1 茅ヶ崎(7)
7月21日、日曜日。午前3時ごろ。
服装は、上から、白キャップ帽、いつもの開襟シャツ、ハーフズボン。ショートソックスに白スニーカー。手には白革のハーフグローブです。さらに旅の荷物を抱え、行は家の外に忍び出ていたのでした。
そうです。
父母の許可なしに、行動を起こそうとしているのです。ここまで大事に、親に逆らうのはこれが初めてのことでした。緊張で手が震え、心臓は破れるほど鼓動し、少しばかり、文太郎の痛みが想像できたのでした。
文太郎――
そうなのです。これは自分だけの問題ではないのです。二年生たる自分にとっては勿論のこと、文太郎さんにとっても、“今”が“最後のシーズン”なのです。この夏は、“これっきり”なのです。この機会を逃し、最期の日まで。むなしく、日の数を引いて過ごすなんて、とても。とても耐えられることではなかったのでした。
宿命に抗いたい!
仮にも師匠の後継たるぼくが、師匠の死を、漫然と指をくわえて見守るしかできないなんて、弟子の誇りにかけても、とうてい認められることではない!
これは、一人の人間として姿勢の問題。延いては己の一生に関わる問題なのです。
今、行動に移せなかったら、戦う意思を示せなかったら、今後の人生は価値なしだ。男として生きる資格がない。そこまで自分を追い込んだのでありました。
行は車庫の中に入りました。カチン、と電気を付けます。そこに、普段からピカピカに磨き上げていた、ギンギンにチューンナップしていた愛車、“コン吉号”があったのでした。
シンケ工業製MTB。型式名MF26。色は鮮やかなイエローです。
これから大いに頼りになるはずの“相棒”でした。行は自転車に手をかけようとして――
「コオ」
「ひゃん!」びっくりして悲鳴を上げてしまったのでした。
弾かれたように背筋が伸び、振り返ると、そこに浴衣姿の兄が腕を組んで立っていたのです。一度空を見上げ、
「夏とは言えどこの時間、まだ暗いのだな……」と嘯きます。
顔を戻し、
「君の考えはお見通しだ」と強面に決めつけます。さすがは――
「お兄さま……」
――ああ。
もうだめなのでしょうか?
すると、兄はふいに表情を緩めたのでした。めったに見ないワイルドな笑みを浮かべます。
「行けよ」
「えっ」
聞き間違いかと思いました。が、
「君がここまで大胆な行為に及ぶなんて嬉しい驚きというものだ。味方してやる」
とハッキリ言ったのです。行はもう、血がわき上がる思いでした。
「兄さま!」
進は近づくと、手に持っていたポチ袋をむりやり握らせます。
「餞別」
そして、
「一つだけ教えといてやる。極めて重要なことだ」
と言葉を続けたのでした。兄の、お金よりも貴重な、アドバイスです。
「はい――」
「旅中、困ってる人がいたら、誰よりも機敏に動き、助けてやるのだ。きっかけはそうして掴むものだぞ」
「? ありがとう、お兄ちゃん」
進は満足げに頷くと、
「頑固オヤジはうまく宥めといてやる」
そう言葉を結んだのでした。そのときでした。
「私がなんだって?」
当の父の声が浴びせられたのです。もう二人はもう、跳ね上がる思いで振り返ったのでした。
浴衣姿の父と母、二人の厳然と立ち並ぶ姿があったのでした。
「父上……」
苦虫を噛みつぶしたかのような顔の父と、そして、にこやかな母でした。
ああ、もうだめなのでしょうか――?
ところがなぜか、チラリと母を見る父だったのです。そして、間が持たずに、父の顔が緩んだのでした。どうにも、母には敵わない、父だったのです。ついに、
「――そこのバカ惣領、進と、以下同文である」
と言質を与えたのでした。その瞬間、歓喜に包まれた行だったのです。
父は現金が入った封筒を、母はおにぎりの包みを持たせてくれたのでした。
荷物はすべて振り分け鞄に入れ、コン吉号に搭載しました。身軽です。貴重品だけ小さな鞄に入れて、腰に巻き付けました。準備整い、自慢のマシンを路上へ押し出します。
今日は特別です。着替えた家族四人揃って、労を厭わず浜辺に歩きました。
空が明るくなってきます。
ざざん、ざざんという、穏やかな海鳴り、そして空気の匂い。出発の日として、望むべくもない好天気なのでありました。
父が最後の訓示を垂れます。
「頼りになるのは現金である。お金は小分けにして持つように。キャンプ、野宿は厳禁。親切な人の家に泊めてもらうのもだめだ。お金で安全を買える、信頼できるホテルに泊まれ……」
進兄は自分のパムホを取り出し、
「もうそこら辺で……」
と父に一言かけると、タッチペンを最大にまで伸ばし、砂に刺し、一脚にしてセットします。四人と自転車で記念写真を撮りました。自分のパムホに転送してもらいます。
それから行は、一人で湘南の海に向かうと、帽子を脱ぎ、合掌しました。
「“お預かりします”。これよりの旅路、無事故、無病息災に過ごせますよう祈念します。最終目的地は宗谷岬です。できれば、ぼくも文太郎さんが見た世界に行きたいな。楽しい旅になりますように……」
“儀式”でした。
振り返ると父と母、兄が、同じように行の安全を祈っていたのでした。
「――」
帽子をかぶり、最後の装備を左耳に装着しました。防水、防蝕、ワイヤレスの、イヤホンマイクです。
準備万端。さぁ、まずは青森港まで、直線距離にして約625km!
(赤線:まっすぐライン 緑枠:青森港までの5%ゾーン)
現在、午前5時30分――
宣言。「――では、これより“まっすぐ”の旅に出発します!」
声がかすれました。力強くペダルを踏み込みました。チェンがぴんと張りました。フレームがしなりました。タイヤが砂を噛み、弾き飛ばしました。
よし行け、頑張れ、元気でね、という声援に背を押され――こうして、行は旅立ったのです。
目には涙が滲んでいたのでした。