八.終章
それから一カ月した真夏のある日、順調に回復した家田健君が退院した。
何度もお辞儀をしてお礼を言う家田夫妻に、俺は「本当に良かった。これからは外来でお会いしましょう。定期的な受診と検査は欠かさないで下さいね」とアドバイスした。俺の後ろで後藤舞も健君に手を振っていた。彼らが病棟のエレベーターに消えると、舞が「本当に良かった」と晴れ晴れと言った。
翌日、外来をしていると昼過ぎに眼科外来から電話です。と看護婦に言われた。俺には心当たりはなく、何の用だろう?と受話器を取ると「忙しいところゴメン」と梅村智恵の声がした。
「何だ。どうした?」俺が言うと彼女は、
「今夜か明日、少し時間を頂けない?」と言った。
「今夜ならいい」今夜は舞が当直なので一人で夕食を済まさなくてはいけなかったから、ちょうどいい。
「じゃあ、前に食事した中心街の『とり重』で七時に待ってる」
「わかった」
「じゃあ」彼女は手短に用件だけ話すと電話を切った。
そうと決まれば、とにかく仕事を早く済ませないといけなかった。俺は梅村と会える喜びで張り切って仕事をした。途中で看護婦に「先生、絶好調ですね」と言われた。女の勘は実に恐ろしい。
中心街の少し奥まった通りにある『とり重』には七時五分前に着けた。去年の梅雨の夜に梅村と一緒に飲んだ小さな個室に案内された。梅村智恵は、すでに小さな座敷の出入り口側に座っていた。
「突然、呼びだしちゃってゴメンね」カーキ色のタイトスカートに白いブラウスを着た梅村が、すまなそうに手を合わせた。
「いや、会えて嬉しいよ」俺は正直に言った。
「まずビールでいい?」
「うん、喜んで」
二人、ビールで乾杯した。
梅村は今、郊外のアパートに住んで、週に四回ほど非常勤医として九時から五時まで働いていると俺に話した。俺は彼女に訊きたい事は山ほどあったが、彼女の話を黙って聞いていた。
二杯目に頼んだ焼酎を飲み干す頃、梅村は思いきるように口を開いた。
「私…、未婚の母になったのよ」
「え!」俺はあまりの驚きで言葉を失った。一体、誰の子を産んだんだ?
「救世主兄弟って言葉を知ってるよね」梅村が言った。
「もちろん、よく知っている」
俺は家田健と卓の幼い兄弟を思い出した。あれは俺が差し金を引いて出来た『救世主兄弟』だ。本当にあれで良かったのか?と時々思う。でも現実に、死ぬ公算の強かった健君が元気になって退院できた。
「二年前に姪が骨髄異形成症という難病になっちゃって、輸血や造血剤の点滴入院を繰り返していたの」梅村はそこでフーと一息吐いた。
骨髄異形成症とは骨髄が働くなる原因不明の病気だ。白血病ほど悪性ではないが、骨髄移植をしないと徐々に貧血がひどくなっていずれ死に至る病だ。
「姪とは近藤先生の娘さんだよね」俺は念を押した。
「そのとおり。つまり私の姉の子。姉が死んでからずっと実家で一緒にいた姪は、私に凄く懐いていたので可愛かった」
「そうだろうなぁ」姉さんと一番近い遺伝子を持っているのは君だから子供も懐くだろう、と俺は彼女の言葉を心の中で補足した。
「義兄の近藤准教授から、娘を助けるために協力して欲しいと必死に頼まれた。私もこの子を助けたと思った」
梅村の話を聞いていた俺の頭がパッと閃いた。自分の娘を自ら治療していた近藤先生は、自分の娘に骨髄を提供するドナーが見つからなかったので、窮余の一策として『救世主兄弟』を作成しようとした。だが肝心の奥さんは胃がんで亡くなり既にこの世にいない。そこで奥さんと最も遺伝子型の近い妹の梅村智恵に白羽の矢を立てたのでは?
