10 七日目。秋田・青森(15)
「でも、こうとも考えられませんか?
文太郎さんは、若狭湾で海判定を食らわないように、そこだけは回り道をなさったのです。
文太郎さんはその土地とちの風習、ルールを尊重する度量の大きな、尊敬に足る人物です。現世に戻らないよう、ワープアウトせず進行するために、海上を進むことに意固地にならず、状況に柔軟に対応なされたのではないでしょうか」
「いわゆる、“湾特例”のことを言いたいのですね?」
「そうです。湾特例で海を回避できるんなら、ワープアウトやゾーンアウトしなくとも、フラットランド上のみで旅は続けられますからね……」
「湾特例で若狭湾を回避できるか否か、が焦点なわけだ」
「はい」
「この(3)説が一番やっつけやすそうね。少々お待ち下さい――」
本気になってパムホを操作し出す蘭でした。ほどなく――
「残念ですが、そうはうまく行かないようよ。と言うのも、“文太郎ルート”で最初に至る海は、若狭湾の西端、京都府宮津市の宮津湾なんだけど……。ちょうど、日本三景の一つ、天橋立の北端に当たるの。天橋立か……憧れます」
トロン、とした表情で、物言いをするのです。
行は、今度ご一緒しませんか、というセリフをかろうじて飲み込んだのでした。
蘭は説明を続けます。
「それで……。浜坂町からこの宮津湾まで、“まっすぐライン”は約68.3kmなのです。ということは……。
マージンは約3.4kmとなります。片側1.7km。これでは宮津湾どころか、天橋立すら渡れません。湾特例は使えないんです」
(全体図)
(拡大図)
行は粘ります。
「仮に、スタートからゴールまで、何とかして一度にワープできたとします。そのときの“まっすぐライン”、浜坂~茅ヶ崎間が約450kmですから、そのときのマージンは22.5kmとなり、片側11.25kmです。
都合のいい仮定ですが、でもそれだけあれば、若狭湾全体を湾特例でパスできそうですね?」
(全体図)
言われるままにパムホを操作する蘭なのでありました。
しばらくして、口をアヒルにします。
「……いえ、それでも引っかかるみたい。ここの部分を見てください。舞鶴湾西港です」
(拡大図)
(さらに拡大図)
「うーん、少しだけ、マージンから出てしまっていますね……」
「そうです。この西港をうっかりパスしてしまったら、ゾーンアウト。永遠のアウトです。わたしの意見としては、それでもいいんだけど。いえ、積極的にそうであってほしい!(笑)」
行もつられて微笑みます。――えへんっ。
「逆に、ここを湾特例で安全にパスするには、“まっすぐライン”はどれ位の長さが必要なのでしょう。つまりゴールはどこになるのでしょうか」
「ええと、ラインから西港最奥端までの距離に更に50mプラスすると、約14kmです。すると必要な“まっすぐライン”の長さは40倍して、560kmです。浜坂から富士山を経由しての直線560kmたら、千葉県いすみ市の沖合、約19kmの太平洋上になってしまいます」
「茅ヶ崎からいすみ市まで、直線距離で約91kmなんですね」
「そのようね。あと19km、陸地が足りなかった……。
てか、誤魔化そうたってダメよ? この場合は、“東京湾をどう越えるか”という難問が発生します。そもそも湾特例は、湾を越してから後の話ですし」
行はもっともらしく頷いたのでした。
「ぼくにアイデアがあります。
理屈では簡単な話です。出発の時点で、“まっすぐライン”の長さを、560km以上にしたらいいのです。そしたら、はじめから若狭湾を回避できる。現世に戻ることも、ゾーンアウトもない」
「夢のようなお話です。どうぞ……?」
「まあ聞いてください。今では誰も話題に挙げませんが、そもそもです。誰が、その旅人の行き先を見極め、マージンを設定しているのでしょう。抵抗があるならば、『誰が』の部分を、『どんな仕組みで』という言葉に替えてもらってもかまいません」
「もしや、ここで“神さま”を持ち出すとかじゃないですよね?」
「わざわざ千両役者を呼ばんでもいーのです。ある意味、お安い回答があります」
「だとしたら、わりと知られた議論ですね。比較的多くの支持を集めている仮説があります。それは、異世界の法則について、こう論じています。
『まるで“海”が意識を有しているかのような話』
だと」
「それです。流石です。話を続けます」
「どうぞ」
「文太郎さんには、僕たちがよく知っている、ある“クセ”があります」
