5 二日目。栃木(3)
ホテルを出発です。とりあえず国道293号を目指し、県道177号を北上することにしました。二頭の大ギツネを速歩で軽快に走らせます。
朝の空気はすばらしく、天気もいい。快晴です。足は軽快で、その乗り心地は心躍るようでした。さすがに蘭も仏頂面を維持できなくなります。国道に至る前に、自然と並んで走るようになり、風景が開けた場所では、二人と二頭、仲良く並んで記念写真も撮ったりしたのでした。
そして午前10時。
ラインにして約142km。
ホテルから(ライン)21km走った鹿沼市にて――蘭とお別れです。
行はここから国道121号・例幣使街道を北上し、日光市へ。蘭はこのまま国道293号線をつたって、大国道の4号へ行くのです。
正直、別れたくなかったのですが、“まっすぐゾーン”という絶対的な制約があり、強引に納得するしか仕方がないことでした。
(左の赤線・緑枠が行。右の赤線・青枠が蘭。それぞれのラインとゾーン。青線が走行ライン)
蘭がこのまま行の道を行くと、蘭のゾーン、西側の縁に近づきすぎることになります。逆に、行が蘭に合わせた場合もしかりです。
端までの距離は、デジタル的にきっちり数値が定まっているわけではありません。そのような性質のものではないのです。距離は、地形により、測定者により、それぞれ微妙に異なって当然な上に、そもそもゾーン自体が無色透明に「ぼやっ」としているのですから、アナログ的に曖昧です。ですから、過信せず端にはできるだけ近づかないことが肝要でした。
そもそも蘭の条件からしたら、栃木市からすぐに県道2号で宇都宮市へ向かい、そこで国道4号に乗るのが安全だったはずです。ここまで、テーマ“まっすぐ”の行に付き合ってくれただけでも、感謝すべきでしょう。
東京圏から離れるこれより先、ルートの選択はますます限られてきます。とくに東北地方に入ったら、実質的に一本しかなくなるでしょう。離別に関しては、今のうちから、気持ちを慣らしておくべきなのかもしれません。
とはいうものの――
名残惜しいという気持ちは――
なかなか立ち去ってはくれません……。
ふと、面を上げた蘭が、思いつきを口にします。
「二人同時に異世界にいて、さらにはゾーンが一部重なりあってもいる。だったら、二人のゾーンが合成されて、マージンが広がるなんてことも、ありえるかも」
それは可愛らしい願いだったのかもしれませんが、仮にでも、こんな大事な旅仲間を失うなんて想像すらしたくない行は、生真面目に首を横に振ったのでした。
「だめですよ! その事例は今まで確かめられていませんから。試して失敗したら、真実を一つ得ることができる代わりに、その人は“生き殺しの絶望刑”です。トライは絶対だめです」と――きわめてまともなことを言葉にしたのでした。
行としては、良識的なことを口にしたつもりだったのですが――
言ってる途中から口をへの字にする蘭を見ることになったのです。
「わかってます。まったく……。
ちょっと言ってみただけ。――なによ、そんなにいきり立たなくてもいいじゃん。どうせわたしはおっちょこちょいですよ!」
「えぁ――」
どこをどう、スイッチを入れ間違ってしまったのか、彼女を再び難しくさせてしまったのでした。
「えと、あの、あの、あ……」
「じゃ」
プイ、と彼女は向きを変えると、こちらの言葉も待たずに、華麗な駈歩を見せて、293号に、みるみる遠く、小さくなって行きます……。
「の……」
一人取り残された行でした。
やがて、ふぅ、と溜息でした。
気を取り直します。多少は落ち込みました。けど、まだまだこの先は長いのです。挽回のチャンスは必ず回ってくるさ、と今は信じるだけでした。
頭をごしごし。顔を上げ――
ぼくらも行こう――と国道121号にコン吉を進めたのですが、そのときでした。
『ピポッ』
という作動音がし、瞬間、クリアに、『聞こえる?』という声がしたのです。さっきの今です。すぐに反応する行でした。
「――聞こえる! どうかした? トラブル?」
『別に』
勢い込んでいただけに、完全に脱力してしまったのでした。なんだよそれ?
