10. 魔獣
その狼はワルフと呼ばれる魔獣で、この世界における代表的なモンスターだ。
曰く、狡猾で残忍。曰く、素早く、唯純粋に魔獣として圧倒的強者である。曰く、ソレは肉食で、人里を襲うことが多々ある。それが、この狼型の魔獣、ワルフであった。
この世界において、人型の魔獣は存在せず、もし存在すればソレは種族として、知的生命体に分類される。ゴブリンは存在せず、オークや果てはアンデットといったテンプレートなモンスターは、いない。
ゴブリンはドワーフの亜種として、オークはヒトの先祖返りの獣人。アンデットは存在しない。
何故かと言うと、この世界の知的生命体の動力は、心臓ではなく‘‘魔核,,であり、魔獣にはそれが存在しないという決定的な特徴に基づいて分類されるからだ。魔核というのは、心臓とほぼ変わりない機能を持つが、循環させるものが違う。大気中に存在する魔力を取り込み、身体に巡らせる器官なのだ。勿論ヒト等が生きるには酸素も必要で、口から吸い込んだ魔力は、気道を通る際に分解され、酸素となる。そして、魔核の鼓動によって身体に巡らされるのだ。
ゴブリンモドキやオークモドキは魔核を保有している故、知的生命体とされている。
対し魔獣はというと、テンプレートに行くと魔核に代わる魔石を取り込んだ動物がモンスター化したものなどを思い浮かべるのではないだろうか。しかし、言った通り魔獣は魔核を保有していない。魔獣は神界戦争時代に神や魔王によって生み出された負の遺産。彼等は人工生物故に魔核を持っていない。というより、体内全てが魔核と言った方がより正確だろうか。
簡単に言うと、内臓が入っていない体内のスカスカの空洞に永続的に魔力を溜め込んでいる。一種の不老不死とも言える。勿論魔獣とて生物。寿命は無いが、深い傷を負えば死亡することになる。ただ、血液の成分が全て魔力で、出血多量死でも、どちらかと言えば魔力不足で死亡という事になる。
それはともかく、魔獣の最大の特徴は、魔力を全身に行き渡らせ身体能力を上昇させることができるという点にある。魔法は原則魔方陣と詠唱が必要だ。それは身体強化魔法も同様。しかし、魔獣は、身体強化を魔法としてではなく行うことができる。その時点で魔獣は圧倒的な優位に立っているのだ。
そして、そんな魔獣から今、
「走れぇええッ!」
「っ……!」
レインとアンナは全速力で逃走していた。レインとしては、格好良く女の子を背中に庇ってワルフと相対して見せたいところなのだが、既に戦うのは諦めた身。庇ったところまではまだ良いのかも知れないが、その後は間違いなくパクっとやられる。
そんな無様な死に方をするぐらいならいっそ逃げ出した方がマシだ。どちらにしても恥をかくならばせめて命だけでも拾える方に軍牌が上がるに決まっている。
のだが、
「此奴ら、足速過ぎだろ……!」
レインもアンナもかつて無い程の速度で走っており、レインは今なら駅伝やら何やらに出れば好成績を収めるだろうと思う。しかし、身体能力を強化できるワルフは更にその上を行くようで、一度も振り向かないで走っているレインの視界の端にたまに涎の糸を引いた鼻先が映るのだ。
レインたちは、ワルフが木陰から出て来たのを見た瞬間に逃げ出し、それより数秒遅れてワルフもレインたちを追いかけ始めたのだが、この逃走劇が開始されて20秒現在既に追い付かれそうとは一体どんな脚力なのだろうか。
「シーッシーッ!」
そんなことを頭の片隅でボンヤリと考えていると再びワルフが視界の端に現れる。今はお互いに全力疾走しているからどうにかなっているが、これでレインかアンナの何方かが少しでも走る速度を緩めたらその瞬間に、今地を駆けているワルフの前足の鋭い爪が背中に突き立てられ、服を引き裂くだろう。
それを理解しているので、二人とも速度は緩めない。アンナはレインの全力疾走にしっかり着いて来ているのだが、レインは時々話したりする余裕がまだあるのに対し、アンナは既に顔が青白くなって来ていて、恐らく肺活量が限界に達しているのだろう。
誰から見ても相当無理しているのが分かるので、レインは横目にアンナを見て「このままじゃ間違いなくアンナが殺られる」と、焦りの感情を抱く。魔獣の高スペックを理解しているにも関わらず、臆病風に吹かれて逃走を選んだのは自分であり、アンナがこのままワルフの手に掛かるのは、彼女とは付き合いが短いが少なくとも寝覚めが悪くなるのは目に見えていた。
