19話「キクタ式トレニンーグ・セカンドシズーン」
ヤコが極太注射器を俺の首にぶっ刺そうとしてきたので、さすがに自重した。
「こっちは一生懸命やってるってのに、あんただけ何で遊んでんのよ!」
「俺はちゃんとコーチしてただろうが! お前の方こそ頑張ってたのは最初だけで、ほとんど休んでただろ!」
「はいはい、わかりました。いいわ、これ以上言い争うのも疲れるだけだから止めにしましょう。だからほら、早く血を渡しなさい」
「ダメに決まってんだろ」
「なんでよ!? オヤツはもうもらってるじゃない!」
オヤツは真面目に訓練に取り組んだからいいんだ。俺の血(200ml)をジュースらしき謎の液に溶かして嵩増ししたものを口にしている。取っ手がついた、ストローで吸うタイプの水筒に液を入れてちぅちぅ飲んでいる様子は見ていて癒される。
「頑張った子にしかご褒美はあげませぇーん!」
「その言い方むかつく! ああもう、わかったわよ! やればいいんでしょやれば!」
おっと、ようやくヤコもやる気を出したようだ。これ以上からかって拗ねられると面倒なので、今のうちに指導してしまおう。
「それで、何をすればいいのよ? まだ柔軟をやるの?」
「いや、そればっかりやってもな」
柔軟って毎日継続して初めて効果が出るものであって、いっぺんにやればいいというものではない。体力づくりが主要目的なのだから、やることは他にもたくさんある。
「とりあえず腹筋とか?」
「なにそのおざなりな感じ」
トレーニングって言ったら腕立てとか腹筋とか、そういうの想像するじゃないか。断っておくが、俺はごく普通の高校生だった。しかも帰宅部である。当然、コーチの経験なんてあるわけがないし、そもそも筋トレとかしたこともない。過度な期待をされても困る。
「とにかく、お前は見るからに基礎体力が足りてないんだから何でもやってみるべきだろ」
「うー」
唸るヤコをなだめ、腹筋のしかたを教える。まず、仰向けに寝かせる。次に俺が脚をつかんで重しになる、つまり補助だ。いきなり補助なしでやってもうまく上体を起こせない。勢いに乗せて反動で起き上がるようになってしまうと効果がないので注意が必要だ。腕は胸の前で交差して置くように指示する。
しかしここで諸君もすでにお気づきのことと思う。そう、俺はヤコの脚をつかんでいるのだ。このぷにっとしたやわ肌がしっとりと指に吸いつく感覚。そして腹筋の補助と言えば、その体勢を正確に想起してほしい。膝を立てた状態で寝転がるバディの下側からその脚に組みつき、軽く足の甲を尻に敷く形でホールドする。え? 何が言いたいのかわからないって? よく想像するんだ! ヤコのつま先が俺の尻の下にわずかに入り込んでいるわけだが、その位置がちょうd
「補助はいらないわ、このエロリコン」
「補助なしとか馬鹿か貴様死ぬ気か! 腹筋なめたらいかんぜよ!」
「オヤツと交代しなさい」
「ナンデ!? コウタイナンデ!?」
いかん、真面目にやらないと。はい、紳士モードから賢者モードへ移行します。
「初日だから10回できればいいだろう。それくらいならいけるよな?」
「ふん、10回くらい楽勝よ!」
「よし、そのいきだ。じゃあいくぞ。それ、いーち!」
俺のかけ声に合わせてヤコが腹筋を始める。意外にもスムーズにできているようだ。オヤツもそうだが、獣人っぽい外見をしているだけあって、もしかしたら身体能力はそう低くないのかもしれない。
と、思っていたら。
「ろーく!」
「くっ……!」
6回目でわずかにリズムが崩れた。そこから一気に調子が悪くなっていく。
「しーち!」
「……ぬぐう!」
「はーち! ほらどうした、遅れてるぞ」
「ぎゅぎぎぎぎ!」
「きゅーう! がんばれがんばれ」
「むにょうおおおっ!」
9回目にして完全に硬直してしまった。奇声をあげながら体を起こそうとするが、頭だけしか曲がっていない。実に惜しい、後1回なのに。
だが、ヤコもヤコなりに努力しているようだ。弱音を吐かず、諦める様子はない。なんだか、いつも生意気なヤコのそんな姿を見ていると……
(む、無性にイタズラしたくなってくる!)
