僕が必ず忘れること
短編です。
ある種の人間に放浪癖があるように、僕の記憶にも放浪を好む傾向があるらしい。その朝、僕が眠っているあいだに記憶はカーテンをひいて家を飛び出し、青梅線から中央線に乗り換えて、きっと今頃は東京と山梨とのあいだをひたすら往復している電車の優先席で寝そべっているのだ。もちろんそうじゃないかも知れない。わりと近所の公園でブランコをこいでいる可能性だってある。でもとにかく要点だけをまとめると、記憶はその朝の時点で僕の手元にはなかったということだ。僕にとってはそれだけが重要なことである。
あまりに頻繁に記憶をなくすせいで、僕には記憶がなくなったという事態をいち早く察知する能力が備わっていた。どのくらいの頻度で記憶を失うのかというと、毎月の一日目がやってくるよりは控えめだが、毎月の三十一日目がやってくるよりは遥かに積極的という程度だ。年に八回か九回か、もう少し多いかもしれない。その朝僕は電話のベルに起こされて、それが二回鳴ったときにはすでに記憶の不在を察知していた。やれやれ。誰でもいいから記憶に繋いでおける首輪でも発明してくれたら助かるのに。
「もしもし」
と受話器から女の声が聞こえた。当然のことだけど、その声に聞き覚えなんてなかった。さぁどうしたものか。
「もしもし」
と返事をした。僕のように記憶を失うことに慣れている人間なら、これくらいの返事は自然に出てくる。普通の人にはたぶん無理だ。なぜなら普通の人は記憶を失いさえしない。
「寝てた?」、と女は言う。
「うん。今起きた」、と返す。
「きっと起こしちゃったね」
「どうせ起きるつもりでいたから」
「ちょっと申し訳のない話になるんだけど」
「聞くよ」
僕は女の声から、その声の持ち主の姿を想像してみる。たぶん三十歳よりは下だろう。二十八歳か、二十九か? その辺はわからない。しかしとりいそぎロングヘアーであることは断言できる。ゆるいパーマをあてていて、耳のあたりから肩甲骨の下にかけて大きく育ち過ぎたひょうたんみたいな伸び方をしている。化粧は、下手ではないがやや濃い。僕としてはもう少し控えめなほうが好みだ。でもライトベージュのビジネス・スーツはよく似合っている。脚も綺麗だし、スカート丈の長さまで申し分ない。
「もちろんあなたの貴重な休日をこっちの都合で奪い取るというのは、ひどいことだと思うわ」
と女は突然、早口に切り出す。
僕は少し考える。しかしあまりに唐突な切り出し方に困惑する。「うん?」
出来の悪い料理にかぶせた蓋を取るみたいな、申し訳なさげで妙な間が空く。「本当に、人が足りないの」
「休日出勤しろってこと?」
「申し訳ないけれど」
僕は話の筋をだいたい掴む。たぶん彼女は僕の同僚か何かで、そして彼女は今ひどく人手の足りない状況に置かれていて、それで僕のところへ電話をかけてきたのだ。なるほどね。
「なるほどね」
「もちろんこれは、断られたって仕方のないことよ」
「今日って君も休みなんじゃなかったっけ?」、と僕は当てずっぽうを言ってみる。
「本当はね。でも書き入れ時だもの」
「それはそうだけど……」
「それに野本さんにも悪いし」
「まぁ、確かにね」、誰だよそれ。
「そういうわけだから、ね?」
「でもさ、休みはきちんととるべきだよ。もちろん君も」
「本当に。そうできたらどれだけいいか」
「それで」、僕は諦めをつけた。たぶん僕は潔い男なのだ。「今から会社に顔出せばいいの?」
「ごめんね。ご飯でも食べてからゆっくり来て」
「お互い大変だね」
女はため息をつく。「文句ならあとで全部聞くから。現場で待ってるね」
そこで電話は切れる。細い電話線によって結ばれていたふたつの空間の音的連結ががちゃりと絶たれる。それから僕は会社の場所が分からないことに思い当たる。回りくどい嫌味なんか言ってないで何か理由をつけて住所を訊いておくべきだったのだ。
僕は電話機の横にある電話帳を捲ってみる。電話帳を捲って判明したことは、お世辞抜きで僕がおそろしく友達の少ない人間であるらしいことだった。とにかくその電話帳の戦場では圧倒的に空白が優勢だった。マ行とラ行に至っては完全に空白の陣地だった。
好意的に見るなら、その少ない電話番号のリストから会社名を探すのは簡単なことといえた。何しろ会社名はひとつしかない。株式会社うんたら。どこにでもあるような名前の会社だった。記憶が僕の手元にあったとしても、その日の午後の三時には忘れていそうな名前だ。とにかく僕はうんたらの社員で、そこに書いてある住所まで毎日律儀に通っているらしかった。僕はその住所をレシートの裏に書き込んでからスーツに着替えて、休日出勤をするために家を出る。
