1 茅ヶ崎(2)
いつの間にそこに来たのでしょう、一人の髭だらけの大男が、すぐ先の白浜に突っ立っていたのです。
暑苦しい格好でした。
ボサボサの頭に汚れたワークキャップ。腕を捲った、汗に汚れた赤黒チェックのウールシャツ。これまた土埃のニッカーボッカー。傷だらけですが堅牢そうな革登山靴。背中には背負子。そこに、帆布で四角くパッケージした荷物を搭載しています。
日に黒く焼けた顔でした。
その男の顔に、少年は今日初めて意識を集中させたのでした。
――そう、そうです!
間違いありません。
少年は慌てたように飛び降りると、砂を蹴って男に駆け寄ったのでした。そのさまは、まったく、アイドルに憧れる男の子のそれです。
「生きている……」
そんな呟きが聞こえましたが、気が高ぶって、それにおっ被せるように叫んだのです。
「突然失礼します。ひょっとして、木藤文太郎さんではありませんか!?」
その男性はゆっくりと首を回し、少年を見おろし、そして無邪気な笑顔になりました。はたして、
「はい、そうです。文太郎です」
力強い、深みのあるバリトンが返ってきたのでした。
「ファンなんです!」少年はもう、叫んでいたのでした。
木藤文太郎、30歳。その功績は数知れず。高名な登山家であり、ヴェテランの旅人です。
ついには昨年、紫綬褒章の受章もされた、伝説の域にいる人物なのでした。
少年は胸ポケットから、十円玉くらい軽い、JIS-B8サイズの携帯端末・パムホを取り出し、もどかしげに左右に引っ張り、上下に引っ張り、最大のB4サイズに拡張させました。
パネルに画像を表示させます。それは――
『旅とは非日常空間に神を求める遊びである。』
国民的人気月刊誌“旅人”、昨年12月号の表紙。褒章を胸にした、晴れやかな顔の、文太郎の写真だったのです。
それまで毎月のように顔を載せていたのに、その号を最後に消息を絶ち、ファンをやきもきさせていたのでした。ですから、この偶然の邂逅は、少年にとって奇跡にも等しかったのです。
もう、もう目を輝かせて、伸長させたタッチペンを突きつけたのです。
「サインください!」
「これぞ日常だな、アハハハハ!」
どこか、懐かしそうな木藤氏だったのでした。
「――まずは、先に“儀式”を済ませてからだ」
「あっ、ご免なさい」
「では……」
文太郎は波打ち際に向かって歩き始めます。背中の荷物には、『同行二人』と大書されていました。その有名な後姿。少年は目障りにならないよう、数歩はなれて従ったのでした。