やっちゃいけないとわかっていながら、どうしても伸びる手を止められない。
「腹筋10回もできないなんてどういうことだい! こんな、ハァハァ、こんなぷにぷにしたお腹してるからだぞ!」
「きゃっ! ちょっとどこさわって、うひゃあ!?」
片手で補助は続けつつ、もう片方の手でヤコの腹部に触れる。ぷにりとした至福の感触。そのとき俺の迷いは消えた。
「いやっ、くすぐるのはダメだってばあははははは! あたしおなか触られるのホント! なしなし! それ以上はやめてええ!?」
「この程度のことで集中を欠くとは何事か! 気合いが足りんわぁ!」
腹筋なんてしている余裕がなくなったヤコは俺の手をどかそうとしてくるが、所詮は非力な子どもの力。俺のゴッドフィンガー、わきわきする手からは逃れられない。くすぐりを続けていると、ヤコの反応がだんだんと変わってきた。目の端に涙をため、笑い疲れにより激しくなる吐息が言い知れない色気を醸し出す。汗ばんだ白い肌に照明の光が反射してキラキラと輝く。身をくねらせて必死に抵抗しようとするヤコを強引に抑え込み、上から見下ろす俺。これはもう犯罪です。
「も、もうだめ! あははは! たえられ、あひゃあああ! らめえええええ!」
ゴンッ!
ひときわ甲高い悲鳴をあげたヤコはついに力尽きた。腰から力が抜けたヤコの上体が崩れ落ちる。そして硬い床に後頭部が激突する鈍い音が響いた。
その明らかに痛そうな音を聞いて我に返った。さすがにやりすぎた。どう考えても俺が悪い。釈明の余地なし。
ぐったりとして動かなくなっていたヤコだが、しばらくするとプルプルと体が震え始めた。これはまずいと思い、そっとヤコのそばから離れる。
「……はぁ、はぁ……あんた、覚悟はできてるんでしょうね……」
「いやあ、そのお、これもトレーニングの一環と言うか、大笑いさせることにより腹筋を鍛える訓練法でして」
「ふざけるんじゃないわよおおおおお!」
どうやらダウンしたように見えた割には元気なようだ。これなら心配いらないだろう。はっはっは。
はぁ……
* * *
「ばかキクタ! かすれろ! かすりけずれろ!」
「痛い痛い! もうそのくらいで許してください!」
斬新な罵り方をしながら分厚い魔道書で殴打を繰り返してくるヤコをなだめる。血を多めに渡したというのに、まだヤコの怒りは収まらないようだ。ふぅ、子どもの相手は疲れるぜ。
「あっ、そう言えばレナはどこに行ったんだ? もしかして訓練が嫌で逃げ出したんじゃないだろうな」
「話をそらすな!」
うやむやにしようという気がなかったわけではないが、レナがいないことは確かである。いつの間に姿が見えなくなったのだろう。全く気づかなかった。この狭いシップの中に隠れられる場所なんてほとんどない。ヤコに叩かれつつ探してみたが、どこにもいなかった。訓練をし始めたころは全員この場所にそろっていた覚えがあるだが。しかし、おかしくないか。いくら俺がはっちゃけていたからと言って、人が一人いなくなればさすがに気づきそうなものだ。
「おい、本格的にレナの姿が見当たらないぞ」
「そうだね。シップの外に出てるのかもしれないよ」
「……レナが誰にも気づかれず、どこかに行っちゃうのはよくあることよ。心配しなくても帰ってくるでしょ」
犬型宇宙人のくせに猫みたいなやつだな。ヤコはそう言うが、女の子が夜中にひとりで家の外を出歩くというのは危ない。探しに行った方がいいだろう。
「ちょっと見に行ってみるか」
「そう? 私も一緒に行こうか?」
「ああ、来てくれると助かる」
オヤツが同行してくれるようだ。モンスターが出没する外界を俺一人で見回るのはかなり不安だから、正直この申し出はありがたい。
「あたしは行かないわよ」
「じゃあ、ヤコは留守番な」
ヤコが異空間に外へとつながるゲートを開く。帰りは無線機で連絡すれば、そのときにまたゲートを開いてくれるようだ。俺の首輪にも無線機がついているらしい。そういえば、レナはどうやってこの異空間の外に出ることができたのだろうか。疑問はあるが、とりあえず捜索を優先する。