「立川へ行きたいんだけど」
中年の駅員は疑わしげに僕の顔を眺める。「切符はあっちで売ってるよ」
「うん、それはもちろん」、駅員が指差すほうを見ながら僕は頷く。確かにそこには券売機がある。「でも、どう乗り換えたらいいのかな」
「どうって、いつも行ってるんじゃないの? よく見かける気がするけど」
「たまに忘れちゃうんだ」
「忘れる?」、駅員はびっくりして言う。「忘れるって何が?」
「ただ忘れるんだよ。何線に乗るとか」
「毎日通ってるのに?」
「毎日じゃないよ。休日も挟む」
「休日ってあんたねぇ……」
「とにかく、どうやって乗り換えたらいいんだろう?」
駅員は不吉なクジを引いてしまったときのような、不吉な目で僕を見る。「まず、二番ホームから――」
七分後、二番ホームへやって来た電車に乗り込んで、僕はなんとかひとつの吊革を握ることに成功する。車内は蒸し暑く、様々な体臭のサンプルを集めて系統図にしたような複雑な熱気の層によって成り立っている。時刻は七時半を回ったところで、色々な人間が色々な体臭を発せながら色々な世界へ向かう途中の時間だった。カラーの広告が解体された豚の死体のように不均一にぶら下がっている。電車の中というのは注目すればするほどに奇妙な空間である。
駅員に教えられたとおりに乗り換えていくと、きちんと立川駅にたどり着く。僕は改札を抜けて、ニューデイズでぱさぱさしたサンドウィッチと缶コーヒーを買い、できるだけ正確な地図を買う。僕は北口の陸橋の上でサンドウィッチを食べながら市内地図を開いて、会社がある場所をそこに探し求める。
えぇと、今ここにいて、デパートがそこだから、こっち向きに行って、曲がる。で、二丁目ってこっちか? いや、ふうん、なるほどね。じゃあここか、オーライ。
僕はだいたいの目星をつけて、そこにペンで丸を囲う。あとは缶コーヒーでも飲みながらそこを目指せばいい。サンドウィッチの残りを口の中に押し込んで、缶コーヒーのプルを引き、コーヒーでサンドウィッチを流し込んでから会社を目指す。
しかし丸で囲った地点に会社らしいものは存在しなかった。丸に沿って歩くと、ローソンのまわりをぐるぐると周回することになった。ぐるぐると周回するたびに、僕は何か思い違いをしているのではないかと不安に駆られる。だって電話帳に間違った住所が記されていた可能性だってあるし、そもそもその住所が僕の勤める会社の住所であるという証拠もない。僕はすべての情報に疑心を抱く。僕は戦場で孤立した負傷兵だ。
「山田君?」
今朝の電話の声がしたので振り向いた。そこには紺の作業着を着た女性が立っていた。
「やぁ、遅れちゃって」
「それはいいけど、なんでスーツなんか着てるの?」
作業着を着た女性は僕の足元から頭のてっぺんまで観察して、訝しげにそう言った。この奇妙な状況で、僕は返答に困ってしまう。作業着? この女はなぜ作業着なんか着てるんだ?
しどろもどろな僕の様子に耐えかねたのか、女性は怒りに満ちた表情を見せる。
「作業着は? あなた現場で何するつもりなのよ?」
「仕事を……」
「スーツ着て改装工事にあたる職員がどこにいるの」
なるほど、ローソンの外壁に単管パイプが張り巡らされている。僕はここで改装工事をするはずだったのだ。たしかにスーツを着てやる仕事ではない。深いため息に紛れて、僕は泣きそうになる。
「忘れてたんだ」
と僕は精一杯震えた声で言う。
「え?」
「仕事の内容、忘れてたんだ」
しばらくの沈黙のあと、はっと思い出したように女性は言う。
「あなたね、記憶がなくなったら電話でそう言いなさいって、何度も言ってあるでしょ」
「覚えてないよ……」
僕はついに涙ぐんでしまったが、作業着に着替えるため、とぼとぼと家路につくのだった。
ところで僕が家に帰って最初にしたことは、今日の出来事を日記に書き込むことだった。今度記憶を失ったら、真っ先に日記を読み返そう。そうすれば今日のような失敗はなくなるから。うん、これっていいアイデアだ。
「あれ?」
しかし開いた日記帳には、同じ文章が何ページにもわたって書き込まれていた。日記の中の僕は、どの日もスーツを着て現場へ行き、泣きながら着替えに帰るのだった。ちょうど今日の出来事と同じふうに。
そうだ、僕は読み返すことを忘れていたのだ。
一所懸命書きました。