなことよりも、何も頼まずに居座るのは良くないので、先に注文してしまいましょうか」
澄玲は唐突に切り替えると、メニューを渡しながら裕一に注文を促した。
「こういった場所だと、何をどんな形で頼むべきなんだ……?」
「なら、私がいつも頼むものを一緒に頼んでもいいですか?」
「それで頼むよ」
澄玲はメニューをしまうと、店員を呼ぶためのベルを鳴らす。
ベルと言っても、各席に設置されたリモコンのスイッチを押すだけだ。そうすると、店内にベルの音が鳴り響き、店員がモニターでどの机から呼ばれたのかを確認し、注文を取りに来る、という仕組みだ。このご時世あらゆる飲食店で採用されているシステムである。
「お待たせいたしました、ご注文をどうぞ」
メモを片手に店員が二人のいるテーブルへとやってくる。
「ブレンドコーヒーを二つ頂けますか?」
「かしこまりました、ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「はい」
「承りました」
店員は小さくお辞儀をすると、カウンターへと注文の伝達へ向かう。
「木下さん、ありがとう」
「いえ、気にしないでください。
日向君はあまり外食はされないのですか?」
「ファミレスぐらいなら行ったことはあるけど、喫茶店は無くて。
でも、注文の仕方は大して変わらないみたいだな」
「ス〇ーバックスじゃないんですから、変な暗号みたいな頼み方は無いですよ」
澄玲は、呆れたような、それでいて微笑ましいような苦笑をもらした。
「仕方ないだろう……さっきも言ったけど行く機会がなかったんだから」
特段気にした様子もなく裕一が呟く。
その後、二人は注文したコーヒーが来るまで無言となる。
「…………」
「…………」
(よく考えたら日向君と日常会話以外したことなかったな。どうしよう、話題がないよ……)
「あ、そうだ」
「ん、どうした?」
「改めて言わせてもらいますね。この前は図書館の蔵書整理を手伝ってくれてありがとうございます。
本来であれば先に言うべきでしたね、すみません……」
澄玲が先に口を開く。
「俺も暇だったら手伝っただけだし、気にしなくていいよ」
「で、でも、私が半ば強引にお願いしてしまっ――」
「お待たせいたしました、ブレンドコーヒーをお持ち致しました」
「――たので……」
澄玲が思わず声を大きくしてしまったタイミングで、運悪く注文したコーヒーが届き、澄玲の言葉は中途半端に途切れた。
硬直してしまった澄玲に変わり、裕一がコーヒーを受け取る。
「ありがとうございます」
「ご注文の品はお揃いですか?」
「はい、ありがとうございます」
使命を果たした店員は軽く会釈をすると、自分の職務を果たすべく厨房へ戻っていった。
「強引だったとは思ってない、俺としても木下さんが困ってったら助けてあげたいと思うから、これからも頼ってくれていいよ。
女の子に頼られるのも男冥利に尽きるというしね」
「あの、えと……ありがとう、ございます」
そして、また二人とも沈黙に戻る。
しかし、裕一はこの沈黙に心地よいものを感じた。クラスで騒がしい空間に比べて静かでとても落ち着く上に、気遣いも無用だからだ。
お互いに無言でコーヒーを啜り、時折カップを皿に置く音だけが響く。
「誰かと」
「どうしたんですか」
「いや、誰かとこうして、静かに落ち着いてコーヒーを飲んでるだけだけど、すごく有意義に思えてさ」
「そうですね、私もいつもは一人ですが、こうして誰かといるだけで違うものですね」
澄玲はそういいながら、手元にあるコーヒーカップを見ながら微笑んだ。
「今回はお礼ということで一緒に来ましたけど、また一緒に来てもらってもいいですか」
「そうだな、また誘ってくれると俺も嬉しいよ」
会話などほとんどしなかったが、二人はそのくらいの方が落ち着けて心地よいようだ。