一瞬の躊躇いの後、レインは覚悟を決める。男は度胸。その度胸がハリボテだろうが借り物だろうが、度胸は度胸だ。
「………ち、くしょうがァアアあッッツ!!」
故にレインは、走りながら腰に携えた鉈を引き抜き、振り向きざまに視界に映ったワルフの鼻面目掛けて振り上げた。ズッと鈍い感触がレインの手に伝わり、不意打ちの抵抗が成功、少なくとも全く無意味ではなかった、と不謹慎にも年の割に達観した表情の一端に笑みを刻む。
既に獲物を振るって戦うのは諦めて久しいが、初めて振るった獲物が鉈で、しかもまさかいきなりに実践だと言うのに、悪く無い手応えだ。
レインは身体が横に振られ、180度視界が動く中、少し目測を誤ったのかワルフの首から顎まで深くザックリと抉っているのを見て、一安心。目測は誤ったが、結果としては上々だ。これだけ深い傷ならば、追っ手の命は恐らく絶った。
「ーーおぶぅ!?」
内心ガッツポーズするレインだったが、直後木の葉が積もった大地に頭から着地し、深い口付けを交わすことになり、苦虫を噛み潰したような顔で、両手でガシィ!と地面を掴んで顔を上げた。
「ゲホッ、うぇ……口の中がじゃりじゃりする……ペッペッ!」
顔面着地した際に口に入った砂やら泥やられもしかしたら本当に噛み潰したかも知れない苦虫とかを吐き出し、少し後ずさって倒れているワルフを警戒する。ワルフの鋭い牙が覗く上顎と下顎の隙間からは、筋肉が弛緩して舌がダラリと垂れている。
その顎から生臭い血が溢れ出し、どう見ても致死量に達したとレインは判断したので、振り返って先を行った筈のアンナを見ると、彼女は丁度ガクッと膝を着いて倒れる所だった。
「お、おい大丈夫か!?」
即座に駆け寄ってアンナを抱き上げると、息をするのも困難な様子で、口を開けて必死に空気を吸い込もうとしている。顔色は非常に悪く、青を通り越して乳白色になっていた。
「ひゅ、かひゅー、あ、ゲホッ」
「無理するな、落ち着いて息を深く吸え」
奇妙な音を立てて呼吸し、数度それを繰り返してアンナは咽せる。余程無理して走ったのだろう。少量の血を吐き出し、荒い息を吐いていた。それでも何とかレインの声を聞いて深呼吸し、大体呼吸が安定したかと言うところでアンナはスッと眠るように意識を失った。
11歳のアンナがレインと同じ速度で走り続けるのは、酷く困難な話だ。火事場の馬鹿力という、ある種の限界突破が働きかけても、成長期のレインとの足の速さはギリギリ劣っているのである。それでも何とか付いてきたのだから、たった20秒でもアンナは気絶してしまったのだ。
「悪いな……無理させてよな。背負うか抱くかしてやれば良かったんだよな……いや、それ以前に最初っから彼奴と戦ってれば良い話か」
今更他に良案が浮かんでくるが、今となってはもう遅い。レインは袖で口元の血を拭ってやり、気絶したアンナを両手に抱いて立ち上がると、直ぐに移動を開始する。
鉈は振り抜いた際に手からスポッと抜けてしまい、茂みの奥に飛んで行ったがそれを取りに行く余裕など無い。直ぐにこのワルフの血の臭いを嗅ぎ付けて他の獣がやって来る。
その前に出来るだけ此処から離れておきたかった。
「「「グルルウウ」」」
少し進んだ先で三匹の魔獣がレインの行く手を阻むのを見て、もはや手遅れなのを悟ったが。
レインは表情を強張らせ、アンナをギュッときつく抱きしめ、前方の魔獣を刺激しないようにそろそろと後退する。チラとレインは後ろを確認するが、取り敢えず今は何もいない。ワルフの死骸が横たわっているだけで、よくありがちな前も後ろも行き止まりなんてことは無さそうである。
そのままジリジリと、レインは魔獣が歩を進める速度と同じくらいの速度を保ってワルフの死骸のを跨いでそろりそろりと後退していく。レインの予想だと、この魔獣たちが此処にやって来たのはこの血の臭いに誘われてのこと。ならば、彼らの興味の根源であるワルフの死骸を挟んで仕舞えば、期をてらって逃走を図れば恐らく助かると見ているのだ。
ーーしかし、やはりそう上手くは行かないのが、さすが異世界と言った所だろう。
「ーーッ!?」
