9 六日目。秋田(5)
そんな甘さがあったから――
体内に沸いていた折角の大事な警告を、無視することになってしまったのです。
ふと、思い出したのでした。
田沢湖を出発して、県道38号から国道105号に出て、そして、北上し始めたときのことです。
横に、国道に寄り添うように一緒に延びていた鉄道レールが確かにあって、それが秋田内陸線だったのでしょう。
しばらくは、付かず離れずの関係で、同じ“道”同士、隣同士なかよく一緒に北へと延びていたのですが、峠道に至って、分離したのでした。
国道は、峠めざして西へ、そしてレールは北東へと。
「……」
だから、当然。今は、レールは見えません。ありません。
さきほどまで国道と一緒に並んで延びていた――
蘭が利用するはずのレールが、今は、ない、のでした。
隣にいないのでした。
それは蘭が利用するはずのレールだったのでした。
そしてぼくはただ一人で国道にいるのでした。
レールは隣りにいないのでした。
国道の隣りにいないのでした。
ぼくの隣りに今、誰もいないのです――
蘭が、いなかったのでした――
「――!」
その感情、感覚は、突如嵐のごとく襲い掛かってきたのです。
慌しくマップを見るに――蘭の光点が消えています。
それは、例えば鉄の箱の中とか、電波が遮られる場所にいることを示していました。
蘭が、電車に乗った。乗ってしまった――!?
行は――!
行は急に吐き気に襲われたのでした。それは――
それはこの旅を始めてから、最初にして最大の――
全天を覆いつくすほどの――暗黒の予感だったのです。
「思い出せ! ……思い出せ?」
鼓動を抑え、吐き気、めまいを払うため、暗闇を払うため、わざと大きく声に出したのですが、その自分の発した言葉に自分で疑問を覚えるしまつです。
なにを思い出せと言うのでしょう?
ぼくはぼくに、なにを思い出せと言ってるのでしょう?
それは重要なこと。
それは無視したり打ち捨てたりしてはいけないこと。
それは、深層心理からの言葉、旅人の第六感のささやきで――
「――」
体中の毛が逆立ち――!?
ふいに。
鮮やかに、昨夜のことが脳裏に浮かび上がったのでした。
“旅館の白壁”です。
壁に貼られてあった、地域の“時刻表”です――
行は、今やぽろぽろと涙をこぼしていたのでした。
「おい! おい――! “ここ”の秋田内陸線に“阿仁マタギ駅”って、確かに有ったよな?!?」
真剣に頭を抱えました。
気力を振り絞りました。
記憶がよみがえります――
――ありました。
全駅そろって確かに有りました! 記憶に間違いはありません! この点につき、“現世との齟齬”はありません。阿仁マタギ駅は、あるのです――!
遠峰行、全身脱力でした。コン吉の上で、崩れ、げっそりと、息を吐きつくします。
「――よかった! ああ、よかった!」
行は、ぽろぽろと涙をこぼしていたのでした。
落ち着いて考えてみれば、あの賢い蘭が、それも、現実にお金を払って目的地までの切符を買う蘭が、駅の存在に関する不審に気づかぬはずがありません。
そりゃそうか……。
「ハハハ……」かすれた笑い声でした。
すぐに口をつむぎます。
念のため、です。他に、ないでしょうか?
それ以外に考えられるトラブルの可能性として――急行の、“駅飛ばし”があります。
が、蘭が、各停と急行を間違えるはずはないし、そもそもです。たしか左通駅は、各停しか止まらないはずです。そして阿仁マタギ駅は、急行も止まるのです。
どう転んだって二重三重にセーフティが掛かっている。
つまり、「蘭は問題なし!」という結論なのでした。
行は理屈で安堵し、
「ハハハ……」
かすれた笑い声をたてたのでした。
ぽろぽろと涙をこぼしていたのでした。
顔が白く変色していたのでした。
急に体温が下がり身震いし――
ふたたび食い入るようにマップを睨み付けます!
それは、つい――
――“さっき”の記憶です。
秋田内陸線とお別れしたとき、レールは、北東方向に延びて行ったではありませんか?!?
“長沢”へ向かっていた。
現世と、違う――!!!
現世では、長大なトンネルで、“大森”の山塊をくぐり抜けて――
向こう側に出たところに、阿仁マタギ駅があったのです。
――
ひょっとして、ここの世界では、鉄道は沢を伝い、低い尾根を上り、険しい山肌を縫うようにして、レールが敷設されているのではないでしょうか?
「――」
いえ、そうだとしても。
そうだとしても、そこに駅はあるんだから、結局、問題ない――?
行は理屈で安堵し――
どこに駅がある――?
「ハハハ……」
かすれた笑い声をたてたのでした。
ぽろぽろと涙をこぼしていたのでした。
顔がどす黒く変色していたのでした。
嗚呼――
理屈ではないのです――!!!
それは旅人の勘であり、直感であり――
行は――!?
意味不明な言語をかすれるまでに絶叫し――
道路を一気に全速で下り始めたのでした。




