第28話 夏本番
暑い熱い夏がやってきた。
普段と違い、この期間は予備校では平常の授業はおこなわれない。
一方で夏期の特別講習が数多くあり、受験生たちは暑さなど忘れるほど精力的に勉強に励んでいる。だいたいの生徒たちは。
そんな一方で、静夜は今日もお狸部屋で涼んでいた。
必要最低限の講習は申し込んだが、あまり詰めすぎるのも良くないと思い、講習以外のときはこの部屋へ足を運んでいた。
いま部屋にはおたぬき様と志野ちゃんだけが居た。真穂さんはバイトで、こすずちゃんは好きな歌手のライブに行っている。
「不安すぎる……」
暑さでだれながら、アイスを食べつつおたぬき様がそんなことを口にする。
少し間を置いてから静夜は言葉を返す。
「何が不安なんだ?」
「おい、志野」
「は、はいっ」
部屋の隅で夏の予定表を書いていた志野ちゃんが、びくっと反応する。
「暑苦しい、その帽子は脱げんのか?」
おたぬき様の視線が志野ちゃんの頭上に注がれる。志野ちゃんは室内にもかかわらず、大きな麦わら帽子をかぶっていた。服は水色のワンピースを着ている。とても似合っていた。
志野ちゃんがあたふたしながら帽子をはずす。
「ご、ごめんなさい! 今日ちょっと髪がまとまらなくて、帽子でごまかせたらなぁって甘っちょろいことを考えてましたっ、お詫びに窓から飛び降ります……!」
窓際に行こうとする志野ちゃんを、おたぬき様がダイビングしてひっ捕まえる。そのまま押し倒し、くすぐり攻撃を始めた。志野ちゃんから悲鳴にも似た笑い声が上がる。
仲が良さそうでなによりだと思いつつ、静夜は読んでいた電子書籍のページをめくる。
そのときコンコンとドアをノックする音が響いた。この部屋に来客があるのはそう珍しいことではない。おたぬき様がくすぐりの手を止め、
「入れ」
と口にする。するとドアは独りでにすっと開いた。
入ってきたのはここの職員で、確か難関国立大学コースのクラス担任をしている女性だった。
「おたぬき様、ちょっとよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「ここではちょっと」
「ちょっと待て、すぐ行く」
よいしょとおたぬき様は立ち上がると、志野ちゃんから没収した麦わら帽子を手に部屋の外へと出て行った。がしゃんとドアが閉まり、部屋に静寂が戻る。
しばらくパラパラと電子書籍を読み進めていると、志野ちゃんが寝転んだまま尋ねてきた。
「いま訪ねてきた人って、クラス担任の人ですよね? おたぬき様にどんな用事があったんでしょう?」
「珍しいことじゃない。生徒のことについて色々相談し合ってるようだな」
「へぇー」
なんだかんだ言いつつ、おたぬき様はしっかり生徒たちのことを見ている。
毎朝登校時には校舎の入り口に立ち、生徒一人一人の様子をチェックしていた。顔を見るだけでも色々とわかることがあるらしい。
おたぬき様はこの予備校に通う生徒たちの顔と名前をすべて覚えているそうだ。
「ちなみに志野ちゃん、まさか、よもやとは思うが、夏期講習を申し込んでない、なんてことはないよな?」
「はい、たまたま今日だけ空いてるんですよ。も、もしかしてわたしがここへ来るのって迷惑でした?」
おびえたように志野ちゃんが涙目になる。
静夜は立ち上がり、冷凍庫からアイスを取り出すと、彼女へ向けて差し出す。しばらく彼女は受け取るかどうか迷っていたようだが、やがて手に取った。
「おたぬき様が門戸を開いている限り、俺たちが拒むことはない」
「それって、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
おたぬき様はだれかれ構わず強引におたぬき救済委員会へ引き入れているわけじゃない。勉強に専念したい者や、委員会の活動に興味がない者はそもそも勧誘しないようにしているそうだ。
というのはあくまで真穂さんから聞いた話で、静夜もあまり詳しいことは知らなかったが。
体を起こした志野ちゃんが、アイスを手にしたまま髪をいじり出す。
