アリスのいる夢
見張り番が「くるぞ!」と叫んだ。突然大きな声をだしたものだから、声がひっくり返ってしまっていた。僕は兵を配置する。
僕は真正面からこちらに向かってくる、ともすれば、何かの動物の群れのようにも見えるその一軍に目を向けた。しかしもちろん、それは動物の群れではない。それはハンプティー・ダンプティーの群れだった。あるいは顔の一群という表現のほうがよいかもしれない。それは、母の顔。父の顔。二人の弟の、先生の、スーパーの店員の、同級生の、顔、顔、顔――。僕の知っているあらゆる顔がそこにあった。しかし、僕はふと気づく。そこには友人の顔というものが一つもなかった。
「当たり前でしょ。あなたに、友人なんて、いないんだもの」
アリスはまるで僕が察しの悪い人間だとでもいうようにあきれながら、小さい子供に言い聞かせるように、言葉を区切って言った。いや、実際にそうなのだ。僕に友人なんていない。どうしてそんなことも忘れていたのだろう?
「僕に友人なんてものはいない。」僕はアリスの言ったことを繰り返した。
「そうよ。だから貴方は逃げてきたの。母も父も弟も先生も同級生も店員も、みんな恐くてここに逃げてきたの。そうでしょ? 誰も、あなたのことをすっかり受け入れてくれやしなかったの。そしてあなたは、ここなら友達がいると思ったんでしょ? まったく、とんだ馬鹿ね。頭の中身が海綿体なのよ。いい? うすのろのトンマさん。ここは逃げ場じゃないの。欲しいものが手に入る場所じゃない。」
アリスはいつも言いたいことを言いたい放題言う。
「じゃあ、ここはいったい、どこなんだろう?」向かってくるハンプティー・ダンプティーを見据えたまま、僕はアリスに尋ねた。
「ここは戦う場所よ。決まってるじゃない。」アリスはそっけなく言った。
「ねぇ。***さん。」アリスが僕の名を呼んだ。僕は僕の名前を忘れていたが、それが僕の名前だということはわかった。しかし、その名前を記憶の中に維持することはできない。ほんの数秒間さえ。ただ、呼ばれたということがわかるだけだ。
「帰りたい?」アリスが訊いた。僕は「わからない」、と答えた。わからない。
「じゃあ、戦わなきゃ。勝てば負けない。負ければ勝てない。クイーンは貴方。勝利と敗北。貴方はどちらを望んでいるのかしらね?」
アリスの話し方はいつも謎かけのようだ。僕は答えなかった。変わりに刷毛とペンキの入ったバケツを持ったトランプたちに、突撃の指示を出した。
トランプたちは敵に飛び掛るとペンキで相手の顔を塗りつぶしていった。塗られた相手の顔は溶け、のっぺらぼうになって帰っていく。そんな光景が、しばらくずっと続いた。僕もアリスも、黙ってそれを見ていた。ときどき、アリスはつまらなさそうにあくびをした。
そしてついに残ったのは敵のクイーンだけとなった。そいつもハンプティー・ダンプティーの形をしている。ずんぐりとした卵の形だ。しかしクイーンはトランプたちのペンキ攻撃を受け付けない。体全体を覆う大きなヘルメットを被っているのだ。
敵のクイーンは笑った。笑い声が、ヘルメットの中でくぐもって、不気味に耳に響いた。とても聞いていられない声だった。それは声ではなく、不快な音のようでさえあった。クイーンはそのままずかずかと無遠慮に僕の目の前まで来た。そして、その巨大なヘルメットを脱いだ。ヘルメットのしたから顔が現れる。その顔は――。
僕はその場から動くことができなかった。冷や汗がこめかみを伝う。クイーンはフラミンゴの形をした剣を、もしくは剣の形をしたフラミンゴを僕に向ける。フラミンゴが僕に向かって、甲高い締め上げられたような声をあげる。
「貴方は誰から逃げてここに来たのかしら。ねぇ。言ったでしょ? クイーンは貴方。貴方は貴方と戦うの。」アリスは楽しげに言った。僕は動けない。
クイーンがにやりと顔いっぱいに(あるいは体いっぱいに)笑みを広げ、剣を振り下ろした。僕は目を瞑ることもできない。
「3時です!3時!3時!」突然、時計ウサギがぴょこぴょこと飛び跳ねながら、3時を告げた。戦いが中断され、お茶会が始まるのだ。
そこで、僕の意識はいつも途切れる。「3時!3時!」と、時計ウサギの声だけが、いつまでも耳に残る。真っ暗な闇のなかで、チェシャネコが笑う気配を感じた気がした。
見張り番が「くるぞ!」と叫ぶ。僕は夢の中で再び目覚める。横にはいつも、アリスがいる。
「戦わなきゃ。勝てば負けない。負ければ勝てない。勝利は何度でも手に入れられる。負けは一度。それが終わり。あとはない。それまで夢は繰り返す。クイーンは貴方。勝利と敗北。さて貴方は何を望むのかしら?」