魔獣たちがレインの狙い通りに死骸に喰い付いたのを双眸に収め、しかし焦らずにゆっくりと、食事中の魔獣たちから距離をとって行き、そろそろ頃合いかと、レインは踵を返してバッと駆け出すその横を、黒い暴風が風を叱咤しドンッと音がする程の衝撃を伴って、レインと擦れ違うように駆け抜けた。
その衝撃を正面から食らったレインは堪ったものでは無く、尻餅をついてしまった。腕に抱いたアンナに被害が及ばないように庇った所為もあって、どうやら尾骶骨を強打したレインは、苦悶の表情を浮かべて立ち上がる。
「ってぇな……何だ今の?」
そのまま走り出しても良かったのだが、どうにも嫌な予感がする。レインはその場で今の黒い影の正体を確かめようとして、絶句した。大地に多量の血を溢して倒れ臥す魔獣たちの上に、恐らく先程の黒い影の正体だろう、犬型の四足獣が覆い被さっていたのだ。
「何だ、この怪物は……!?」
黒い魔獣の足下には、まだ形が見て取れる三匹の魔獣の死骸と、ほぼ原型を保っていないもう一匹の魔獣の残骸が転がっている。その内三匹には見覚えがあり、もう一匹の残骸には心当たりがあった。
「あれは、さっき俺の足止めをしやがった三匹……?じゃあ、あのボロボロのは、俺が殺した奴……か?」
レインはその異様な光景を凝視し、その事実に辿り着く。位置的にも、レインと原型の無い魔獣の残骸を挟んだ向こう側に三匹の死骸があるので間違いはないだろう。ただ、何故先程までレインを追い詰めていた魔獣たちが今は物言わぬ骸と化しているのか。そちらの答えは恐らく見たまま。
「このデカイのが殺ったのかよ……!」
体長1メートル前後の獣四匹を跨ぐこの四足獣の後脚は太く引き締まっており、靭性も抜群だ。目で追うのも困難な速度でレインの横を走り抜けたことからもそれは分かる。前脚は内側にひん曲がったかぎ状の凶悪な爪が覗いており、その先端には赤い滴を垂らす新鮮な生肉が引っ掛かっている。状況を見たままだと言うなら、と言うより他に答えなど無いだろうが、三匹の魔獣はこの爪に引き裂かれるか、牙に噛み裂かれるかして命を奪われたのだろう。
しかしこの巨大な魔獣だが、何故か最も悲惨な状態の、レインによって命を奪われ、後続の三匹に喰い散らかされたワルフの死骸だけは全く手を出していないのだ。それどころか、むしろその死体に哀しみを含んだ様な目を向けている。
まぁ、それもそのはずだ。
レインは知らないことなのだが、この黒い魔獣はこの辺りの元締めにして一種族の王者ーー『クイーン・オブ・ワルフ』と呼ばれるワルフの派生個体にして、ワルフ内では最大の存在である。女王
の名を冠するこの巨大なワルフは、魔獣としてただ単純に強者であり、「見つかったら取り敢えず麻痺薬を服用しろ」などと言われる。つまり、クイーン・オブ・ワルフーー略してクイーンに出会ったら「逃げるのは諦めて少しでも楽に死ねるように感覚でも麻痺させておけ」ということだ。
しかし、恐怖の象徴とも言えるこのクイーンだが、反面身内には非常に温厚で慈悲深いことが確認されており、恐らく無惨に殺され、更に死後もその身を冒涜されたワルフを悼んでいるのだろう。
と言うことは、そのワルフに死をもたらしたレインを放っておいてくれる訳もなく。
「グガアアァアアア!!」
ビリビリと空気を振動させるような咆哮が夜の森に響き渡る。クイーンの口から迸った咆哮はレインの方を向いて放たれ、それは空気の砲弾と化した。周囲の木々をへし折り、大地を穿って直線上にある全てを薙ぎ倒してレインに迫る咆哮。クイーンだけは唯一ワルフの中でも狼らしい鳴き声だということが今判明。クイーンが女王たる証だろう。
レインはクイーンの顔が此方を向いた瞬間にその場を飛び退き、擦り傷切り傷くらいは我慢して茂みに突貫して何とか回避したが、圧倒的な爆風がもたらす衝撃にレインは吹き飛ばされ、茂みを抜けてゴロゴロと転がる。
「ぐっ、あ……アンナ、ちょっとの怪我は我慢してくれよ……」
腕の中に抱き締めた少女を見下ろして詫びを入れる。自分より年下で、何より女の子だ。彼女を守れなければ男が廃る。とは言え、こんな難易度ルナティックな怪物との戦いを、レインもアンナも無傷で切り抜けるのは厳しそうだし、レインに至っては既に引っ掻き傷が多数赤く蚯蚓腫れになっている。
