脳科学者の願い
「人と繋がることが大切。それがたとえ意味の無い話だとしても、人と繋がりを持つことのほうが重要なんです。例えば――同僚の噂話など…たわいのない話です」
脳科学者、上野博文は会場を見渡して、微笑んだ。四十代半ば、禿げ上がり広くなった額に、頭髪を短くカットしている。にこにこ微笑むと目尻に皺が寄る。
「ねえねえ、聞いて…奥さん! 鈴木さんの奥さんって元ヤンキーなんだって! なんて…そんな話でもいいんです」
上野は声音を変えると、女言葉を使って、演技をしてみせる。
「そうやって人と人の繋がりを作って、自分が安心していられる場所を増やしていけばいいんです。」
クスッ。
私は笑いを堪えることが出来ずに、綻ぶ口元を手で覆い隠した。
そうじゃん。
高名な脳科学者だって、悪口は言ったほうがストレスは溜めないで…健康でいられるって言ってんじゃん。
私は今日、市の主催で行われた、テレビや雑誌で話題の脳科学者、上原博文の講演会に準備スタッフとして参加している。生涯学習センターの会議室に並べられた、パイプ椅子は全て講演を聴きに来た人で、埋まっているので、立ち見の人も多い。
私は立ち見客の中に、心の病になって仕事を辞めたと噂されている、同級生の西山瑠伊の姿を見つけた。瑠伊が社保から国保に切り替えてから、もう何年にもなる。まだ病気を患っているのだろう。
この間も同窓会で、瑠伊の話になった。
「瑠伊、病気だから結婚相手…まだ見つからないんだって…もう相手なんか誰でもいいのにね。うちはもう子供三人目だよ」
「私達と違って…親の所にいられるからだよ」
「だって…もともと男、紹介しても…何回も断ったってよ。安定してる仕事じゃないとか、太ってるとか、性格が合わないとか…」
「あー、だったら…もうしょうがないじゃん」
「つまりさ…結局、瑠伊って――欲張りなんだよね。よくばらなければ、私達みたいに幸せになれたのに」
講演会の打ち上げは会場近くの、地元の料理が食べられる郷土料理の店の、二階部分を貸し切って行われた。
最初の乾杯の後、一時間くらい経ってから、グラスを持って上野の横の席に座った。適当に挨拶を済ませたあと、例の話を切り出す。
「実は人の噂話をしたり、陰口を言ったりするのに…少し罪悪感をもっていたんです。一度、先輩に注意されたことがあって………でも、先生のお話を聞いて安心しました」
「そう、昔から近所の人同士で集まって、噂話をすることで情報を共有していたんだよ。情報交換でもあるし…今はネット社会ではあるけれど、実際、会ったときに自然と会話出来る人が何人いるか、安全地帯をどれだけ弘広げることができるか――ということが大事なんです」
「それがストレス解消にも、なりますからね」
「うん、それぐらいは…あるさ。とくに酒の席ではね!」
その日、帰宅した私は幸福感でいっぱいだった。嫌いだった同僚、女友達の顔などを思い出した。私は間違ってなどいなかったのだ。子供達はもう寝ているので夫に今日のことを話して聞かせた。親しい友達に会ったときに、この話をするのが楽しみだ。私は正しいことをしていたから元気でいられた。正しいことをしていたからストレスを溜めずに済んだのだ。
上野は自宅の書斎で本を読んでいた。
子供が母親を呼ぶ声がする。
上野はため息を漏らす。
女どもが家の外で憂さ晴らしをしてくれないと、こっちがとばっちりを受けることになる。子供に喚きちらしたりもすれば、子供の教育にも良くない。
ニートなど働けるのに働かない人間は、世間に批難されてストレスを与えられれば、それが行動するきっかけになるかもしれない。
実際、世の中から差別がなくならないのは、差別がないと困る奴がいるからだ。
ストレスのはけ口に、されたくなければ、努力をして這い上がるしかないのだ。
子供の泣き叫ぶ声がする。母親の金切り声が聞こえる。
やはり…沈黙は必要だ。
ニートの友達が働かない理由を理解するのに二年かかりました。それぐらい人の心は複雑です。今は仕事よりも癒しが必要なのでは?という思いがあります。
人の良心を信じたいです。女性は本来、母性があり女性らしさとは優しさではないかと考えています。