「それで救世主兄弟造りのために人工授精を受けたんだ」と俺は言った。
「そう。できた子供は、義兄の子として一生面倒みると言われた。でも人工授精は思ったよりも辛かった」梅村は淡々と語った。
「そうか」
「その後十カ月間、自分の胎内で子供を育てるうちに母性本能と愛着が日増しに湧いてきた。そして自分の腹を痛めて女の子を産んで母乳で育てているうちに、この子は絶対に私の子供として育てたいと思うようになった」
「女なら、そして母親なら当然の感情だ」
「だから私は生まれた子を自分の子供として登録した。戸籍では未婚の母だけど、それでもいい。絶対に手放したくない」
「…今は幸せかい?」
「うん、この子のためなら何でもできるという気持ちが日々成長している」梅村が微笑んだ。彼女の顔が輝いて見えた。
「君が幸せなら、俺は何も言うことはないよ」俺は好きだった女を奪われたような気分だったが、彼女の幸せが何より一番大事だ。梅村が今の状況を喜んでいるなら、それを祝ってやるのが大人の男だと考えた。
「おめでとう」俺はやっとの思いで彼女に言った。
「本当にそう思ってる?」梅村が切れ長の眼を少し潤ませて俺を見た。俺は彼女の目を見つめ返した。
「私の一番好きな男はあなた」梅村が俺の目を見たまま言った。
そんな…、俺だってそうだよ。と言いたかったが俺は言葉にしなかった。それを言ってしまうと、何もかも崩れてしまいそうな気がした。
「貴方にホテルで抱かれた時、実は受精卵を妊娠して三カ月だった」妊娠中に他の子供を受胎することはできない。だからあの晩、彼女は安全日だと言ったんだ。
「あの時、貴方に思い切り抱かれて、身ごもった子が流産したら私は貴方の下に走ろうと思った。いや、子供が流れればいいとさえ、あの晩は思っていた」そう言えばあの晩の彼女は、胎児に悪影響のある酒もたくさん飲んでいた。
「…もしそうなっていたら、姪子さんは助からない」
「でも、女としての一生を考えて迷っていた。姪を助けるために義兄の子供を産んだら、私は好きな男と結婚をする人並みの幸せは一生得られない。決心して妊娠したはずだったのに、私の心は揺れに揺れていた」
「葛藤だね。辛かったね」
「そう。だから、貴方と思い切り愛し合って、運命を天に任せてみたいと思った。賭けてみた」
「…でも結局、赤ちゃんを無事だった」
「そう。そして出産も無事にできた今は、女の幸せよりも自分の子と生きたいと思うようになった」
「母性本能は性欲に勝るというからね」
「フフ、そんな言葉は初めて聞いたけど、そうかもね」梅村が笑った。
「先月、私の子から姪への骨髄移植が無事に終わったの」梅村が肩の荷を下ろすように天井を見上げてふと息をついた。
「近藤先生が執刀したの?」
「もちろんよ。先週、姪に骨髄が生着したので退院もできた」
「それはよかった」俺は、近藤先生が東洋病院で行った骨髄移植とはこのことだったのでは?と思った。正式には認められていない治療法を、自分の勤める大学病院で始めればすぐに話が広まって上層部から止められるかも知れない。一方、民間病院で不妊治療もやっている東洋病院なら上司や同僚の目からは隠れて秘かに『救世主兄弟』を造り移植ができる。
「ところで梅村は何処に勤めているの?」
「母子家庭だから生活をかけてバリバリ働いているわ。平日の九時から五時は東陽病院の眼科で、週末にはコンタクトレンズ屋でアルバイトをしているわ」梅村の口から東陽病院の名前が出てきたので、近藤先生が梅村の娘から自分の娘に骨髄移植を実行したのが東陽病院だと確信した。
「子供は?」
「平日は保育園、週末は実家に預けてる」
「…ところで君はなぜ東陽病院で働けたんだ? あそこは帝大傘下の病院のはず」
「やだ、うちの父は帝大出身なの」
そうか、梅村のお父さんの口利きか!