それに、出来る限りダメージを肩代わりするつもりだったが今の緊急回避は流石に無茶が過ぎたらしく、抱き締めたアンナも服が少々破れていた。レインはその下の白い肌に赤く小さい傷が付いているのが痛ましく、レインは目を細めてグッと唇を噛み締める。白い肌に真紅の鮮血が垂れるのを見て、余計にそこに傷があることを意識させられた。
そうこうしている内にも、クイーンはレインたちを探して近くを徘徊している。レインは未だ意識が戻らないアンナを抱え直すと、出来る限り音を立てないように立ち上がり、クイーンのよく効くだろう鼻による探知の範囲から逃れる為に移動を開始した。森の木々に生い茂る葉の隙間から射し込む月の光が、小走りに移動するレインの居場所を知らしめるかのように薄く照らし、そんな筈は無いと思ってもレインの胸にはどんどん焦燥が募っていく。
実は、レインの足は既に限界が近い。アンナがたった20秒ちょっとをぶっ倒れるまで速度を出して走ったことで影が薄かったが、考えても見て欲しい。20秒も速度を落とさずに走り続けたら、しかも限界に達するかそれを上回るような速度で走っていたら、いくら何でも疲れるに決まっている。現に今レインの足はカタカタと震えており、この移動中に何度か転びそうになっていた。それでも何とか立て直して騙し騙しで走っているが、それもそう長くは持たないだろう。
この小走りもそれなりの速度を出しており、先程身を投げ出した茂みはもう闇の中に消え、その向こう側にいるクイーンからも遠ざかっている。一先ず一歩違えば命を落とすような危険は去った、とレインは少し速度を落とし、
「ッ!駄目だ、ここで足を止めたら多分動けない……!」
ーーそうになって、笑う膝を叱咤する。安心、なんてことがある筈がない。視認困難な豪速で駆ける魔獣から、こんな小走りで距離を離しても、直ぐに追いつかれるのは目に見えている。流石にあの大地が爆ぜるような脚力は瞬発的なものだとは思うが。
それでも、魔獣の能力である身体強化。あれは単純な効果だが強力で、それだけに対策を立てることが出来ない。恐らくあのクイーンは、本気で走っていなくても通常のワルフの全力をも超える速度を普通に出せるだろう。そんなもの相手に立ち止まっている暇などない、とレインは前に、前にと進む。
足だけでなくアンナをずっと抱いている腕も攣りそうに痛い。ピクッピクッと筋肉が痙攣してアンナを落としそうになるが、これ以上アンナを傷付けるのは勘弁願い被る。自分が犠牲になってでも守ると誓ったのもあるし、何よりワルフ(通常種)から逃げる際にアンナの事を気に掛けてやらなかったという負い目がある。
レインは一瞬だけ片足を上げて太腿でアンナを支えて抱え直すと、前をキッと睨み付けて夜の森の闇の中に駆け込んで行った。
◆◆◆◆◆
「ん、んぅ……」
温もりに包まれて上下に揺さぶれ、少女は長い睫毛を震わせて重い瞼を開く。少女はボーッと焦点が合わない目をぱちぱちと瞬いて首を動かし、状況を把握しようとする。
「ーー起きたか、アンナ……っはぁはぁ」
少女ーーアンナの頭上から声が降ってくる。声の主、レインは、腕の中で身動ぎしたアンナを見下ろし、荒い息を吐きながらも意識が戻ったことに安堵し、まだぼんやりしているアンナを安心させるように薄く微笑んだ。
「……マスター?」
「ああ、そ、うだ。あぁきっつ、脇腹いてぇ……」
やっと焦点が合ったのか、深い黒瞳にレインを映し、名を呼ぶ。レインはそれに途切れ途切れに応えて、情けない弱音を吐いた。
忘れがちだがレインは転生者だ。身体は14歳だが、前世の17年間ーーしかも、内3年は監禁虐待を受けていた過去を持っている。真面な環境で育てなかった所為か性格は破綻し、暗く澱んだ瞳で部屋の隅っこに座り込んでいた時期もあった。
そんな過去を乗り越えてーーと言うよりも、死によって強制的に振り切って今のレインがある。が、だからと言ってレインの心がちょっとした苦難などでは痛まない訳ではなかった。むしろそこらの子供よりもその点に関しては弱者である。ちょっとした何かでトラウマが払拭されることもあるし、前世の腐敗した生活に戻るのが恐ろしい、とレインは心からそう思っている。
決してレインは強者ではなく、しかしそうあれたら良いとも思う。
「だから、息を吸うのもきついけど、走らなきゃいけないんだよ……!」