「クセという表現が適切なのか少し議論の余地がありますが、要するに。“儀式”のことを仰りたいのね?」
「流石です。ラン」
「もういいですから」
「儀式、あるいはクセ。文太郎さんは出発時と到着時に、必ず、海に向かって、声に出して、祈りを捧げるのです。
何が、彼をしてそうさせているのか。その心の内を観ずるに、嵐のような、雷のような、激しいモノが渦巻いているのではないかと思うのです。それが彼に合掌の形を成さしめている。けっして“習慣”と呼べるような穏やかなものではない――と、これは勝手な決め付けでしょうか……。
さておき。スタートのときは、
『“お預かりします”。これよりの旅路、無事故、無病息災に過ごせますよう祈念します。どこどこに向かいます。楽しい旅になりますように……』
そしてゴール時。
『“お返しします”。これまでの旅路、大過なく来られたことに感謝申し上げます。お蔭をもちまして、無事、なになにすることが叶いました。旅は、楽しかったです……』
ちなみに、ご本人は解説していませんが、海からお預かりしているモノとは、架空の“命”だと思われていますね。もっと言えば、“ルートの生命”です。海抜ゼロの浜辺に誕生し、途中、山の高さを知り、やがて海抜ゼロの浜辺で終焉を迎える。一本のまっすぐルートを旅するということは、まさにその人の一生を共に歩んでいると言えるでしょう。これも、一種の、『同行二人』となるのかもしれません……」
蘭が簡潔にまとめた。
「注目なのは、出発時に『どこどこに行く』と海に宣言している、点ですね」
「はい。それにもう一つ。海から命を預かっている意義にも注目すべきでしょう。
もし海が“判定者”、あるいはそれに準じる何らかの“システム”だったのならば、海は、その宣言に、“スイッチ”が入るように、反応したのではないでしょうか」
蘭は真面目に問い質したのでした。
「では、一番の質問です。『どこ』ですか? 文太郎さんは、スタートにあたり、『どこ』をゴールだと宣言したのですか? 言っておきますが、海上にゴールは設定できませんよ」
行もまた、精一杯、真面目に答えたのでした。
「浜坂です!
ふざけるつもりはありません。真面目に、スタート地点である、浜坂です。彼はそこを、ゴール地だと宣言したと思います」
「解説をお願いします」
「いま一度、思い返してください。文太郎さんは、“余命一年”、と告知されていたことを。その上で想像してください。彼の内面の葛藤を――!
さらにです!
文太郎さんは、“命”について独自の見解を述べてもいらっしゃいます。
曰く、『死に返り、生き返りを繰り返し、命は進み行くらむ』――と。
結論として木藤文太郎は、『旅に死して、再びこの浜坂の地に生まれ返らん』と、海に向かって決意を表したのではないでしょうか!? そしてその言に海が応えたのです」
しばしの静寂が、二人に訪れたのでした。
やがて。
「文太郎さんならば、ありえそうで困りますネ」
蘭の言葉だったのでした。続けて、
「ですが、ここで二番の質問を提示します。
その場合、ラインの距離は、いかほどになるのでしょうか。一見、ゼロkmのように思えますが?」
ここで、行は照れくさそうに蘭を見ることになるのです。
「ズルい答え方をしたく思います」
「予防線も気配りも、無用ですわ」
「では、お答えします。スタート地点から出発して、スタート地点にゴールする。その際の“まっすぐライン”の距離は、ズバリ――4万kmです」
「アハハハハッ!」
反射的に笑い声を噴き上げてしまった蘭だったのでした。
行、かまわず、
「その場合のマージンは、2000kmとなります」
「笑い殺してくれる御つもりですか!」
「片側1000km。若狭湾をかろうじてパスできますね」
「ウフフ! 押しますね?」
「どうです、この仮説。ぶっちゃけ、日本全域をほぼカバーできます。今ならお買い得ですよ」
「わーたーしーが、男でしたら、『このドあほう』と怒り出してるところです。これまでの真剣な、そしてナーバスな考察をバカにする話というものじゃないですか。それに、もしそれが本当なら、1km、いえ1mに命をかけて調査を行い、そして絶望刑を受けた多くの犠牲者が浮かばれません。悔しすぎます。悲しすぎます!」
行は穏やかに話を継ぐのでした。
「では、ライン900kmでしたらどうです? この場合のマージンは45km。片側22.5km。舞鶴湾西港を十分に余裕を持ってパスできます」
「900km……?