梅村の父親も孫は可愛い。しかもその孫は可愛い初孫、その子を助けられるならと全力を尽くしたに違いない。『救世主兄弟』の話を近藤先生から聞いた梅村の父親は、秘かに東陽病院で孫の治療が出来るように手配したんだ。これで梅村と近藤准教授にまつわる数々の謎がすべて明らかになったと思った。
待てよ…。
家田さんは近藤先生の紹介で人工授精をして『救世主兄弟』を作ったと言った。日本では前例のない治療法を彼らは実現できた。
近藤先生は家田親子を、自分の娘の試験台にしたのではないだろうか。体外受精の技術を持つ東洋病院を梅村の父親から紹介されたものの、初めて行う治療は一度やってみないと自信が持てない。家田夫妻が、俺の話した『救世主兄弟』について病棟で話し合っているのを近藤先生は偶然小耳にはさんだか、秘かに相談を受けた。近藤先生はそのような救命方法を家田夫婦が知っている事に驚きつつも、彼らを秘かに東陽病院に導いて救世主兄弟の作成を試そうとした。近藤先生の事だから夫妻にはきちんと説明して同意も取ったのだろう。
その結果、家田夫妻は救世主兄弟の製造に一発で成功した。これで自分の娘も救えると近藤先生は確信した。医学者としての冷静な治療手順と同時に、愛娘を救うための痛々しいほどの親心を感じる。
「もう私、帰らなくちゃ」腕時計を見て梅村が名残惜しそうに言った。
「もう?」
「うん、娘を実家に預けてある。私は明日も仕事だから朝から保育園に送って行かないと」そう言った梅村の目が何処か寂しそうに見えた。
「近藤先生と結婚する気はないの? そうすれば養ってもらえるし扶養控除とかも受けられる」俺は自分の感情を押し殺し、梅村の心配をした。
「それはないわ。テレビで例えると近藤先生と姉は二人ともNHK。私は民放のバラエティみたいな人間じゃない? ぜんぜん合わないわ」梅村は即座に答えた。
「うーん」
「それに義兄と一生を共に暮らすなんて御免だわ。私は一緒にいて楽しい人がいい」梅村はそう言って俺の目をじっと見た。まさか…、俺と暮らしたいと言いたいの?
俺は梅村から視線を逸らした。俺は今も梅村を好きだし憧れている。そして、初めて彼女を抱いたあの感激も忘れられない。梅村と一緒に暮らす事は楽しくて幸せだろう。
でも今の彼女を受け入れるには、彼女の娘ごと受け止めなければならない。近藤先生の子供とわかっている娘を俺は育てられるのだろうか?
それに今の俺には舞がいる。今や彼女は俺の公私にわたる重要なパートナーだ。俺が何も言えずにいると、「ありがとう。…たまに会ってくれると嬉しい。さあ、帰りましょう」梅村は言いたい事を言い終えたのか、爽やかに微笑んで立ち上がった。
店を出ると台風の接近に伴う雨がスコールのように降っていた。二人の肩を雨が濡らし、俺たちは通りかかったタクシーを停めて乗り込んだ。
「去年も、こういう場面があったね」タクシーの車内で梅村が俺に言った。
「ああ、そうだったね」
「あの時、斉藤君に口説かれていたら私、どうなったかなぁ…」そう言う彼女は窓の外に憂いに満ちた視線を移した。窓には無数の雨粒が叩きつけられては後方に流れて行った。
そうだ。あの時、俺がもっと強く行動していたら梅村と結ばれたかも知れない。でもそうなると、梅村の姪には救世主兄弟が生まれず死んでいたかも知れない。どちらが正しい行動だったのだろう?
タクシーが森林公園近くにある彼女の実家に着いた。「じゃあ」と軽く梅村は俺に挨拶すると、モデルハウスのような家の中に姿を消した。彼女に何か言ってやりたい。でも何を言えば良いか、わからない。俺はどうしたいのか? 俺はどうすべきなのか?
後ろ髪を引かれるような気分のまま、俺は運転手に自分のアパートへ向かうよう告げた。
土砂降りになった雨の中を俺はアパートの部屋に帰って熱いシャワーを浴びて、それから小さな居間のソファーに横になった。テーブルの上には舞の医学書が置いてあった。舞と一緒にいる事は幸せだ。でも俺が本当に愛しているのは、梅村なのかも…
そう考えているうちに俺はまどろんだ。
梅村が小さな女の子と立っていた。俺に気がつくと、梅村は大きく両手を広げて「待っていたわ。こちらに来て」と微笑んだ。
俺が行こうとすると、いつの間にか俺の横にいた舞が無言で梅村を睨みつけていた。
「先生」妙にリアルな夢から目覚めると、舞が俺の前にいた。
「こんな所で寝ちゃって、風邪をひきますよ」舞がやさしい笑顔で俺に言った。
「ああ、いつの間にか眠っていた。あれ? 当直は?」
「もう朝ですよ」そう言うと舞は俺にかぶさるように抱きついてきた。
俺は何かに執りつかれたように舞を押し倒して裸にすると、狂ったように舞を求めた。彼女も激しく反応して悶えた。
俺が熱い彼女の中に押し入ると、舞が「下さい」と形の良い胸を震わせて言った。もしもこれで子供が出来たら、それが俺の運命だと五感で感じた俺は思い切り舞の中で果てた。二人とも汗まみれになって、息を切らせて横たわった。
しばらくしてコーヒーを淹れようと起き上がって窓を見ると、また雨が降ってきた。朝の雨が水色に光った。
起きてきた舞が雨を見て「きれい」とつぶやいた。俺は黙って彼女の肩を抱いた。