弱者だからこそ、抱く想いがある。弱者であればある程強い想いがある。それは、強者への憧れだ。そこに追い付こうと努力する者を見て、「彼奴らは馬鹿だ」と決め付けて自分は怠惰を貪る者だって「いざとなったら自分が本気を出せば」という想いを抱くことがある。その感情は元を辿ればやはり強者への憧れにあるのだ。
レインは、確かにやる気を見せる者を心の中で貶めて、自分のちっぽけな自尊心を満たして、そして何も成さない停滞した日々を送る者の内の一人だった。「自分が本気を出せば」とレインもそう思っていた。
でも、自分の力などたかが知れてる。他の誰かの助けを待つのも手だろう。それでも、なんだかんだ言って火事場の馬鹿力と言うものが馬鹿にしたものではないと実証して見せた少女が腕の中にいる今、レインは自分でこの問題に対処したかった。やることは単純。クイーンから逃げるだけだ。
「いざとなったら……?そりゃ、今だろ。今本気を出せなきゃいつ出すんだ」
レインは口元にハリボテの笑みを貼り付け、乱暴に自分を鼓舞する。それに、目的地はもう直ぐだ。最後に吹き飛ばされてから今まで一度もクイーンに遭遇していないのが逆に不安だが、出会わないに越したことはない。
レインは少しペースを上げて木立の向こうに薄っすら見える灯を目指して走る。
「あれ、もしかして、私たちが焚いた焚き火……?」
そう。レインが目指しているのは、最初のワルフに遭遇して放り出してきた野営地だ。体感時間は既に何時間も経っている感覚だが、頭上の月を見る限りまだ一時間も経っていないように思える。ならば、もしかしたら焚き火が消えていないかも知れないと、レインは灯を探して歩き回ったのだが、期待通りまだ焚き火の火は赤々と踊っていた。
そこに行けば、近くで待機しているはずのゲイポーに乗って逃げられる。木は勿体無いが、置いて行くしかないだろう。そうこう考えを巡らせながら走っているうちに、ようやく木立を抜けて、レインはゆっくりとペースを落とす。急に止まると心臓に悪いのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……ふぅ。アンナ、歩けるか?」
「ん。多分」
「じゃあ、下ろすぞ。良いな?」
アンナが頷いたのを見て、レインはアンナの足の方からゆっくりと身体を傾けて手を下げていき、アンナを地面に下ろしてやる。ちょっと下ろそうとしたら渋った様な気もするが、悪いがレインとしても腕がそろそろ攣る。
「あ〜!案の定攣った……!」
レインは腕を揉み解し、周囲を見渡す。ゲイポーは逃げずに未だ待機しており、どうやら必要最低限の荷物をまとめたら直ぐにこの森を出ることが出来そうだ。レインは座って休みたい気持ちを抑えてリュックを担ぎ上げ、切り株に突き立てられていた斧を引き抜くと、一輪車に乗せ、重い足を引きずって歩く。
足は重いが、それでも根性で疲労を捻じ伏せて急いで一輪車を押し、アンナが言わずとも用意してくれた即席タラップを駆け上がる。鳩車に入りきるか否かくらいのところで持ち手を離し、奥に転がすと、レインは即席タラップを仕舞ってアンナに手を差し出した。
「乗れ!直ぐに出るぞ!」
ここに来た時の様にのんびりしては居られない。アンナは躊躇無くレインの手を取ると、鳩車に身体を捻じ込んだ。
「出せ!」
それを確認したレインは、戸も閉めずにゲイポーに合図を出す。これでは鳩車の遮音効果は発動しないのだが、流石にゲイポーも切迫しているのか、馬鹿なことは喚き立てない。ゲイポーは種族的にゲイで、そしてMだ。重い荷物を背負って走るということに興奮して喘ぎ声を上げるという迷惑な生態がある。
しかし、そんな種族の性癖を爆発させる程空気が読めない訳ではなかった。
直ぐにゲイポーは走り出し、迫り来る脅威から逃げる為かひどい揺れを車内にもたらす。
「アンナ、何かに捕まれ!」
レインは、高身長を活かして天井に両手をつき、身体を支えながら隣にいるアンナに指示を飛ばす。アンナはそれに頷いて踵を返しーー固まった。一体なんだとレインは首だけ回してアンナを見る。視線の先では、アンナがジッと窓の方に目を向けていてーー
「ーー」
レインがアンナの視線を辿ると、漆黒の暴風のギラギラと殺意に濡れる眸が窓の外から睨み付けていた。
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