ああ、450の2倍、すなわち浜坂~茅ヶ崎間を往復した距離というわけですね。なるほどズルい。さっきの後だと、こちらの数字は、とても尤もらしく聞こえます」
「ちなみに、湘南海岸は、富士山を越してから最初の海となります。文太郎さんの旅の第一位の目的は、富士山登頂でした。だったら、富士山から一番最初の茅ヶ崎の浜を、“折り返し地点”と判断したとしても無理はないでしょう」
「なるほど繊細な考察です。先ほどとは大違い! ですがここで三番の質問を提示します。
海は、そのように仮定した機能を本当に有しているのか、です。立証する手立てはあるのか、という問いかけです」
「その前に。ご質問はこのあと、何番まで用意していらっしゃるのですか?」
「この三番までです。いえ四番はあるのですが、それは質問ではありません。事実です」
「事実? 先に、四番をお聞きしても?」
「言いましょう。――なんにしても、もう遅い。後の祭りだ、という事実です。わたしたちは、すでにゾーンアウトしてるんだ、という事実です」
「三番へのお答は、実際にやってみる、でした」
「でしょうね。そしてコオ。キミは実はすでに行っていた、のでしょう。この旅で!?」
「ラン。きみは、しなかったのかい。その方が意外だ」
「第一に、わたしの師匠は文太郎さんじゃなく、花子さんだったから。
第二に、そばにパパがいたから。それに地元でなく、おしゃれな鎌倉だったから。
気恥ずかしくて、合掌して、祈念の内容を声に出すなんて、とてもできなかった。何も宣言せずに、サクッとさり気なく、カッコよく、旅立ったの」
「理解します。旅立つ人はみんな、そうなんでしょう。日本じゃ文太郎一人くらいでは? 人目を気にせず、それどころか熱く、心から真剣に、大真面目に海に語りかけられるクサい人は? 海を神仏化し、さらには“命”を借り出してさえいる。一般人は、祈りまではするかもしれない。が、命のやり取りは普通しない。だから、今まで誰にも気づかれなかったのかも」
「ともかく。かんじんの結果はどうだったのですか。マージンが広がっていることを確認できたのですか?」
それに応えてパムホを取り出す行でした。
「ここに証拠画像があります。ワープイン直後に撮影した、富士山の写真です。
ぼくはスタート時、茅ヶ崎海岸で、文太郎さんをまねて、こう祈願したのです。
『“お預かりします”。これよりの旅路、無事故、無病息災に過ごせますよう祈念します。最終目的地は宗谷岬です。できれば、ぼくも文太郎さんが見た世界に行きたいです。楽しい旅になりますように』
と。
もし、海がその願いを聞いてくれたのなら、“まっすぐライン”は宗谷岬までの1156km。
マージンは約57.8km。
片マージン、すなわちワープインまでの距離は、約28.9kmとなっていたはずです。
で、この写真ですが――」
(ごくり……)ツバを飲む蘭です。
「――綾瀬市で撮影したものです。茅ヶ崎から、えっと、“まっすぐライン”にして、約15.6km地点。これは、すなわち、青森港をゴールとした数字で――」
話の途中から片肌が脱げ、脱力したった蘭だったのでした。瞬間、大噴火です。
「今まで長々と語り続けて! 結局(3)説はありえないってことじゃんかーーーっ!」
「てゆーか、(2)説もなーなぁ。きみのゆった、(1)せつだよまちがーない」
「ムッキイィィィ!!!」
怒りにまかせて、肌も露わに襲いかかる蘭だったのです!
「ふにゃあぁぁぁ」(笑)
行は忽ち浴衣を剥ぎ取られかけて、二人とも、律儀に裸の上に浴衣を着ていたものですから――危ない――危ない――!
「なによ! なによ! コオくんだって、十分お尻が丸いんだからね!」
ペチペチペチッ――!
「そんなことゆわれれれてももも!」
敷かれた布団の上に押し倒され、「キャハハ」、上になり、下になり、「ウフフ」、ほんのりとした肌も露わに、「きゃん」、乱れに乱れて――
そんなときでした。
シュルルッ、と襖戸が開かれたのでありました。




