1 茅ヶ崎(6)
夜7時半。家族揃っての夕食です。行はさっそく今日の出来事を報告し、旅立ちの願いを訴えたのでした。
父と母は、頭ごなしに否定はしませんでした。まず、銀行の支店長を務める父、ザイムが穏やかに口を開きます。
「旅はいいものだ。人や物が移動することにより、貨幣も動き、ひいては日本経済が回転するであろうからだ。いや、野暮を言うつもりはない。美しい風景に楽しみ、珍味を楽しみ、その遠き地の空気に酔うのはさぞやロマンチックなことであろう」
「はい。本当にそう思います」
父は言葉を続けます。
「当てのない風任せの旅もよいものだが、テーマを決めて行動する旅もまたよい。私としては、人にはこちらを勧めたい。事前にプランを立てることにより、リスクを下げつつも、より多くの実利を得られるだろうからだ。
しかして、お前はどのようなテーマを希望しているのか?」
ホラ来た! ノンテーマは門前払い、という頑強な意思表示です。ここで話を終わらせるわけいきません。行は心の中で身構えつつ、考え抜いたセリフを口にしたのでした。
「一言で言えば、“神さま”を見つける旅です」
「ほう?」と、促す父。門はとりあえず開いたようです。
「神さまをさらに一言で言うと、“ワイルドカード”なのです。何でも可能、という意味です」
「さて……」
「ぼくは、文太郎さんの病気を治したい。その気持ちを行動に表したいのです」
「お前ではなく、お医者様にお任せする事柄なのでは、ないだろうか」
「同様に、お医者様が決めることでもないはずです。人の寿命をお決めなさるのは神さまでありますから、その神さまにお願いしたら、文太郎さんの命を延ばして下さるかもしれません。ぼくは、ダイレクトに、神さまと交渉したいのです」
「うーむ……」
父は言葉に困ってしまったようでした。少ししてから、反駁してきます。
「では、神さまはどこにいらっしゃるのか?」
単純に、旅先に、と答えたら、このお調子者め、とやられるに違いありません。
慎重に口を開こうとしたとき、母、桜子が会話に加わったのでした。
「お空の上ではないでしょうか?」
焦ったことに、彼女はとても尋常なことを言うのです。うっとりとしながら母は続けます。
「星の世界にお住まいになっているの」
たいそう美しいイメージですが、「それでは困る」のでした。
「なぜなら、真実に宇宙だとしたら、ぼくのようなただの人間がお会いに行くこと叶わないからです。真空ですから、声も届かないでしょう。逆に、それでは神さまは何のために存在するのか、という話になってしまいます。人と交わりを持つと謳うのならば、人と出会える場所に御座って頂くのが筋というものではないでしょうか。お目にかかるのに、多少の苦労をかけさせられるとしても、このさい我慢いたします。それがゆえに――」
「旅なのだ、と言いたいのだな」
と、父は言葉を引き取りました。そして、
「“非日常の世界”こそ、そのお住まいに相応しいのであろうな」と、自分の冗句に穏やかに笑い声を立てられたのでした。
ぼくはそれに勇気を得てなかば叫ぶように許しを請うたのです。
「それでは“ぼくの旅”をお認めになってくださるのですね」
「それとこれとは話は別」
ぼくは心底がっかりしてしまったのです。
「講釈を垂れる以前に、お前はまだまだまだまだ、まだ幼いのだ。リアルに、旅は危険であろう。保護者としては許可できん」
「でも――」
悔しいことに、ここで兄までもが父に加勢してきたのです。
高校二年生の兄、進は、眼鏡を直しつつ話します。
「コオ。君はどうやら、遠き地に格別の思いを抱いている様子だが、一面、その愚かさには気づいていないようだね」
「どういうことでしょう」
「辿り着くのに困難な遠き場所には、神さまがいらっしゃるのかもしれない」
「はい」
「縦しんばいなくとも、その地に住まう民人は、みな高尚なる見識を持った特別な方々なのだ、と。このように考え、憧れているのだろう」
それは決め付けだと思いましたが、
「仮に……そう期待しても、べつだん構わないのでは」
と答えます。
「だから幼いと言われるのだ。彼の地に住まう人々は、自分たちと、コオ、君とだ。心根はそう変わらぬ人たちだ。向こうにも、今頃こちらに幻想を抱いている、君のような男の子がいるだろうさ」そう言って愉快げに笑い声を立て、父も母も和したのでした。
「兄さまは、まるで見てきたかのように、もっともらしく仰る」幾分すねて、ぼくは抗したのです。
心得たかのように兄は即答したのでした。
「この場で簡単に証明できる」
「是非」
「コオ。ここから、一番遠い所とは、どこだ? もちろん地球上としてだぞ。旅の縛りがあるゆえな」
「ここ茅ヶ崎からでしたら……。ブラジルでしょうか?」
「まぁ順当なる回答ではあるが、違う。正解は、地球をグルッと一周しての、まさにここだ」
「詭弁というものではありませんか」
「君は自分の背中を直接見ることはできまい? だから、ここが一番遠くなのだ。さて――」
ぼくの嫌そうな表情を見て、兄はクスリと一度笑んだのでした。
「ここから一番遠くであるはずのここに、なんと君がいたというわけさ」
ぼくを除いた家族全員がまた、朗らかに笑い声を上げたのでした。