外に出ると空気のにおいが変わった気がした。やはり風の流れがある屋外は解放感があって気持ちがいい。虫の鳴き声がよく聞こえる。
外は予想以上に暗かった。電灯がそこかしこにあることが当たり前だったころの感覚からすると、恐怖を感じるほどの暗さがある。だが、矛盾しているようだがそれと同時に明るかった。それは晴れた夜空から降り注ぐささやかな光の恵みだった。月や星がこんなに明るいものだなんて、つい数日前の俺は気づいていなかっただろう。
「あそこにレナちゃんがいるよ!」
オヤツが示した方向に目を凝らす。暗くてよくわからなかったが人影のようなものが見えた気がする。案外、レナはそう離れたところまで行っていなかったようだ。近づいてみると塚のように盛り上がった草地にちょこんと座っているレナを見つけた。
「なにしてるの?」
オヤツが話しかけると、レナは空を指差した。そちらに目を向けてみたが、特に何もない。あるのは星空だけだ。いや、レナはこの空を見ていたのだろうか。
綺麗な景色だ。あいにくと俺は星座に関する知識なんて持ち合わせていないので、単に綺麗だと言う以外の褒め言葉が出てこない。それとも異世界の星の配置は俺が前いた世界とは異なるのだろうか。
「ロマンだねぇ」
とりあえずこう言っておけば数寄者っぽさが出るのだ。うんうん。
そこで、レナが唐突に俺の方へ向きなおった。なんだ、今の俺の発言に対するダメ出しか。なぜかレナは正座の姿勢に座りなおして、たたずまいを正していた。
「どうした? 星空だけに正座で星座を見ます、ってか?」
「……」
やめてよ、その『今の発言は聞かなかったことにしてやる』的な顔するの。
「膝枕ですなのー」
俺の予想はかすりもしていなかったようである。レナは膝枕がしたいようだ。さあ来い、といった様子で自分の膝をポンポン叩いている。なにがしたいのか全くの謎だが、女の子からの膝枕コンタクトを受けて遠慮するのは男がすたるというもの。そこに理由などいらない。俺は膝枕されるぞ、レナーッ!
「ではありがたく!」
モンスターが徘徊する危険地帯であることも忘れて無防備に寝っ転がった俺は、レナの膝の上に頭を預けた。側頭部に感じる太ももクッション。それは地球上のあらゆる高級素材を用いたとしても再現不可能な心地よさを誇る。耳のあたりを包み込むように感じるやんわりとした感触と体温のぬくもりがなんとも言えない。頭の向く方向を上に変えれば、こちらを覗きこむレナと視線が合い、そして広がる絶壁の光景。しかし、ほんの少しだけ申し訳程度に主張する二つの膨らみが見て取れる。むしろ、それがいい。それと少女の香り……おっと、これ以上の感想は控えておこうかな。
「あー、キクタくんいいなぁ」
「ふっふっふ、うらやましかろう」
さらになんと、レナは俺の頭をやさしく撫で始めたではないか。なんという天国。ここが涅槃か。なんでこんな高待遇をしてもらえるのかさっぱりわからないが、とにかく最高だ。俺はいつの間にかレナの好感度をうなぎのぼりにさせていたというのか。
それにしてもあまりの心地よさに気持ちが緩んだのか、眠くなってきた。いかん、こんな幸せ体験中に寝てしまうなどもったないなさすぎる。だが、もっと堪能したいという気持ちと裏腹に、睡魔はどんどん深く侵攻してくる。昼間の戦闘の疲れもあってか、遠のく意識を保てない。おのれ、さすがはレナの膝枕の威力であったか。
こんな危ない場所で寝てしまったらレナやオヤツに迷惑がかかるかもしれない。でもダメだ、限界だ。ちょっとだけ、1分でも2分でもいい。何かあればすぐに起きるから、少しの間だけ……
「あれ? キクタくん、眠いの?」
「しーっ」
「ご、ごめん……」
レナとオヤツが小声で何か話しているようだが、うまく働かない頭では何を言っているのか、その内容まではわからなかった。満点の星空が次第にぼやけていく。まぶたを閉じたのに、不思議と星の光がまだ見えているような気がした。