2 一日目。神奈川・東京(13)
悲劇以降、世論により公的な大規模調査は戒められてしまいました。
代わってその役を担ったのが通称、旅人たちで、それも、彼らの数、個人の資質、勘、幸運、偶然に頼るという何とも肌の粟だつ“手法”にて、少しずつ、命にも等しい貴重なノウハウが、積み重ねられたのでした。木藤文太郎氏は、その系譜を引く一人です。
ちなみに、異世界旅行は法で規制されませんでした。だって、日本は長い海岸線を有する島国なのですから。禁圧は、個人の意識に訴える以外は、現実的に不可能だったのです。
異世界旅行の規則は、現在こう認識されています。
・海岸線から約50m以内が“海”と判定される。(海判定)
・“海”が、スタート地点でありゴール地点である。
・スタート時、“海”を出る直前の、動線の平均線(最後の長さ十数m分)の向きが、行き先の方位と判定され、そこからゴール地点(距離)が決定される。
・距離から幅(約5%)が決定される。
・ゴールに向けて、直線距離にして約2.5%(片マージン分)進んだ所で異世界に転入する。
・異世界にてマージンから外れたら、帰還不可能となる。(ゾーンアウト)
・帰還可能ポイントは、スタート地点か、ゴール地点の二ヶ所のみ。
ワープもマージンも、のちに作られた俗語です。
また、誰が“判定”し“決定”するのかは、分かっていません。しかしながら、まるで“海”が意識を有しているかのような話ではあります。
このルールを使った、少し複雑な具体例をあげます。
“湾特例”として知られるケースです。
“まっすぐライン”の先に湾がある場合、しかもそれまでのマージンで、海判定を避けて向こう岸へ行けた場合、異世界旅行は継続されます。
湾の向こう岸を越した時点で、ルート全体のマージンは、元のスタート地点から新しいゴール地点までの距離を基に再設定され、結果、自動的に広がります。
新マージンを獲得しても、必ずしも新ゴールへ行く必要はなく、その時点で湾に引き返して旅を終了させてもかまいません。
人間は海判定を食らうが、直線は、人の移動に連れて海上を伸びることができる。これが、湾特例が示す、直線の本質でした。
ルールから逆に考えて、個人の危険距離を求めることができます。
その人の身長を1.8mとしますと、全幅は3.6m。つまり“まっすぐライン”は72m。これがギリギリの“まっすぐゾーン”になります。
ラインがこの距離よりも短かったら、最初から死地に赴くことになります。
ということは。
ワープインを回避するルート取りをすれば、海岸との行き来が安全にできるようになるということです。
例えば、その海から(デスロードを避けた)一番近い海の方向を確認し、直進する。“海”から出た時点で横方向へ2.5%以上移動し、ワープインの前にゾーンの外側に脱する。これで、その個人に掛けられたルールが全キャンセルされます。
行は青森港までのルート全図を表示させました。
(赤線:まっすぐライン 緑枠:まっすぐゾーン 青線:走行ルート)
茅ヶ崎海岸から青森港まで、直線距離にして、約625km。
マージンは約31.2km。
片マージンは約15.6kmで、これが綾瀬市だったわけです。
異世界発生から数年後には、全国民にテキストとパムホ・アプリが配布され、回避訓練も実施され――
浜辺にはセーフティエリア、ガイドロード、トラベラーズゲートが設置されるようになり――
潤沢な国庫が解放され、海岸線から50m以上離れた位置に改めて海岸バイパス(道路、橋梁、トンネル)が、国家事業として急ピッチで建造され――
そうして、今日の社会の安寧を、取り戻せたのでした。
現代ではさらに積極的に、異世界から価値ある物産を獲得してこようという、トレジャーハンター的な職業人が生まれるまでになっていて、その代表格が、木藤氏なのでありました。
以下は、その文太郎の言です。(グエンの補足項ゆえ、飛ばしても支障ありません。)
※ ※ ※
まずは宇宙観。
『宇宙は、私たちの宇宙一つだけではなく、無限個ある。』(→多元宇宙論)
『海は、その全ての地球に共通して“生と死の象徴”である。』(注「?」以下同)
『この地球において、いや全ての宇宙において、海は生命の源である。
生命は、遥かな星の昔に、青き海の中に初めて誕生した。その後、生き返り、死に返りを繰り返し、生物としてその種と数を増やし、繁栄を築いて行ったのだ。
ゆえに海は、全宇宙に共通して、生と死の象徴と認識されているのである。』
『無数ある宇宙の最小にして唯一の“公約数”が、宇宙は“有”と“無”、言葉を換えると“生”と“死”の、密接に接触しあってる二つの要素から構築されているという事実だろう。』
『要素が生死の二つしかない、ということは、必然的に、(一つの宇宙の)構造は“直線”であるということだ。
イメージの助けとして、仮定として画が描けるとするならば、生死は、直線の両端なのだ。二つの端があるから長さが存在するはずの、同時に長さがゼロの、あるいは無限の、直線なのだ。』
『(30年前、)この公約数を楔として、別宇宙同士がつながり合ったのではなかろうか。』
そして異世界観に続きます。
『異世界とは、宇宙同士の重なりであり、“接触域”なのではあるまいか。』
『異世界は三次元の世界だが、大宇宙と日本国の面積(?)を比べてみよう。日本は、平面に等しい(それどころか点に等しい)、と言われても納得してしまいそうではないか。』
『高次元世界から見れば、三次元、四次元世界は、ぺちゃんこに見えるのだろう。』
『海から海へ旅するとき、それも直線的に旅するとき、その旅人は知らず、誕生から死滅までの、一つの“生と死のサイクル”をなぞっていたのではないだろうか。
知らず、己が“命”を賭けて、一つの“人生の旅”を、演じて見せていたのではないか。
その命が動く“運動エネルギー”が、異世界への扉を開く、“一種の力学”になっていたのではあるまいか。』
『夜空にサーチライトを照射する。
横から見ているのにもかかわらず、その光軸を認めることができる。
これは、光の粒子が、空気粒子とぶつかって、乱反射するからだ。宇宙の真空空間では起きないことなのだ。
旅人が海から海へ旅するとき、それに先立って“命”の通り道、“まっすぐライン”が、必要十分量で構築される。その際、“命の粒子”が一部散乱し、“まっすぐライン”の軸線の周囲にぼやっと広がるのではなかろうか。これがマージン、と呼ばれる幅の仕組みではないだろうか――』
さらには“物質転換”について、文太郎自身はこう述べています。
『日常空間と比しての非日常空間、いわゆる異世界は、自分に都合の良い自分だけの世界、人生とも言える。その個人世界には、この日常空間で入手できた知識、技術、物品を、自分の都合の良いように持ち込めるのだ。
そして、その個人世界で自得した知識、技術、物品は、そのまんまの姿でこの日常空間に持ち帰ることが出来る。そればかりか、世界に通用するか否か試すことさえ出来るのだ。
異世界のみで人は生くること適わず。この日常空間こそ、紛れもなく真実の世界なのである。』
物理学者でも数学者でもない、逆に“野獣”とも呼ばれた、ただの旅人の、洞察でした。
しかれどもこれが、現代社会に広く受け入れられている、解釈なのでありました。




