013
馬車の中に引きこもっていたメルクラースにすら届くであろう怒声は、どうやら威嚇の声と大刃ヒヒには受け取られたらしい。狡猾な魔獣は目の前の小さな生き物が自分に危険を与えうると察知したか、喉を鳴らし腕を広げて動きをとめた。
ディアスは一瞬たりとも大刃ヒヒから目を逸らさない。ちらりとでも後ろを振り返った瞬間、仕掛けてくるのが容易に想像できるからだ。そのディアスに、腰が引けた様子で副官が声を張り上げた。
「貴様、どういうつもりだ!?傭兵か?」
「傭兵のディアスだ!!奴隷と言えども兵力を失えばラースの信も下がるだろう、早く下げてくれ!」
副官は馬車にあわてて近づくと、中の主と何事かを話す。その間にも、巨大な猿の化け物とディアスはじりじりと穂先を揺らめかせながらにらみ合う。ディアスからすればたまったものではない。次の瞬間にも後ろの獣人達を巻き込んで戦闘が再開されるかもしれないのだ。
何時間にも感じられる数十秒の後、副官が戻った。
「主はお前が倒せれば褒美を、倒せなければ奴隷を使うことを了承された!存分に戦うがいい!」
傭兵とは言え所詮亜人。万が一手傷の一つも負わせれば儲けもの、殺されたとて自分から言い出したことだ、問題は無い。恐らく仲間の亜人が無為に死んでいくことに耐えられなかったのだろう、とメルクラースとその副官は了承した。だがその思惑はディアスには何の関係も無いことだ。
「感謝する!!」
その言葉を待っていたディアスは、じりじりと距離を計りながら奴隷達に指示を出す。
「獣人の戦士達よ!槍をその場に置いて下がってくれ!無駄死にはさせない!」
ひとたび槍を手放せばもしディアスが敗北して死んだ場合、本当に対抗手段を失うことになってしまう。それぐらいのことは獣人奴隷達にも分かっていた。だが彼らは逡巡することなく、その場にそっと槍を置いて後退を開始した。
「よし…来いよエテ公。人間様の底力を見せてやる」
その声を理解した訳ではないだろう。だがゆっくりとヒヒは体勢を下げ、クラウチングスタートのごとく身構える。
「我が皮膚は鎧。竜の鱗。我が足は烈風。鷹の羽ばたき。我が膂力は獅子のごとく。万物引き裂く武神の剛力……!!」
出し惜しみをしている場合ではなかった。たとえ術が使える獣人として為政者の興味を引く結果になったとしても、死ぬよりはましだ。惜しみなく肉体強化の呪言を唱えると、五体を熱い流れが駆け巡る。
同時に、大刃ヒヒが飛び掛る。腕の刃での大振りだが恐ろしい勢いの薙ぎ払い。だがディアスも先ほどまでとは違う。
どん、と地面が音を立てて蹴り上げられる。一瞬で五歩分も後退し薙ぎ払いをかわした彼は、弓なりに背をそらしヒヒの顔めがけて拾い上げた長槍を投擲する。狙いたがわず飛翔した槍は、浅くだが鼻の脇に突き刺さり、悲鳴を上げさせることには成功した。
「やはり、刺さらん!」
だが鎧イノシシの時とは違う。槍はぽろりと落ちてしまい、出血も僅かのようだった。傷つけられたことに激怒した大刃ヒヒは、両手を振り回し乱打の嵐をディアスに降り注がせた。
「ぐっ、かっ!」
蹴り上げて掴み取った獣人の槍でいなし、受け止める。だが数発も受けないうちに、粗末な木槍はへしおれてしまう。
魔獣の殴打と斬撃は肉体強化したディアスにとってさえ、まともに受け止めれば武器ごと吹き飛ばされてしまう。それならばと、自分に当たる軌道を描いた刃だけを次々と蹴り上げた獣人達と自分の槍でさばき、打ち返す。
幾本もの槍が、木っ端微塵に砕けていった。隙を見ては腕や胸に雷光の速度で槍を打ち込んでみるものの、柄の方が砕け散る始末だ。本人の力量もあって致命傷こそ受けないものの、浅くだが幾本もの裂傷がディアスの四肢に刻まれていった。
「ディアァァス!俺も行く、無茶するんじゃねぇ!!」
両手で数えられない程の槍が残骸に変わった頃、たまらずセヴェリは叫んだ。このままでは得がたい友人にして好敵手が無残に殺されてしまう。だが、ディアスはそれを拒否した。
「来るな!俺なら大丈夫だ!」
そういいながらも、神速の槍捌きで正確に攻撃をいなす。だがじりじりと押されて行く。当然と言えば当然だが、一撃もらえば即死もありうるディアスに対し、大刃ヒヒはかすり傷しか負わないのだ。傘にかかって攻め立てるのも当たり前と言えよう。
そして、ついにその時は来た。辺りかまわず掘り返された地面に足をとられ、僅かに体勢を崩す。野生の本能か魔獣の嗅覚か、大刃ヒヒは巨大な右拳でその隙を捉えた。握っていた槍で何とか体を逸らそうとしたが間に合わず、ディアスは左腕を掲げると共にに全力で後ろへ跳んだ。
「ああっ!!」
誰のものとも知れぬ悲鳴が空に響き渡る。冗談の様に弾き飛ばされ―半分は自分で打撃の軽減のために跳んだとは言え―なんとか着地したディアスの左腕は。
「…しくじったな」
あらぬ方へと捻じ曲がり、だらりと垂れ下がっていた。響き渡る勝ち誇った大刃ヒヒの雄たけびを聞きながらずるりと左手から木槍を落としつつ、彼は静かに立ち上がった。