二人はコーヒーを飲み干すと、支払いを済ませて店を後にした。
尚、支払いの時に、澄玲がお礼だからと全額出そうとして、裕一が自分で払うといった結果、レジ前で店員の前であるにも関わらずしばし揉めたのは言うまでもない。
「今日はごちそうさま」
結局必死な澄玲に根負けした裕一は、澄玲に支払いを全て任せた。思っていたよりも澄玲は頑固であったようだ。
「いいえ、今回は先日のお礼ですので、お気になさらず」
ここまで押し切られてしまうとさすがに澄玲の自己満足であるが、そこはツッコんではいけない。
「今日はもう暗いし、女の子一人だと危ないから近くまで送っていくよ」
「日向君、送り狼って言葉知ってます?」
「木下さんは俺のことをそういう目で見てたんだ……」
「冗談です、日向君はそんなことする人じゃないと思ってますから。それに私もこう見えてガードは硬いのでご心配なさらず」
裕一との関係に慣れてきたのか、澄玲は冗談をこぼず。
「はぁ、まさか木下さんがそんな冗談を言うとは思わなかったよ……
大丈夫、家まではいかないから安心して」
その後裕一は、何も話さずに澄玲を自宅付近まで送り、自分の帰路へ着く。
「誰かと喫茶店に入ったのなんて初めてだ。いや、喫茶店に入るのがそもそも初めてなんだけどな」
誰に話しかけるでもなく、独り言を漏らす。これは普段から一人でいる故についてしまった癖である。
「気を許して話せるような友人がいるのも悪くない、のかな……」
裕一はそんなことを考えながら帰宅した。
***
翌日、裕一はいつも通りの時間にいつもと同じく一人でしていた。
「それにしても、俺が女の子と喫茶店でコーヒーを飲んでるとか、我ながら想像できなくて笑えるな。
こういった出来事とは縁がない人生だと思っていたけど、わからないものだな」
まばらに登校する幾人かの同校の生徒を見ながら誰に言うでもなく呟く。
「相変わらず隣が寂しいですね」
ふと、小脇からからかうような声が響き、裕一は驚いて振り返った。
「っ⁉ いたのなら声をかけてくれないか……」
「一人でぶつぶつ言っていたので怖くて話しかけられなかったんです」
「悪かったな、話し相手がいないと、つい思ったことが口から漏れて独り言になるんだ」
何の気なしに裕一は笑う。
「え、あの……ごめんなさい?」
それを聞いて澄玲は申し訳なさそうな顔をして軽く頭を下げた。
「別に気にしてないよ。いつものことだし、昔からそうだったから。
今のこの日常に特に支障もないし、逆に気を遣う必要もなくて楽だとさえ思い始めたから」
「そうだったんですか……それなら、私は迷惑だったみたいですね」
突然歩みを止めた澄玲に、裕一は振り返りながら語る。
「迷惑だなんて思ってないよ、一人だったらわからないことや限界もある。
昨日の喫茶店もそうだけど木下さんに出会ってから貴重な体験をできていると思う。それこそ一人だったら今後の人生で一度もできないようなことも。
でも、隣で話を聞いてくれる人が一人いるだけで大きく変わったように思えるんだ。
こうして自分の気持ちを家族以外に話すなんて今までに一度もしたことなかったから」
澄玲を見ながら、澄玲よりもはるか遠くに語り掛けるように、裕一は呟いた。
「……私が隣にいても迷惑じゃないんですか?」
澄玲は、結果的には常に一人でいたもののそれは望んで、好きで一人になったわけではなく、内気でコミュニケーションがうまく取れなかっただけだった。
対人恐怖症でもなく、ただ自分から話しかけられなかっただけ、会話に混ざっていくことができなかっただけだった。
だから、割り切っていままで生きてきた裕一が少し眩しかった。
藁にもすがる思いで、きっかけのできた裕一に全力で、積極的に自分の元に引き留めようとしていた。