「……そう言えばこの強力なトランシーバーモードだけど、ここの国内電波法に抵触しないんだろうか?」
『切る。ベーだ!(プツンッ)』
「んん……」
そこでようやく。行は、今のはハッキリ失敗だったと悟るのでした。片手で顔を覆います。ぺちぺち叩きます。少し唸って、よし、こっちからご機嫌伺いの通話をするしかない、と決意したのです。が、そのとき――
『ピポッ』
またかかって来たのです。
『聞こえる?』
もう勢い込んだものでした。
「――貴女の素敵な声が明瞭に鼓膜を震わせ、のみならずぼくの魂をも激しく、嵐のように揺さぶっておるのでありますッ。ぼくの心は風前の灯、オーバー?」
今度はうまく行ったようです。がんばれ行。
『ウフフ……あのね?』
「何?」
『当ててご覧?』
わっ? 相手は、機嫌を直してるどころかさらに上機嫌になってるようで、いっぺんに嬉しくなってしまう行なのでした。
「直感勝負第2ラウンドですね? 賭けますか?」ちょっと上ずり声。
『フフン、知らないくせに』余裕の声音です。
「さて、なんだろう?」
もっと情報がほしい。たとえば声の抑揚からなにか感じ取れないだろうか、と耳に集中したときでした。
『わたし今……ハダカなの』
「ぶっ! ボフォッ! コホッ?!」リアルに咳き込んでしまったのでした。
『だってこんな世界なんですもの。構わないと思わない?』
「げほっ、いやちょっとまて――」
『コオも付き合ってくれるよね、とーぜん? じゃ――』
(ぷつん……)
「……ケホッ」
顔が熱い行でした。
これだから女子は! もう……。
少し首を振ります。
いえ、なんともアレでしたが、かろうじて意図は読み取ったと思うのでした。
勘を働かすまでもないです。
これは、挑発であり、仲直りであり、そして罠でした。
確信を持って言えることですが、彼女は、言葉だけです。絶対ハダカとやらにはなってないはずです。
「……」
また、顔を赤らめる行でしたが、すぐ強く首を振って妄想を追い払います。
そりゃあ、ね。旅が自分一人だけのものだったら。ひょっとしてこの世界の住民にならい、どこかのタイミングで全裸での道行きを試してみる一幕もあったかもしれません? ですが、ですがですよ? 同じ日本人がここにもう一人いるという事実を知った今、たとえ百キロ離れていようとも、とたんに、あるいは不思議に、そんな破廉恥なマネはできなくなるというものではありませんか? そうでしょう? そうですよ?
ということは、その彼女の言葉だけの、言わば“遊び”に乗ってやって、口だけでも「言われた通りしました」と返すことが唯一の正解。おふざけに付き合ってやれれば合格で、それが仲直りのきっかけであるのでしょう。
そして、ここで“生真面目”に裸になったら――それこそ“バカ”の烙印、という罠なのでしょう。
行は斯様に自分に言い聞かせ、あらためて手の込んだことを……と思ったのでした。全容を把握した今、逆に余裕の気分で通話アイコンに指を伸ばせたのです。
『ピポッ』
「聞こえる?」
『明瞭に! おお、なんて自信に溢れた声なんでしょう。わかってくれたのね? 期待してもいいってことだよね?』
「大いに」
『ということは?』
「ぼくも今、ハダカですよ」
とたん、でした。
『――プフゥウウウウッゲラゲラゲラ』とでも書きようのないお下品な笑い声が、イヤホンに爆発したのです。音量セーフティがなかったら鼓膜がどうかなったか、というくらい遠慮はばかることのない大笑いで――
なんだなんだ、と思うのとほぼ同時に、しまった! という焦りの感情に襲われて――
案の定、
「――コオの、コオの、へんたーい! 変態コオくうぅぅぅん、きゃはははははっ!!!」
という嘲りの声を拝聴するはめになったのでした。
(ぷつん……)と一方的に切られます。
「……やられた」
つまりは、全部、悪態をつきたいがための、罠だったのでした。
額に手をやります。恨みに思って腐ってしまうのかと思いきや、行は、
「アハハハハ……」
突然笑い出したのでした。
つまり、これで仲直りは、なったからです。それが何よりではないでしょうか?
それに――
「……仕返し券を一枚、もらったようなものだから、ね」
言葉に出して決意を新たにし、策を練りながらウフフと愉快げに笑い――
「行くよ!」
合図するように軽く叩き、元気よくコン吉を襲歩させたのでした。
風切る夏の道路でした。