「うー、変じゃないですか?」
「大丈夫だって。そのままで十分かわいい」
「か、かわいいだなんて……」
志野ちゃんが照れたように両手で顔を覆い隠す。
と、静夜は不意に背後に殺気を感じた。すっと何か冷たいものを背後からほおに当てられる。
「それで静夜さん、志野ちーがかわいいのはわかりましたが、あたしとどっちがかわいいですか?」
「……こすずちゃん、ライブはどうしたんだ?」
はぁ、と後ろから彼女の大きな溜め息が聞こえてくる。
ちらっと振り返ると、ほおに当てられているのは冷えた炭酸入りの缶ジュースだった。
「あげますよ」
「お、サンキュー」
缶ジュースを受け取り、テーブルの上に置く。すぐに缶を開けないのは、これがたくさん振られた後である可能性が高いからだ。
こすずちゃんが静夜の隣に腰を下ろしてくる。
「聞いてくださいよ、せっかくずっと前から予約してチケットを手に入れたのに、歌手急病により順延ですよ」
「そりゃ残念」
「あたしは一体誰に生卵をぶつければいいんですか」
「自分にぶつけろ。あと冗談でも絶対するなよ」
「あたしがそんなことすると思いますか?」
静夜が大きく頷くと、こすずちゃんに裏手でびしっとおでこをはたかれた。
そんな二人のやりとりを見ていた志野ちゃんが声をかけてくる。
「あの、お二人はここへ来るようになって長いんですか?」
「俺か? 俺はこの春、二浪になってから初めてこの予備校に来て、少し経ったころに誘われたな。去年はずっと家で自習してたんだが、あれは無理だ」
どれだけ固い意思を持っていようが、一年ずっとひたすら家で勉強に打ち込むのは至難の業だった。何より静夜は自分が固い意思を持っていないことを自覚していた。
こすずちゃんもうんうんと頷く。
「宅浪は誘惑が多すぎますよね。わたしもどれだけ宅浪にあこがれたことか」
「誘惑されたかったのか……」
沈痛な面持ちに静夜がなると、こすずちゃんはからからと愉快そうに笑った。
志野ちゃんがこすずちゃんに視線を向ける。
「こすずさんは」
「志野ちー、さん付けは禁止。同期なんだから、もっとフレンドリーに、親密に、なれなれしさを込めて!」
「え、えっと……。じゃあ、こすずちー、とか……?」
おそるおそるそう尋ねると、こすずちゃんは満足そうに頷いた。気に入ったらしい。
「そして、こすずちーことあたしですが、あたしは今年の五月くらいからこの部屋へ来ています。ちなみに補足しておくと、真穂さんは二年前からの常連さんですね。すごいでしょ」
なぜかこすずちゃんが胸を張る。空気を読んだ志野ちゃんがパチパチと拍手を送る。いい子だ。
そのときバタンと部屋の扉が開いた。
「外が熱すぎる! もう少しで釜揚げになるところだ!」
ひたいに汗をかきながら、おたぬき様がへとへとな様子で部屋へ戻ってきた。
すぐさまエアコンの前に陣取り、リモコンを操作して風を自分に当たるようにする。こすずちゃんから「独占禁止!」と非難の声が上がったが、おたぬき様はどこ吹く風といった感じで受け流している。
と、静夜の携帯が鳴り響く。着信したメールを見てみると、真穂さんからだった。周りのみんなに内容を伝える。
「真穂さんが、バイトが終わったから今からみんなでプールに行かないかってさ」
「よし、出立だ!」
おたぬき様がクーラーを止め、さっそく外出の準備を始める。
こすずちゃんが、
「まだ準備なら止めないでください!」
と苦情を言いつつエアコンの電源を入れ直す。が、すぐさま、
「はっ、水着! 家に寄って取ってきます!」
と言って部屋からダッシュで出て行った。
一方で志野ちゃんは慌てるようにしてまだ食べていなかったアイスを口にほおばっている。
「志野ちゃんも行くよな?」
と尋ねると、彼女は間髪入れずにこくこくと頷く。
どうやらみんな行く気らしい。
水着を取ってくるため、静夜もいったん家に戻ることにする。メールで全員行く旨を返信しておく。
季節は夏本番。
受験の本番があと半年近くまで迫っていたが、今日ばかりは、というより今日も、静夜は深く気にしないことにした。




